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その後の記録 『独白』へ
- 2006.12.23
- 素朴実在論である実在世界に特異点としての私=主観=自意識を位置づける二元論
- 「解釈」は不明な部分を補って対象を捉える。「理解」は不明な部分を確かめて対象を捉える。例えば目の前にある立体を見て「立方体である」と捉えるのは解釈である。手にとって回転させ、あるいは周囲をめぐって確かめるのが理解である。理解は確かめた知見によって対象概念を構成すること。
- 「のだめカンタービレ」は余りにも有名になってしまったが、それ以上に昨日単行本最新刊が出た「ピアノの森」がお勧め。
- 2006.12.4
- 2日に第22回哲学道場。結局すれ違うのは「私」を主観性、独我性に封じ、実在との二元に分けているかどうかによるのだろう。「私」を封じ込めねばコペンハーゲン解釈、共同主観論のように「私」が実在世界に迷い出ることになる。
- と、思い当たって詩「哲学」ができた。
- 2006.11.26
- 江東シーサイドマラソン大会でハーフ1時間53分35秒。今年も走れた。
- 2006.11.25
- 若い人たちの輝きも素晴らしいけど、積み重ねた到達点も素晴らしい。都響定期、指揮:エリアフ・インバル、ピアノ:エリソ・ヴィルサラーゼは言葉は不用。
- 2006.11.7
- 先週土曜日11月4日に第21回哲学道場。私の子供と同じ年代の人に伝わることと、伝わらぬこと。伝わらぬのは違いすぎるからなのか、私が誤っているのか、表現が下手なのか。
- あと3章で第二部改訂が完結するというのに。第三部実践論は論点整理だけだから実質最終段階に来ている。にもかかわらず、要点を押さえきれない。
- 2006.10.31
- 荻原浩著、光文社刊、「明日への記憶」映画化もされたアルツハイマーの小説。短期記憶がプツプツと切れるこの頃は自分のことのよう。アルツハイマーでなくともアルコールによるダメージが相当に蓄積されているはず。「意識」の有り様についての意識が自分だけの特異なものでないこともわかる。
- 2006.10.22
- 5,000円を超えるコンサートを聴くのはついぞ記憶にない。さすが超一流のダン・タイ・ソン。474席のホールには収まりきれないスケール。音楽はメロディー、リズム、ハーモニー等意識して聴いているうちはなじめない。意識しないで感じられるようにならなくては。意識しているうちはふと余計なことがついつい浮かんで気を捕られてしまう。良い演奏は余計なことを意識することが少ない。
- 2006.10.21
- 「意識の唯一性」についてこう表現すれば分かりやすいかも知れない。知覚には非意識と無意識と意識がある。非意識は大脳皮質以外での認知処理である。無意識は大脳皮質での非意識を対象にする認知処理で意識可能であるが意識ではない。意識は無意識を再帰的に対象にする大脳皮質での認知処理である。これらはすべて認知処理として神経系に媒介された情報処理過程である。無意識は非意識がもたらす感覚を入力情報として、出力情報によって運動系を制御する。無意識は各種情報を並列処理しているが、意識は単一処理しかできない。複数の感覚、感情、思考を感じていると思うのは意識が時分割して切り替えて対象にしているからである。意識はノイマン型であり、割り込み処理は無意識が担い、意識は割り込み処理を制御することはできない。従って意識の軌跡は単線であり、単線の記憶として自己の唯一性が意識される。
- 「秩序」は本質である。現象では秩序は環境・条件との相互作用によってそのままの形を表さない。「水が高いところから低いところへ流れる」のは重力秩序の現れであって、水の運動秩序ではない。秩序は有意な相関関係のことではない。秩序は見いだせるものではあるが、主観的なものではない。秩序は普遍ではあるが、不変な秩序はありえない。秩序は存在を実現する機序のことである。その機序を論理によって表現したものが法則である。
- 2006.10.14
- 世界の有り様の基本的理解が前提になければ真理が示されても評価できない。まさに世界の有り様、世界秩序の理解であって、知識でなく、秩序形式を論理的にたどる経験、訓練が必要になる。学問も一つの方法だし、ひたすら自己を見つめることも一つの方法だ。科学知識の獲得ではなく、稚拙でも科学することが必要だ。老いぼれの戯言か?
- 2006.10.12
- 人間の尊厳や誇りに価値を認めなくなった「この国を美しくする」のだそうな。でも、やはり人間は素晴らしい。今夜「セキュエラ・コスタ ピアノ・リサイタル」。私など知らないすごい人が世界には沢山いると言うこと。そうした人達に接することで希望がもてる。
- 2006.10.8
- 昨日第20回哲学道場、「理性」で伝わらなかったことその1。「秩序」は存在秩序、運動秩序であって「社会規範」としての秩序や神学体系の秩序ではない。認識する秩序、解釈された秩序ではなく、物事を実現している秩序のことである。存在秩序の規定性を論理によって捉え、表現したものが法則である。存在秩序は個別の対称性として個別を他から区別する客観的形式である。したがって個別性を認められない神とか霊の存在秩序を対象にすることはできない。
- 伝わらなかったことその2。意識が一時に注意できるのは一つの対象である。「意識」を「主観としての意識」と言わなかったことで伝わらなかったのだろう。「両手を合わせた時には複数を同時に意識するではないか」「右手にドライアイス、左手に焼けた石を持たされたらどう感じるか」と反論された。思考は意識なしでも処理している。思考は複数を並列して処理している。しかし、意識した思考は同時に一つでしかなく、複数の思考は時分割処理=タイムシェアリングによって意識可能なだけである。感覚対象を意識して注意できるのも一つとして対象化できる個別でしかない。感覚対象に注意を向けている時には思考を意識することはできない。結局「意識」の定義を了解し合わなかったことによる混乱である。レジュメの冒頭に掲げた「理性は意識、認識、思考、論理とかかわり、この間の関係を整理しておかないと議論は混乱する。」通りになった。私が独我論にも通ずる主観的意識にこだわるのは、主観的意識の唯一性が自己のアイデンティティーを実現しているからだ。唯一つしか対象化しえない一つの意識経験の記憶が自己同一性として保存される。
- 2006.9.13
- 一昨日、昨日とコンサート。連夜なら私にもオーケストラの違いがわかる。話題性や曲目が売りだとチケットが安くてもそれだけ。昨夜の「イワン雷帝」では感じ入ってしまった。自信をなくして鬱になっても目標を見失わずに、できることに取りくみ続けるしかない。
- 2006.9.11
- 次回哲学道場のレジメ「理性」をアップした。
- 2006.9.5
- クリストフ・コッホ著「意識の探求」は「ゾンビ・システム」「非意識ホムンクルス」といった用語を用いているが、方法論以外に異なるところはない。自説が否定されていないことで多少の自信になる。
- 改訂作業はいよいよいわゆる社会科学分野に至り、頭の使い方が違うように感ずる。それにしても今時の経済学では「価値論」など消滅してしまったのかな。
- 2006.9.2
- 本日第19回哲学道場、「理性」だが、私には論理ステップをたどる集中力は失せていて、論議には乗れなかった。次回も同じ「理性」で私がレジメを用意するということで勘弁してもらう。
- 2006.8.28
- 「第9章 注意と意識」まできてようやく分かりかけた。「意識」概念が違う。私にとって「注意は意識を制御する再帰する意識である」が、彼らにとっては「注意」と「意識」とは別物だ。彼らにとって「意識」は様々な感じから意思を形作る素だ。意識が同時に複数を対象化できるというのなら、自己同一性はどうやって成り立つというのか。
- 彼らは「結びつけ」の問題を立てるが、私には重ね合わせでしかない。人は解析した表象要素を対象に重ね合わせて対象をとらえている。現実に対象を一つの存在として経験している。意識が何らかの未知なる工夫によって表象要素を結びつけ、全体表象を組み立てる必要などない。あるいは対象に投影する必要もない。解析した表象がピタリと対象に重なり合うからクオリアを感じる。ずれるから錯覚が生じる。重ね合わせは実在対象だけでなく、仮想によってもできる。なにしろ経験した対象についてなのだから。認識経験をこのように処理できるものが淘汰されてきた。
- こんな風に専門家とはまるで違う解釈をするから見向きもされない。
- 2006.8.26
- ペンローズの「チューブリン」といい、コッホといい、西欧人は(と概括してはいけないのだろうが)どうしてアッケラカンと即物的なのだろうか。ホフスタッターのように非即物的な人もいるけど。意識を担う「NCC」なんてあるわけないだろう。生命をとらえようとタンパク質やゲノムの性質を解析するようなもの。しかも、意識の対象化の変幻自在性を無視して、最高の自己意識以下が意識がある時には常に存在するかのような理知主義的なとらえ方で意識を追求できるとは思えない。
- 2006.8.22
- クリストフ・コッホ著、岩波書店刊、「意識の探求 神経科学からのアプローチ」読み始め。意識の対象性を考慮していないのが癪に障るが、最新の成果の勉強と云うことで期待している。とりあえず、「運動によって引き起こされる消失錯覚」のデモ[閲覧するには"QuickTime"が必要]を紹介する。
- 2006.8.8
- 第二部第二編 「第6章 人間の誕生」を改訂した。
- 2006.8.4
- 第5章で歌舞からの言語発達を協調するあまり、言語の指示性を無視したかの表現は改めなくては。
- 本日第18回哲学道場、「生命」。今の若者は「理性」的であることを比較し、線形に並べることができると思っているらしい。成績やIQで選別してきた学校制度のせいかな。何らかの測定法で統計量は算出できても、定義できない量を比較することはどだいできないはずなのに。
- 2006.7.29
- 中沢 弘基著、新日本出版刊「生命の起源 地球が書いたシナリオ」に、粘土鉱物の有機物との相互作用を解説している。生物進化以前の、生命創造の段階から自己組織化の必然的過程と淘汰の歴史的過程とが地球規模の変動の中に実現したという。
- それ以上に私的に驚いたのは、地球初期の大気は還元的ではなく酸化的であったとのこと。したがって第5章を訂正した。酸化と還元の私の理解自体からして間違っていた。焼き物の焼成でもどうも良くわからなかったが、無知を露出してしまった。
- 昨日まで伊豆大瀬崎にでスクーバ・ダイビング講習を受けてきた。初心者講習も2回目なので余裕をもて、自信もついた。
- 2006.7.24
- 今日は仕事だというのに、夕べからTV「鼓童meets玉三郎 新たなる創造へ“アマテラスに挑む”」を最後まで見てしまった。前半の解説があったから私にも分かりやすかった。舞台はほとんど興味ないが、井田均の“夕鶴”、学生時代の滝沢修、以来楽しかった。
- 2006.7.23
- 5月13日付で取り上げた瀬戸 明著「存在と知覚」について、半端なコメントしたままではまずいので云い終えておく。手にとって、どうも怪しい感じがして放置していたが、第6章がほぼ仕上がったので読み始めた。第1章だけで終わり。初っ端、ハンカチの色を物の性質として取り上げている。その先で“未知なる物”を未発見の石油に例えている。やはり、主客二元論を認めないと、行き詰まったりした時に観念論に取り込まれてしまうみたい。この場合の「観念論」とは著者が結語で述べているように、哲学的物自体を物理学に矮小化することなく「哲学固有の「実在」問題」として解決なくてはならないという立場のことだ。
- 今朝の新聞書評欄にスティーヴン・ミズン著、早川書房刊「 歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化」が紹介されていた。5月28日付のウィリアム・ベンゾン著「音楽する脳」も良かった。もう第5章は公開してしまったが、早く読まなくては。
- 2006.7.21
- 明日から夏休み。今日の夕刊「米グーグル、純利益倍増」とある。サンザお世話になっているGoogleだけど広告収入で成り立っている「会社」だ。金のある人は必要なモノを買うのではなく、広告で金を出すんだ。それだけで経済が回る世界、社会なんだ。「回り」に取り残されたら「人間」として生きていけない。それでも、それぞれ、人は自分の人生を歩めるのに。取り残された人の上で。
- 2006.7.20
- 主権在民のこの国で、今朝のニュースほど捻れを象徴するモノはない。ネット上の各社に残る記録では日経07:00、朝日11時12分、読売13:01、産経16:00とある。情報がどう公表されたか、各社でどう評価されたか興味あるところ。主権在民を主張する発言が、象徴であれ天皇の「御言葉」を公表しなければならないまでに衰えていること。
- 序でに言うと、マスコミの皆さんは報道の主語を明らかにしてください。ニュース・コメントの「…が明らかになりました」「…が分かりました」の主語、あるいは主体は誰?先取権者?当局?取材者?視聴者?取材競争で出し抜かれたくはないだろうが、ぼやかすことは世論操作につながる。
- 2006.7.19
- 自称「共同主観論者」と議論するためには廣松 渉の著作に当たらなくてはと思っていたら、岩波書店刊「新哲学入門」があった。新書の入門書ならと読んだが全然分からない。人の理解を求める努力が感じられない。分からない者としては切り捨てられたような感じ。
- 野矢 茂樹著、産業図書刊「他者の声 実在の声」日本にも楽しく哲学を書ける人がいると嬉しくなった。ところが中に出てきたのが例の廣松渉、野矢が語るのだから分かるだろうと期待したのに全然分からない。別件、紫式部の存在を問うた箇所がある。紫式部は存在したのであり、存在を問うことはできない。存在を問えるのは現在の物事だけである。過去も、未来も存在は問えない。存在とは現在の相互作用関係にあることなのだから。存在した物事は現在の関連の中、例えば翻訳された源氏物語やその他の関連をたどることで存在したことを確かめることができるだけである。同じく存在しない過去を変えることはできない。
- 第6章を改訂していて7月1日に用意した「意識」も訂正しなくてはならなくなった。
- 2006.7.10
- 第二部第二編 第5章 生命の発展を改訂した。
- 2006.7.4
- 世界のグローバル化を目指す現在、基礎となる社会的物質代謝の意味なぞ意識されず、一人でも生きて行けるという幻想的安全保障に浸りきっているようだ。今日一人でも生きていけると思ってしまうのは、それこそ無数の歴史的犠牲の上に社会的物質代謝の安全保障が築かれてきたからだ。それを理解しない某大統領、某首相、某「大臣」、某??事、某教育長、某校長、某??、そして我が職場の某々。仕事の意味は社会的物質代謝を担うことのはず。これが真実でなかったら私の哲学など何の意味もない。ほんと日本はもう一度反省しなくては。
- 社会的物質代謝は紆余曲折を経て、科学技術と共に、より良い生産を実現してきた。同時に分配、所有をどう納得させるかで政治を発達させてきた。その英知すら、それぞれおのれ個人の思惑の前に何の意味もなさない。社会的物質代謝がグローバル化した今、その巨大化した力のおこぼれで満足している者は、いかに賢くても、自分の我がままが通る訳もまったく理解できない。我がままが通ることが自分の力だと思いこんでいる。
- 2006.7.1
- 引退したら哲学入門のページを作り直そう。テーマは「哲学は勘を科学することです」。「勘」は日常の判断で決定的役割を担う。勘を支えるのは信念、そして世界観。勘の認識論的位置づけと「世界観」を科学の成果を根拠に反省する。
- 宗教は直接真理に接する能力のない私たちが、既に真理を手にした人たちの教えに従うことである。私たちは親から、友から、師から、神父から、あるいは書物から、いずれにしても人によって語られた言葉によって真理を学ぶことになる。
- そうでない私の方法論は仏教的と言うことになる。しかし、信者ではない。
- 本日第17回哲学道場。「世間と社会」日本と西欧の社会の対立と言うより、「社会の主観的解釈としての世間」と「近代市民社会観」の関係と受け取った。皆さんは「社会は食うためにある」という単純明快な見解、「社会的物質代謝」にはほとんど興味を示さなかった。高校時代のテンニエス著「ゲマインシャフトと ゲゼルシャフト」の読書会をかすかに思い出した。次回は「生命」
- 一応レジメ「意識」を用意したが、出番はなかった。
- 2006.6.28
- 家族の評価:岩波書店刊、「数学入門辞典」を小遣いで買うからと言っても娘は取り寄せてくれない。「買い与えても、どうせ無駄」との親爺の評価だろう。親爺としても是非とも必要というわけではなく、いつでも参照できれば役立つかな。
- 2006.6.26
- 第二部の第三編、第四編にわたって組み直し、冗長な部分を削ることにした。見通しやすくなると思う。
- ネットワーク上の恐ろしい話。単語表記の思い違いや、綴りの誤りは「新語」として、その語の専門ページとして検索されてしまう。間違いは直すしかないが、「ゲシュタルト図形」「メタ・マッジック・ゲーム」がGoogleでの例。もっともそんな語で検索する人はいないだろうから恥は公にはならない。ロボットだけが知っている。
- 2006.6.24
- 「普遍性」は客観的にも、主観的にも難しいことではない。普遍性は秩序の保存される程度である。部分としての普遍性は時空間的に保存される個別秩序であり、全体としての普遍性は個別秩序の時空間的再現性である。逆に秩序の形式として部分間の相互関係が時空間として表れる。秩序は対称性として表れる。客観的には全体の秩序が崩壊することで部分的秩序が実現する。主観的には対象の秩序を見出し、法則として表現する。普遍的な物事に、物事の普遍性に価値を認める。大切に思う物事はより普遍的であって欲しいと願う。
- 今日午後は合唱曲練習デモを編集するのでつぶれた。全部で18曲、しかもパート別。使っていたドライブが不調になって、別のドライブにしたらソフトがファイルを1つずつしか開けない。曲毎の1パートがさらに数個所に分割して練習できるようになっているからたまったものではない。苦労も知らずに丸投げした本人は外出。
- 2006.6.22
- 今夜の都響はモーツァルトなのに気持ちよくても眠ることなく、短く感じた。矢部氏のソロはぴったし収まった感じ。ただ、団員が次々と交代しているようで大丈夫なのかな。
- 2006.6.21
- まだp89冒頭「芸術が恒常性の探求である」のではない、人間性が普遍性を探求するのだ。まさに、宇宙は崩れる秩序(エントロピーの増大化)でありながら秩序を現す(自己組織化)のだ。普遍性は秩序である。曖昧さから秩序を見出すものが生き残る。「脳は美をいかに感じるか」(6.19参照)はほんと素晴らしい本だ。家族にも見せびらかさなくては。かのD・R・ホフスタッター 著、白揚社刊、「メタマジック・ゲーム 科学と芸術のジグソーパズル」以来の楽しい本だ。
- 今日は第6章の「感覚と意識」についてのまとまりを得た記念日でもある。もう少しでアップできるだろう。
- 2006.6.20
- 今日は職場のプール開き。勤務時間後、500mでもうフラフラ。素晴らしい職場環境だと思うのだが、羨む人がまずいないのは不思議。「税金泥棒」と面と向かって罵倒されたこともあったが、昔から享受ばかりでなくそれなりに仕事はしている。哲学だけやっているのではない。土木工事の検査をしていた頃、私が事務屋だからと舐めたのか、表面をモルタルでごまかした手抜きを摘発した。システム開発をしていた時は小型汎用機だったが、委託先がよその仕事を裏でやっているのを摘発した。文部省からの「理科教育等設備台帳」表計算化受託事業も手伝った。本来の職場内での自慢ネタだって結構ある。このところ昔話が増えてしまった。何かの前触れかな。
- 第二部の第5章、第6章、第7章、第8章、いや第11章か、まとめて再編となり手こずっている。
- 2006.6.19
- 昨日の続き。確か赤ん坊は言葉が分かる前に積み木崩しを楽しむ。秩序が崩れる様なのか、音の響きか、大人の困った振りか。何度でも崩して喜ぶ。これも共同主観の刷り込みといえるのか。
- 昨日録画した「岩城宏之さんをしのんで」を見た。偉大な人をこき下ろすのは気持ちが良い。しかしその大きさは世辞で知っているだけで、実際自分には分かってなどいないで結局恥じ入ったり、失ったチャンスを惜しんだり。これも偉大さの幻想を刷り込まれただけとか。
- 我が意を得たり。長くリクエストを待たされていた本がようやく手に入った。セミール・ゼキ著、日本経済新聞社刊「脳は美をいかに感じるか−ピカソやモネが見た世界」まだ第1章を読み始めたばかりだが、私が何を言っても受け入れてもらえないことが、既に日本語で出版されている。私が語るより説得力があるだろう。
- 2006.6.18
- 「共同主観」を想定したとして、共同主観を受け入れる前に経験は始まり、受け入れる訓練をしてる。胎児でもすでに聴覚は機能し始めている。言語を身につける前に物と物の違いと関係を経験している。言語あるいは言語が表現する概念、イメージを獲得する以前に物の理解、対象理解は始まっている。まさか、「言語表現できることが、理解したことの証明である」などと主張はしないだろう。でなければ犬猫には餌と器も区別できない。犬猫は餌と石とを口に入れてから区別する魚とは違う。言語習得能力、運用能力は生得的なものではあるが、他の能力と共に経験によって訓練されなければ実現しない。どれを母語とするかは経験によって決まる。大人が教える以前に、誕生前から認知能力訓練過程で世界を経験し、学んでいる。世界は大人が理解できている以上に精妙であり、その精妙さに感動できる能力を生得的にもっている。「共同主観」で規定できている以上の物事を人は経験的に理解している。「主観」を意識できるようになった者が、主観的に主観のルーツを探し当てたものが「共同主観」である。頭のいい人達が普遍論争をして、普遍を論理的に定義できないからといって勝手な解釈でいじくり回している。人は論理的証明以前に世界を経験している。別の話題になってしまうが、論理は世界の秩序形式の解釈でしかない。
- 「分かろうとしない」のは頭が悪いのではない。自分の視点、方法に固執しているのだ。人は日常の様々な問題に速やかに判断するため信念を形作っている。頼る信念を守るために自己正当化するのは脳神経学的にも検証できるという(「脳のなかの倫理」参照)。その信念を形成した視点、方法をも正当化するだろう。多様な視点、多様な方法を経験しないことには偏った正当化になる。日常経験の感覚だけに固執するなら、量子物理学、相対性理論、ビックバン宇宙論など戯言でしかない。日常経験の感覚だけに固執するから手品に感心するし、詐欺に引っかかる。論理学者のようにとんでもなく頭の良い人でも自らの業績に基づいて「弁証法など論理ではない」と切って捨てる。そうした人に言葉で説明する能力は私にはない。
- 2006.6.17
- 今朝の新聞に映画「ベトナム」のグエン・ホン・リーが紹介されていた。ほぼ40年前、学生だった私にはどう世界に向かうかの手だては何も見えていなかった。苛烈な状況にありながら、ひたむきな働きに憧れた。生き抜いていてくれたんだ。「独立と自由ほど尊いものはない」が、「尊さ」を見向きもせず、あるいは軽蔑し、汚す者たちがいつの時代にも、どこにでもいる。
- 今日の思いつき。生物の進化、淘汰の過程では失敗経験は継承されない。人間の場合は成功した者も生き残るが、失敗経験も伝承が可能である。進化では偶然の成功が決定的であり得る。人間の場合失敗経験を継承できるから、より普遍的発展の可能性がある。可能性はあるが現実にはエレベータ事件もある。システム開発に関わっていた二十数年前はインターネット以前のまだコンピュータ黎明晩期、失敗経験の共有を求めたが、管理職は自分の地位に満足して失敗経験の意味をまったく理解しようとしなかった。
- 本日午後は第16回哲学道場、「意識」について。意識中心主義、理性至上主義から引き離したかった。感覚が生理的過程として、並列処理が階層化された客観的過程であることを前提にしたかった。感覚は感じることとして意識の対象にはなるが、意識することにかかわらずあることはほぼ了解されたみたい。意識はそれぞれの感覚を対象化し、感覚を対象化していることも対象化する脳の再帰対象化過程であることまでは了解されたかどうかは不明。再帰対象化過程が意識であって、物質の有り様とは別次元の解釈である。次回のお題は「世間」。
- 2006.6.13
- 昨夜はサッカーではなくアカペラ ヒリヤード・アンサンブル。知らないだけで、世界には素晴らしいものがいっぱいあるんだと実感。歌は苦手だが響きだけでも納得できてしまう。
- 2006.6.7
- 鈍才は天才には嫉妬しない。憧れるのみ。天は二物も三物も惜しみなく与える。嫌いなのは秀才の狭い才、偏った才。狭さ、偏りは反省しないことによる。才はあるのだから反省できないわけはない。狭く偏った才はどうしようもなく、生理的に嫌いだ。立ち居振る舞い、発てる音に臭い。こちらとしてはエチケットとして、礼を失しないように挨拶だけはと務めはするけど、可能な限り避けたい。見かけたくも、話したくもない。無才の評価? 悪い事しないではないか。才というのは何かしらしでかすこと。命の価値、人間の価値は才とは関係ない。今の日本、悪い事をしているのは才のある奴ではないか。どうしてあそこまで人の迷惑顧みず、自分の了見だけで突っ走れるのか。国の行く末までも自分の生き様に引きずり込み、彼処まで持って行くつもりなのか。それを囃す才の取り巻き。社会的役割を担って昇進したり、労働組合の委員になったりすると、そういう人にも平等に接しないといけない。だから、もうとっくに組織は避けてる。 と、鈍才は幾つになっても、性懲りなく苛立ち吠えるのです。
- 2006.6.4
- このところ音楽会に行ってもなじめず、楽しくなかった。この間「進化」という怪物に取り組んで自分のふがいなさに落ち込んでいたためかもしれない。昨夜は違った。才気みなぎるこれでもかという演奏ではなく、しっとりと、たおやかに眺める世界。アラベラ・美歩・シュタインバッハー ヴァイオリン・リサイタル。それにしても、美貌や超絶技巧に耳目を奪われてしまう愚かな私。
- 「進化」に続いて「記憶」が立ちはだかりそう。遙かに「秩序」が世界を貫く。ビックバンからの歴史、構造を規定する秩序。秩序は秩序を組み込み、秩序を超える。認識は秩序に支えられ、秩序に導かれ、秩序をつかみ取る。秩序の形式が論理であり、秩序形式に論理を学ぶ。法則は秩序を表現する。秩序はlogに収まってしまう。統計も秩序をあぶり出す技術である。秩序は混沌へ向かい、混沌に秩序が現れる。
- 「記憶の区分」を改訂
- 2006.5.29
- 私の書いたものは難しいと言われたけれど、私は新しい物事を何も発見していない。引用しているだけだ。私が積読している「世界の名著」を見てみ、あれらよりはるかに読みやすいだろうに。あれらを読みこなしている人は市井にも沢山いる。きっと頭のいい人たちは無学歴の私を馬鹿にしているに違いない。今でも周りに教師はいっぱいいて、アドレスも紹介しているけれど、だれも私と科学の話すらしようとしない。私の書いていることを認めなくては、次に進めないだろうに。今更社会的に評価されなくてもいい。私を評価しない社会の方が間違っているのだから。賃金すら同僚に差をつけられている。日本はこの過ちを次第に大きくしていくのだろうけど、次回は自分で反省することで未来を切り拓くだろう。その時に少しでも役立ててもらえる物にしたい。これが私にできることなのに、折角の代休だというのに、二日酔いで反省ばかり、先に進まない。
- 午後になってようやく治まってきた。図解雑学ということで馬鹿にしていたが、山元大輔著、ナツメ社刊「記憶力」は勉強になった。海馬では神経細胞が増殖している、ということであるから第4章の神経回路の項を訂正しなくてはならない。アメフラシの記憶の解説から、記憶は観念のことではなく「複数の異なる刺激を区別し、それぞれに同じ反応をする。」という認知の基礎をなすことを教えられた。まさに区別する能力と関係を保存する能力としての認知だ。知性とはこういう基礎の上にある。
- 2006.5.28
- また長くかかったけれど「第5章生命の発展」に目鼻が付いて「第7章精神」に取りかかるには押さえておこうと読み始めたC・J・ラムズデン、E・O・ウィルソン共著、思索社刊「精神の起源について」だが、1983年の著作とあってこの間の認知関連科学、進化社会学、進化心理学を知ってしまうと新しいことはないし、「決定論」の解釈が安易すぎる。次に読まなくてはと思っているのがウィリアム・ベンゾン著、角川書店刊、「音楽する脳」。宣伝文からすると「言語の起源は歌にある」と紹介してくれているのではとの期待が大きい。言語は単なる通信手段ではなく、情動を共有する音楽の場で獲得されたのではないか。分節音の獲得にはリズムが有効ではないかと。
- この間、進化について学んできての思いつき。対象の空間構造認識、時間経過認識での対象文節化と連関形式化として論理能力が獲得されたのではないか。だから論理は世界秩序の普遍性を反映している。一般に言われているように論理は思考経済の形式規則ではない。論理も訓練によって獲得される認識能力である。
- 2006.5.27
- 本日第15回哲学道場。視覚の視細胞、網膜、視覚野それぞれでの情報処理解釈がされていることを説明しても、専門家の著作を持って行って実例を示したけど、科学者でない私の話では説得力がないみたい。「光りの色は混色するけど音色は聞き分けることができる」等確かめられる当たり前と思われることすら納得してもらえない。コラム単位の特徴処理の話をすれば良かったのかもしれないけれどその前に疲れた。
- 「誰もがあるがままに見れば理解を一致できるようだけれど、『あるがまま』とは階層をなす解釈過程をへた主観である。ただその解釈過程が客観的に存在する」と説明しても、「その客観性を認めているのも共同主観だ」では、「はいそうですか」としか答えようがない。人それぞれで最終的に意識される知覚だけを比較して客観性を問題にしても、相対的でどうにでも解釈でき、どうにでも正しさを主張できてしまう。多数決を繰り返して正しさを決めるという「共同主観論」には議論の仕掛けようがない。判断基準は共同主観であって、客観的基準、普遍的基準はないとするのだから。広松はそんなことを主張しているのかな?確かめる気力もないが。
- 2006.5.24
- 次回哲学道場へのレジメ「視覚の基礎」をアップした。
- 2006.5.13
- 出た!! 瀬戸 明著、法政大学出版局刊「存在と知覚―バークリ復権と量子力学の実在論」Amazo.co.jpからのメールで知った。手にしてみないと何とも言えないが、商品説明に「哲学的存在論の真の舞台として“客観的実在”のバークリ次元を究明し、主客二元論的思考の克服、量子的実在世界の新たな哲学的基礎づけを試みる。」とある。私は克服される立場になる。
- 2006.5.7
- 連休最終日。このところ創造的な体験ができない。自身の肉体的衰えが知的萎縮となり、主体性が、創造性が失われつつあるのではないかと。「意図」にこだわる。人に対するときの普遍的評価基準としての「意図」。
- 1日のメーデー集会に参加しても、知り合いはめっきり減ったし、高齢者ばかりが目につく。若者のシュプレヒコールはぎこちない。社会的にも理知的意図の喪失感。
- 4日にプラド美術館展。至宝の数々ということなのだろうが、ただ塗りたくっただけの、意図をうかがい知れない作品に出くわして、作者の意図を探ろうと見て回った。隅々にまで意図が描ききれている作品、意図はあっても技術が追い付かない作品。解説ビデオでもベラスケスの「描かされた作品」と「描いた作品」との違いをX線解析で区別できると言っていた。リベーラ作「盲目の彫刻家」の額はすごかった。
- 今朝のNHK「新日曜美術館」で北斎「李白観瀑図」の滝は雪舟の「秋冬山水図・冬景図」のように最早抽象画だ。キュビズムのように。視覚が光の明暗を像として抽象し、他と区別し、関連づけて対象化する。そこには意図がある。その意図を絵画として表現する。
- そして読み始めたマイケル・S.ガザニガ著、紀伊國屋書店刊「脳のなかの倫理 脳倫理学序説」でも「意図」を強調している。だが、「意図」は個別化する傾向にある。高度治療によって多くの命が救われ、延命ができる。そこでの医療倫理が問われ、本人が、家族が倫理だけではなく、それぞれの肉体的、精神的負担、そして金銭的にも判断する。一方でそんな医術の意図に関わりないところで、子供が飢え、不衛生によって罹病し、女性外性器切除が行われ、少年兵士が戦い、臓器提供に誘拐される。個々のケースでの判断も切実だが、普遍的判断も伴わなくては収拾はつかない。一つ一つの命が大切なら、どの命も大切なはず。個々の問題に答え、解決することはできなくとも、それぞれの立場、条件で解決へ向かうべく意図することはできるはず。
- 2006.5.4
- アンドリュー・パーカー著、草思社刊「眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く」 逸話が冗長ではあるけど興味ある知見がいっぱいある。眼の進化上の意味までは読み進んでいないが、再確認できるアイデアが一つ。「物事は単独ではない。他と多様な関わりの内にある。存在は一つの根拠だけではなく、関わる他の存在によっても証明される。推理小説が成り立つように。ジグゾー・パズルに夢中になるように」。もう一つ、「淘汰圧」と言う概念を使っても良いんだ。
- 酒井 邦嘉著、中央公論新社刊「言語の脳科学 脳はどのようにことばを生み出すか」 3年前にも読んだはずだが、記憶にない。人には言語解釈の能力=文法運用能力が先天的にあるから言語を獲得できる。目的因的解釈に注意しての理解が必要だ。大脳皮質モジュールの重複がコミュニケーション刺激によって言語野を実現したということ。大脳皮質だけでなく、咽頭の構造、舌の運動制御、社会構造も関わる。小学校の時、国語や文法にはまるで興味がなかったのに、ずいぶん遠くにまで来てしまった。
- 素人が何を言ってもなかなか理解してもらえない。したがって、世界観を記述するには解釈の根拠となる科学的事実をも説明しなくてはならない。素人の科学説明など、資源消費量を増やすだけの意味しかないことだが。
- 2006.4.26
- 澤口俊之著、海鳴社刊「知性の脳構造と進化 −精神の生物学序説−」を読んでいての思いつき。獲得形質が遺伝しないことは遺伝のメカニズムから明らかである。ただ「歴史現象的には進化圧がありそだし、何らかの遺伝作用が考えられる」として唯物論者は生物学者から笑われた。しかし、遺伝的に獲得した形質が新たな生活環境を獲得したなら、逆に新たな生活環境が淘汰基準になるだろ。新たな生活環境は飛躍であり、そこでの新たな形質遺伝子が集団内に普及するまでは時間がかかるだろう。この質的変化と量的変化の関係は「断続平衡」についても説明できる。
- 人がどうしようもない「戦争癖」も、最近の社会病理、理解できない強悪犯罪も、人が生物的に対応できなくなった生活環境故と言えるかもしれない。
- この思いつきの正誤をたずねることのできる人はいないかな?
- 2006.4.9
- 昨日、録画しっぱなしだったNHK:ETV特集「生きていてくれて、ありがとう〜夜回り先生・水谷修のメッセージ2〜」を視る。しわ寄せは弱いところへ。責任をとるべきは政治家であり、日本では加えて官僚である。そして主権者である大人たちである。責任感のない、想像力のない彼らは自分の生き方に満足してしまっている。
- 体験できない重い人間関係を理解するには想像しかない。貧しい想像力を補ってくれるのが小説や映画である。言葉を用いない芸術は、重い人間関係を経て晶出された精華であり、理解するには訓練と前向きな姿勢が必要だ。
- 「つまずかないように」と親が願うのは当たり前だ。やり直しのできない勝ち抜き戦、トーナメントで勝ち残った者だけが権力を執る社会はろくなことにならない。
- 私は「抽象の世界」に逃避できるが 、忙しいとそれもままならない。
- 岩波書店刊、長谷川真理子著「進化とはなんだろうか」中・高校生向きであっても、だから概要を理解しやすい。それだけではなく、「第9章 雄と雌はなぜ違う?」性の起源と性淘汰は1980年代以降の学問と言うことで「実効性比」など知らないことも紹介されている。
- 2006.4.8
- 誠信書房刊、ジョン・P・フリスビー著「シーイング 錯視−脳と心のメカニズム」。視覚信号処理メカニズムの解説から錯視のメカニズム、最後にランダム−ドット立体写真のメカニズム。長い間、積ん読であり、もっと早く読んでおけば良かったとも思うが、回り道をした今だからこそ読むことができるともいえる。視覚は対象をありのままに見るのではなく、視覚の各段階で部分に分解し、特徴を抽出し、全体としての個別性を分節化、群化して解釈している。にもかかわらず視覚が有効なのは、対象との実在関係で解釈しているから。無意識のうちに秩序、パターンを抽出しているが、意識的に対象化しているのはその特徴的部分である。具象として対象化するのではなく、抽象した特徴を対象化し、さらに記号化している。パターンを記号で象徴して世界をコンパクトに理解している。必要に応じて具象化、展開し対象に重ねる。ランダム・ドット・ステレオ・グラムの立体像など、対象としては実在しない視覚の構成物である。同様に絵画・彫刻も実在の物質とは異なる対象を表現している。母語の文字などフォントを一々確認などしていない。単語すら見跳ばしている。
- ところで「論理」とは何だったか。以前には端的な定義ができたのに。忙しさのせいならいいが、酒で思考力が低下し始めたのなら問題だ。仕事が仕上がらなくなってしまう。
- 2006.4.2
- 昨日第14回哲学道場。先月は所用があって欠席。今回は「道徳」について。物として、生物として、人間としての自分は、他の人を理解することで可能になる。他の人の道徳性を理解・評価するには、自らの道徳性を反省することで可能になる。反省のない人には、他人も浅薄に見えるのだろう。
- 道徳は知識で学ぶこと、教育することはできない。自我ができてからビンタで強制することもできない。育つ順次の段階での人との触れ合いで、人間関係を構築する過程で身につける。知識としてではなく、経験を通して生理的反応・調整機構として、具体的には脳の機能として身につける。核家族化、少子化で大人による規制、逆の放置によって道徳性は育まれない。順調に育つことのできなかった場合に、犯罪までも犯した場合にどう矯正するかが社会問題になっている。
- 2006.3.28
- 昨年に引き続き都立杉並高等学校吹奏楽部第24回定期演奏会。個人的関係はないが、跨いだ関係というか、おかげで終演後に小遣いを減らさずにおいしいお酒にありつけた。140名余にもなる部は公立学校の部活の域を超えている。今、開催中の高校野球甲子園と同じに思う。当事者の意思にかかわらず、現世の力が作用するから要注意。世の中にある限り、生徒、父母、これからの児童に期待されても、すべての学校が応じられる訳はなく、にもかかわらず学校選択制で特色ある学校を作れと迫られる。正規の教員は定期で異動せざるを得ないから、指導者はボランティアか非常勤講師しか務まらない。学校教育制度とは別に英才教育と、皆で存分楽み育つ制度が必要なのに、そんな余裕はなし。子供の能力を見出し、伸ばすかよりも、どれだけ親に金を出させるかが今の潮流。努力しないで、実績なくて、事あるごとにマスコミに顔を出すのが現世の力となる。
- はてや、さては、世の中は、「私」の内なら見逃さる。どれ程を、超えたなら咎むのか?警告はありや?否や?
- 2006.3.25
- 人それぞれユニークで、立場が違う。相対的立場と生活過程で実現してきた絶対的立場の違いもある。立場が違えば利害が違う。違う立場で、価値観も違ってくるし、また、一つの物事の評価も違う。教授とポストドク、レフェリーと投稿者、基礎科学と応用化学、当事者とマスコミ、妻と夫、親と子の違い。評価を違えてしまうそれぞれの基準を明らかにすることで、評価を一致させる可能性がある。一方を切り捨てるのではなく、折衷させるのではなく、止揚することができる。より普遍的物事はより普遍的に評価を一致させる可能性がある。ただ、立場の利害は社会的利害となって、普遍的評価に優先してしまう。自らの社会的立場をいずれに選択するかという、生き方の問題になる。どこで、どのように止揚するかは、志と、経験がなす。普遍的基準は自然史、人類史に沿う方向しかない。
- 2006.3.23
- 娘が薦めてくれた小学館刊、若山三千彦著「リアル・クローン」。遺伝的に同じ個体を再生することで、遺伝と発生過程を明らかにしようとする研究過程のドキュメント。同時に自然科学研究過程、最先端科学のレフェリー制度、発表までに生じる障害、ベンチャー企業の有り様のドキュメント。科学・技術研究の倫理の問題として「レクチャー7」はコンパクトにまとまっている。成功物語でありながら、次々と現れる障害の多さが若い研究者の卵たちの共感を得たのであろう。私的な興味は主人公の兄が著者であること。滅多にない取り合わせで、主人公の育ち、生活の実際を知り得ながら、客観的であろうとする努力が見える。
- 2006.3.21
- 評価の問題なのだな。個別すべてを知ってから評価することはできない。すべての異性を比較して恋人を選択することはできない。普遍的有り様から自分なりの評価基準を導き出し、実際に関わる個別対象を評価する。世界観、価値観の重要性だ。実在世界を可能な限り理解することと、自分にとって有効な、納得できる評価・判断基準を獲得すること。普遍的・客観的世界理解と、実践的・主観的価値基準との二元的理解。天下を取ったつもりで、個人的評価基準を組織的評価基準、社会的評価基準として押しつけようとする輩がのさばっている。業績評価すらまともな手法がないというのに。
- インターネットの匿名性から「Wikipedia」の信憑性が問われているが、実在世界と同じだろうに。権威といえども、マスコミの報道であっても必ずしも真実ではない。自然科学の最新の解釈ですらそのほとんどが誤りで終わる。小説や劇画で知識を得ることもあるし、そのすべてを信じる人はいない。それぞれの情報をそれぞれに評価している。
- 年度末ということもあって、ほとんど改訂作業ができない。「視覚」の基礎をまとめるために古いが池田光男著「眼はなにを見ているか−視覚系の情報処理」の読み返しに止まっている。さらに古く、積ん読だったJ.P.フリスビー著「シーイング 錯視−脳と心のメカニズム」を参照中。
- エマニュエル・ダーマン著「物理学者、ウォール街を往く。」理論物理学の数学手法で金融指標の動向分析、リスク分散による保険の開発とでも要約して正しいのか。人物評価、紹介のこだわりはくどく感じるが、うかがえる企業文化には興味ある。
- 2006.3.20
- カペラ・イストロポリターナ「アストル・ピアソラ & アントニオ・ヴィヴァルディ 2つの『四季』」素晴らしい人々はいくらでもいる。ただ、知らないだけ。知られているのは超一流の人たちだけ。誰でもが超一流になれるわけはない。ただ知られることだけを求めても、愚かさをさらすだけだろうに。
- 振休、祝日と連休で助かった。駅にエレベーター、エスカレーターがあって助かった。優先席があっても筋肉痛では座って良いのか、悪いのか。
- 2006.3.19
- 荒川市民マラソン。練習不足、ペース配分の誤り、強寒風。1km6分で余裕と思っていたら、30kmで脚が悲鳴をあげた。後はトボトボ寒さに耐えた。歳もあるが、年に1回体力を使い尽くすのも良いのかもしれない。
- 2006.2.20
- 世間一般の、既に検討され、分類された概念を使って判断していては新しいものを取り扱うことはできない。世間の常識ではなく、自らの概念を常に、繰り返し検証し続けることで確信が持てるようになる。そのかわり、世間から離れ、専門家からはほとんど無視される。マァ、今の世の中で認められている方が怪しい存在ダァ! 今時の日本がまともと思っている人は少ないだろうに。
- 2006.2.19
- 考え方の違う人との議論は疲れるが、十分に刺激されるようだ。強調しなくてはいけないことが見えてくる。
- 人は反射や条件反射といった生理的情報処理から、五感、体内感覚に基づく感覚・運動に関わる情報処理、意味づけや意味の関連づけといった知的情報処理、これらの膨大な情報処理を生きている間、寝てる間も相互に関連づけ(単なる並行処理ではない)ながら続けている。意識はそのうちの一つしか対象化しないし、意識ある時しか対象化できない。今最も大切なことを対象化しようとするのが意識である。最も大切なことの判断をたびたび迷い、誤るから判断の基準になる世界の理解、世界感を意識的な世界観として求める。共同主観などでなく、無意識を含め世界と自分の多様な、膨大な情報処理を方向づけているのが実在の主観である。
- 他の人と絶対に交換できない「主観」の唯一性、これがアイデンティティーの根幹である。だからこそ他人を理解することが大切になる。他人を理解することで「主観」の絶対性を超えて自らを理解できる。
- 自分は頭が悪いと思っている人も自分を意識し、頭の悪さを評価するというコンピュータにはまねのできない知的情報処理をしている。マンネリ化した日常生活でも常に変化する世界からの感覚を無意識に受け取り、対応している。創造的表現ができなくとも、肉体的にも、知的にも自らを更新し続け、秩序を創造しつづけている。創造的表現は滅多にできないから特別な価値がでる。価値ある生き方をしようとする人はより創造的であることを求める。金持ちのほとんど、満足できる社会的地位を得た者は創造性を失い、価値を消費するだけの寄生者である。今の日本は過渡期にしたいといわれてはいるが、まだ創造的であることでは社会的地位を得られにくい。制度の裏をかくことも、制度に乗ることと同じに少しも創造的ではない。
- 2006.2.18
- 今日の哲学道場へ提出するレジメに若干の追記(5-4-3)をし、参考として図「記憶の区分」を追加した。
- 今日の議論の結果。感覚表象、知覚表象、観念表象など認識を反省してみれば当然に承認される概念と思っていたがそうはいかないらしい。自意識が主観という観念でしかないことも、物質に媒介された非物質であることも当然のことではないらしい。しかしこればかりは、議論してどうなるものでもない。
- 来3月の哲学道場は、私用のため欠席する。春の生活変化がまた来る。
- 2006.2.11
- 第二部 第二編 生命 第4章 生命の存在を改訂した。「生命」について一言で表現する様な無謀な試み。プロは絶対にしないことを私だからやってしまった。番号を符ってない節はメモであって、参照する意味のない節。
- 2006.2.5
- 次回哲学道場へ提出するレジメをアップした。
- 2006.2.4
- 今朝ラジオから流れてきたのは、バッハ作曲「トリオ・ソナタ ニ短調BWV527」。解説によると左右の手でそれぞれ別のメロディーを弾き、足で通奏低音を弾くという。人の意識は一時に一つのことしか対象化できないのに。感嘆していると「バッハは右手で3つのメロディを即興で弾いた」とのこと。演奏と作曲という最も意識的、創造的活動で多数の個別を対象化できる。要素となる個別を意識しなくても操作できるほどの訓練によって複数の対象化が可能になる。悲しいことに、素養のない聴き手はその成果を聴いても、一つのメロディーすら追いかけられない。
- そんな聴き手でも小学校ではスペリオパイプ(現リコーダ)を習った。口で吹き、左右の手指で穴を開閉した。3つ、あるいは10の個別要素を対象化する訓練をした。楽器以前に、物を保持しながら指を動かす訓練、一定の息を吹く訓練を意識しないまま経験している。その上で、リズム、メロディ、音量に注意しする。最終的に一つの曲として対象化する。
- 訓練して個別要素を意識しなくても対象化できるようにする。個別要素を意識せず、必要な場合には確実に対象化できるようになって、複数の要素全体を対象化する。全体としての対象把握も対象の個別化である。異なる個別間に共通性を見いだし、世界全体を対象化する。要するに分析と総合、下行と上行である。
- 論理的思考も同じこと。そして論理は分かったことしか表現できない。未知の対象は論理的に探ることはできるが、論理的に表現できないから分かってはいない。
- 哲学的物質概念についてのレーニンによる古典的定義として「物質とは、人間にその感覚においてあたえられており、われわれの感覚からは独立して存在しながら、われわれの感覚によって模写され、撮影され、反映される客観的実在を表示するための哲学的カテゴリーである」がある。ここでは「われわれの感覚」を自明のものとしているが、認知関係科学の成果によって「われわれの感覚」の内側を物質として学ぶことができるようになってきた。ただ、「感覚によって模写され、撮影され、反映され」た結果は観念として保存され、観念によって対象化される。対象を理解、納得したいのは観念としてである。物質的に、肉体的には理解も納得も不要で、間違えれば痛い目に遭うだけである。観念の対象化は観念的議論そのもので、観念性を避けては何もできない。観念の有り様を整理しておかなければ「観念論」に対応できない。「われわれ」自身の観念性は「観念論」を受け入れやすく、その誘惑を意識できないことが多い。私の仕事は唯物論であっても「観念論」を組み込んで明確に位置づけること。
- 2006.1.29
- 昨日の哲学勉強会で「共同主観の世界観のどこが、どうおかしいのか指摘してもらわなくては議論にならない」と指摘されて困った。レッテルを貼り付けるのは簡単だが、それでは議論にならない。今朝ふと気がついた。夫婦、あるいは恋人同士、親子という最も理解し合いたい、本人の幸せに直接する人間関係でさえ理解し合うことが困難なのに、抽象的で人によって解釈の違う「共同主観」には依拠できない。悲惨な事件さえ頻発する人間間の誤解、無理解が生じる実在間の問題に、抽象的な「理論」では対応できない。世界を解釈する哲学ではなく、自分の生き方を説明できる哲学が必要なのだ。
- 2006.1.28
- 本日、哲学の第11回勉強会。今日の思潮の中で生活している人には「二元の素朴実在論」を実感するのは狂気に思えるらしい。確かなことより、「共同主観」なりの“確からしい”ことに止まっている。「俺の世界観を読んでもらってから話そう」と言ったのでは会話は始まらない。用意したレジメをアップした。
- 2006.1.20
- 哲学道場の準備資料を漁っているが、どうして頭のいい人、西欧系の人は「理性は確実な真理の判断基準をもつことができる」などと信じているのだろう。私の論理能力など1日2時間程、週3日程しか働いてくれない。理知など進化の過程で心身を生かすことで獲得してきた能力だろうに。頭の良い人たちが管理するこの世の不条理をどう説明するのだろう。日常世界を対象として課題をこなさなくては、世界を理解することなどできはしないのに。
- 2006.1.19
- 都響定期。若杉弘指揮、メシアンと別宮貞雄のプログラム。現代音楽、日本の音楽にも少しずつ慣れてきた。時間軸に沿った物事を対象化することの苦手な、要するにリズム音痴の私は音楽に浸れなくても、作曲者や演奏者の創造の様に接するために演奏会に出かける。
- 2006.1.6
- 年末、正月休みは酒浸し。でも時間が取れて「生物」の復習、まとめの反省。読み返えそうにも文章になっていない表現にげんなり。
- 哲学道場=哲学の勉強会向けに「共同主観」と私の「素朴実在論」の対比を要約中。認識、思考を取り上げてからでないと理解は得られないかもしれない。
- 確かに前回の哲学道場で「対象を認識する私、を対象化する私、を対象化する私、…」は再帰することで対象の内容を失い、対象化の無限後退は形式化され、単なる回帰=有限の形式に収れんしていると表明した。
- これまで私が「個別論理」と表現してきた「A⊃B」は「論理単位」である。個別論理はそうではなく、個別科学それぞれの分野で条件付けられる論理である。「標準理論」「セントラル・ドグマ」等のように基本条件が規定され、そこから導出される論理系が個別論理である。具体的には量子力学の論理、相対論の論理、生命発生の論理、進化の論理、歴史の論理、社会の論理、組織の論理、等々多様な個別論理がある。またその中でも対象を限定することで条件規定された個別論理がある。論理学は多様な個別論理と普遍的論理とをどちらも対象にする学問であるはずだ。今時の論理の専門家は個別論理を蔑視しているように思える。
- 渋谷で出会う「ポーラ美術館の印象派コレクション展」:正月休み明けの金曜日とあって余裕。椅子に座してしばし鑑賞。贅沢な時間を過ごす。
- スウェーデン映画「歓びを歌にのせて」:「たかが歌」でも伝えるのは生き様であって、だから伝わる。授業時間数を削られても頑張れ! 公立学校音楽教育。
- 2005.12.24-27
- 富良野へスキー。地吹雪舞う氷点下十数度を作り出す世界はまだ予測不可能な力をふるう。それでも人間の可能性も素晴らしい。六十歳を過ぎてもカービング・スキー技術を夜を徹して語り、私など後追うこともできぬスピードで滑り降りる先生三人(三、中、田)。シー・ハイル!
- 2005.12.20
- ジャン・フルネ 92歳 今日は特別な日の第一夜、サントリー・ホール、東京都交響楽団 定期演奏会。一部を除いて、私のような音楽の分からない輩も期待して、皆で納得したいよね。明日の文化会館大変だろうな。
- 2005.12.17
- 昨日、哲学の第10回勉強会。よく続いた。自分の方法、論理だけでは異にする人に通じない。それでも論点を変えたりして話していると少しずつ噛み合うようになって、終わり頃に実のある議論ができる。
- 自分が誤っているかもしれないという前提でなければ議論は進まない。議論の内で自らの論理を点検し直す。そのためには点検できるように自らの世界観を体系化し、対象として取扱可能にしておく。これが哲学だ。
- それにしても世界についても、自分についても表層の極一部しか知らないのに「知らなければ、検証できなければ存在しない」という実証主義は、圧倒的、膨大な世界が存在しないというのだろうか?それとも知らない世界を想定することがナンセンスと言うことか。
- 昨夜は「ミカ・ポホヨネン テノール・リサイタル」、ピアノ:マルコ・アウティオ。才能があって、訓練している人って沢山いる。ニュースを見るたびに嫌なことばかりの時勢、そういう人に出会って元気をもらわなくては。
- 2005.11.27
- 江東シーサイド・マラソン。練習不足で思うように走れなかった。練習不足は体力が落ちて、故障が増えたから。老化か。意気消沈。
- 2005.11.21
- 第二部 第2章 世界の物理的構造、第3章 物質の歴史を改訂した。私の自然科学理解の程がいかに低かろうが、世界理解には何が必要かは示せているのではないか。ただし、未だ十分でないような気がする。
- 2005.11.19
- 本日、哲学の第9回勉強会。「共同主観性」の立場からの主観、意識の解釈を聴く。最後に「色」について互いの理解を再論する。終わってから気が付いたが、色の二次性を「3種類の光に対応する錐体細胞によって3原色での色彩感覚をヒトは獲得している。ヒトの感覚の有り様によって色は区別される主観的なものである。」と説明すれば色と主観の非普遍性を理解してもらえるのではないか。次回は「色の科学」と「ゲーテの色彩論」が提供されるとのこと。
- 第二部第2章 世界の物理的構造、第3章 物質の歴史をほぼ仕上げた。「仕上げた」と言うより、これが精一杯で、文としても未熟だがとりあえず片付けるしかない。後一度読み返してアップするつもり。
- 2005.10.2
- 昨日、哲学の第8回勉強会。自分の思考様式と違う会話に同調するまでしばらく聴くだけの時間を過ごさねばならない。まとめ段階で「理論に対する誠実さと常識は乖離する」と言われたような。整合させることが誠実さだと思うのだが。最後に「共同主観性についての疑問」を提示して、次回答えてもらうことになった。
- 次回に追加して求めるのは時間がもったいないので、回答の際考慮して欲しい事。物の二次性質を否定するなら紫外線、赤外線の色は何色か?。現実に紫外線を見ることになる赤方変移という現象もある。
- 話題になった物の量には物理量、個有値、測定値、二次性質量(用語の使い方はいい加減、色、味、臭等のこと)と質的に区別できる量がある。物理量は実在の有り様として物質の持っている潜在量、存在確率量のこと。固有値は他との、あるいは観測センサーとの相互作用で確定される実在の現象量。測定値は用いる計測尺度によって測られる必ず誤差の伴う量。二次性質量は人の感覚で区別される相対的分散量。これを区別しないで主観、あるいは共同主観であっても対象との関係を規定できない。
- 2005.9.25
- 第二部 第1章 物質のあり方を改訂した。いくら背伸びをしても生半可な知識で科学を解説できるはずはない。自らの到達点での光景を線描するしかない。
- 2005.9.4
- 昨日、哲学の第7回勉強会。主観の「私」に対する絶対性を説明したのだけれど、絶対性を強調する余り、主体である私との区別が抜け落ちてしまった。主観の絶対性は、主観に観念性を封じ込めるために必要なことも説明できなかった。お世話になっているのはスタディユニオン。
- 「物質」をまとめるため、力学から勉強し直し。相対論、量子力学のエピソードに眼を奪われては誤ってしまう。
- 2005.8.6
- 本日、哲学の第6回勉強会。どうして人は「私」、自意識、主観は対象化するだけの、自らを対象化できない特別な存在であることを理解しないのか。説明の仕方が悪いのか、私が間違っているのか。「私」も含めてすべては対象間の関係で、客体間の関係でしか存在しないし、説明できないのに。「人が存在しなくても世界は存在する」という単純なことを認めようとしないのか。一般化して逆接して、「存在を認める人がいなければ世界は存在しない」というのであれば、何故もっと人類の存続を大切にしないのか。声が嗄れてしまった。広島の日、世界の未来の日に。
- 第二部以降は文章を整理するだけの単純作業と思っていたが、EPRの思考実験は実現するとアミール・D・アクゼル著、早川書房2004.8刊「量子のからみあう宇宙」にある。とにかく読んでみなくては先に進めない。そんな話題他では目にしたことがないのに。
- 2005.7.29
- 私が何を言っても何の力にもならないでしょうが。学校教育で一斉授業と個別授業は科目で分けるべきだ。芸術、技術、体育科目は一斉授業。これは授業者、被授業者なく互いに、それぞれに教え合え、援助し合えるところが良い。数学、論理学は個別授業、これは知識など必要なく理解だけが重要だから。自然、社会、人文、語学は知識と理解とがバランスよく必要なため可能な到達度別授業が適当。当然に受験技術の話ではないが、教授体制を作れる保証も今はない。 哲学は教わるものではない。
- 2005.7.18
- ようやっと第14章 思考概念の改訂ができた。私のやること、できることは成った。これで娘の買ってきてくれた15年物「おもろ」の封を切れる。あとはおまけ。
- 2005.7.3
- 昨日、哲学の第5回勉強会「存在について」。それぞれ人によって解釈も表現も違うからコミュニケーションを成り立たせるだけでも大変。来月は共通の理解を成立させる予定。
- 55歳のうちに第14章を仕上げ、第一部の改訂を完了させようと詰めたが、次々と屑をはき出しているようで期限切れ。
- 2005.6.24
- このところFTPがうまくいかないことが多い。もうすぐ第14章改訂版をアップできそうなのに。
- やはりおかしい。個人がしくじってもバッシングが吹き荒れるのに。「宇宙飛行士」の定義をせずに「日本人初」を既成事実化したり。ルーカス本人が9作だと宣言したはずなのに前編又は新シリーズ三部作の最後でしかないエピソードIIIを最終話だと報道したたり。事実の検証より流れに迎合して検証しようとしなくなってきている。世論調査も予定する結論に導く調査になっているのでは? 外圧を頼るしかないのか?
- 2005.6.17
- スパムメールが多くて大切なメールを一緒に削除してしまう心配があります。メールを下さるときには件名に「どんさい宛:」と表記してください。
- 思考について思考していると戯言が膨れあがってしまう。戯言を削除し、何を押さえ、どう配置するかともがきが続く。
- 2005.6.5
- 昨日第4回目の哲学の勉強会「哲学道場」があった。第3回は5月21日。2回とも「対象性」について。
- 有限である人は無限を「1」や「2」のように数えることができない。対象の数として無限を数えることができない。無限を数えることができないように、無限より1だけ少ない数も数えることはできない。事実上1千であっても一つずつ数えることは困難である。日常で数えることは十までが実用的で、必要に応じて百まで数える。確実に対象を確認しながら数えるには十までづつ数え、十の束が幾つあるかを繰り返してより大きな数を数える。札を百枚単位で確実に数えるには特別な訓練が必要である。数えることのない1千と数えることのできるせいぜい百までの数とを同じ数として対象にできるのは、どちらも自然数として「0」から順にある関係、それぞれの数の規定関係が成り立っているこによってである。その規定関係に無限も位置する。
- 2005.5.14
- 東京新聞5月13日朝刊『「蛇足判決」論広がる波紋』での井上薫氏の所感最後の部分「靖国参拝訴訟の福岡地裁判決に象徴されるような、残存する抵抗勢力の理論的誤りはもはや明白です。」よくぞ言った。勝ち組の歴史的評価基準、情勢評価は明白に言い切ることのできるほどに単純な形式に整えられている。残存する抵抗勢力に数えてくれるのかはともかく、世明けをめざして。
- 2005.4.10
- 中国での反日抗議行動について、報道では日本政府は破壊に対する抗議しかしていない。日本への抗議内容については何も反論しようとすらしない。マスコミも内容に触れていないことを批判しようともしない。民主主義は暴力を否定するのは当然であるが、議論をかみ合わせることが原則である。議論をすり替え、自らの立場を当然の前提としては議論にならない。日本もアメリカも反省できない国になってしまった。
- 昨日、今日で第14章の構成変更。論理関係特に「規定」について深化。
- 2005.4.3
- 昨日、2月4日に引き続き2回目の哲学の勉強会があった。「根拠(拠り所)」について。来月は「対象性」の予定。
- 自分を追い込むためにも、何をしたか記録してみる。
- この年度変わりで職場の体制が変わり、分担が増えそう。しかも昨年度から仕事の進め方も従前とは違ったため戸惑うことも多く、余裕なく、改訂作業はこの間ほんの少しだけ。今日は午前中、合唱曲のパート別練習用CD作りを手伝わされてつぶれた。午後はのんびりした後、坂戸真一著「弁証法の話」を読みおえた。後は飲んだくれるだけ。アッ、ちゃんと家庭人として洗濯物は干したし、息子に昼飯を食べさせたし、買い物もしてきたし、それなりの生活はしている。
- 2005.3.30
- もう詰め切らなくとも第14章を仕上げてしまおうかと、いい加減な気持ちになっていたところへ、昨28日のNHKクローズアップ現代「国旗国歌・卒業式で何が起きているのか」での横山教育長の都立高校現状評価発言に空しさを倍加させられた。話して分かる相手でない者が、ほとんどの権力を握っている。でも昨日、都立杉並高等学校吹奏楽部第23回定期演奏会を聴いて、負けてはいられないと勇気づけられた。高校生だけでなく、教育者すらも自分たちで成長しつづけている。小さな子供ですら「ダフニスとクロエ」を静かに聴いていた。
- 2005.2.20
- ようやっと第13章現象概念の改訂終わり。世界を自分に説明しようとして書き殴った物を、人に見てもらうレベルまで仕上げるのはつらい。しかも、人がどう見ているのかわからずに。
- 「何でも安易な方がよい」ということにはならないだろう。完成度の高さを求めることこそ今は必要なのではないか。「古典といわれるものも当初は流行ものだったのだから」と言うが、その後何百年かけて工夫されてきている。天賦の才のない我々はそれなりに受け取る訓練をしなくてはならない。受け入れる場では真剣に、周囲の人に迷惑をかないよう心がけるべきだ。入門から色々な企画があってよいが、特にオーケストラの定期演奏会は家でCDを聴くのとは違う。プログラムをめくるにも、音を出さないように注意するのがマナーだろうに。
- 2005.2.5
- あれから9ヶ月以上。ようやっと第13章の形が見えてきた。もう少しでお披露目できそう。
- 昨夜、誘われて生身の人間と会話。「世界観などという人それぞれに違うものの普遍性を追求することに何の意義があるのか」といったこと。自分に説明するのも難しいが、人に話すのはもっと難しい。
- 2004.9.16
- 最後の山場12章が終わって後は一気呵成と意気込んだものの、第13章の相互作用で悶々。長年のアルコール漬けが効いてきたか?惚けが始まったか?最近始めたスクーバダイブで窒素ガスが詰まったか?と。それでも無意識の前進は可能なようで、今日は少し展望の断片が見えたよう。
- 2004.6.19
- 12章の改訂を終えて「主要な問題は片づいた、後は誤りの訂正、最新の知識・修辞上の整理だけ」とホットし気力減退。ところがふと改訂を初めて6年も経ち不十分なところが見えてきてしまう。目標は定年時に紙ベースでの出版。そこでこれからは行きつ戻りつ、web版の改訂との並行作業になる。
- 2004.5.7
- コネクショニストあるいはベクトル・コードも結局はパターン認識の方法、理論であって、客体間の相互作用法則を明らかにする方法ではない。客体間の相互作用法則は論理として表される本質であって、パターンはその現象する秩序である。現象の認識と本質の論理は相互に説明し合うものでなくてはならない。
- 2004.5.4
- ポール・M・チャーチランド著:信原幸弘、宮島昭二訳「認知哲学 脳科学から心の哲学へ」産業図書刊1997はさすがプロ、説明が上手。ベクトル・コード理論としての反映過程の解析、高次元コード化ベクトルとしての観念、範疇の徴表化、客観・客体化は認知過程の実験的検証可能性を示している。認知の基礎的説明は是非押さえておきたい。しかし、第10章の政治、第11章の人間の問題となると神経工学技術に捕らわれて、社会的物質代謝システムと人格形成過程の関係にまったく配慮せず、現代社会、当然にアメリカ合衆国の現実を肯定してしまっている。アメリカ制の枠内での改革の提案に過ぎない。自らの「論理経験主義的仮定」を一掃しても人類発展史の普遍性を見ようとしない。
- 2004.4.24
- 第12章 普遍的認識(思考)をやっとこさっとこ仕上げた。自信に満ちた時期もあったが、独りよがりを諫めてくれる機会がないのでとりあえずという感じ。
- イラクの日本人人質事件に対する日本国内の反応や、東京都教育委員会の施策に対する反応、いくつかの身近な職場での動きを見ていると、「こんな世の中もう一度、根底から反省する時代がこなければ」と思う。“自己責任”も果たしようがない。
- 2004.3.38
- 第11章 認識でプライミング記憶とワーキング・メモリの違いの記述訂正をした。
- 第12章の改訂が難しい。「これで見通しが立った」と思えても、すぐ新たな課題が現れる。今は意識における言語の役割を評価し直さなくてはいけないと思い始めている。
- この2月に「勝手にリンク」を大幅に改訂した。
- 2003.12.31
- 新春特別企画、改訂作業中の第12章 普遍的認識(思考)を期間限定<!− 2004.4.24 までで終了 −>公表!!! 最後に「心」についてコメントした。少し重いのでブラウザ環境によっては「心」にジャンプできないかもしれない、ゴメンナサイ。
- 2003.10.24
- 第11章 認識を改訂した。だいぶ頑張って手を入れたけれど、誰が、どんな評価をしてくれますか。
- 2003.10.4
- インデントを空白文字ではなくCSSで処理しようとする作業過程で、表記を統一しようとして節番号を変更する誤りを犯してしまった。次の更新で反映される。
- 第11章 認識を大改訂中。普遍的認識としての思考部分を第12章として分離した。公開までもう少し時間が必要。
- 2003.7.23
- ソシュールの言語学を意識して第10章での継承すべき点と、違いを少し強調した。ほんとに思考は言語によって可能になったなどと考えていたのか?呻吟して突然納得できたこと、数値計算など経験したことが無いのだろうか。第10章は「思考」についてもう少し解明してみたい。
- 2003.7.14
- 「第三編 第10章 人間の存在一般」まで改訂した。ただこの第10章は第13章まで改訂した後でもう一度見なおす必要があるかも知れない。
- 2003.4.15
- 「第二編 第9章 現実存在」まで構成を少し単純化して改訂した。ずいぶんと膨れあがってしまったが、説明不足の所を補うと仕方がない。
- 索引については「部」単位でできあがってからでないと、キーワードの選択に一貫性がとれないので当面は暫定、「索引機能はこんなものです」との例示で我慢するしかない。
- 2002.6.29
- 「HTMLは表示形式がブラウザ環境に依存し、参照ページを特定できないから論文には不向きである」との説がある。
- PタグにNAMEタグを付加し、段落ごとに通し番号なりを付番すればすむこと。かえって参照ページを明示するより明らか。それどころかそれこそハイパーテキストの面目躍如だろうに。
- 2002.4.26
- 存在は運動であり、エントロピーの視点から、運動は非平衡過程であり、非平衡過程における平衡の保存を質=規定として見直しを迫られている。
- 未完成な見直しを含めて、とりあえずの到達点をUPし、ついでに当初のように章ごとにファイルを分割する。まとめてダウンロードするには、自動解凍ファイルの"vw.exe"で。
- 2001.11.6
- 改訂の努力は第一部第二編第8章基本法則まで進んで悶絶して酒精の日々、やはりヘーゲルに戻って度量を学ばなくてはだめのよう。これをかたづけなくてはこの1年間の成果は公表できない。
- 2001.8.11
- 第2編が大きくなりすぎたのでファイルを章ごとに分割することにした。しかし、更新はまだできない。
- 勉強すれば物事はよりはっきり見えてくるものと思っていたが、ますます分からなくなってくる。
- 2001.7.1
- 「質量」でつまずいた。質量の明確な定義をしなくてはと迷い込んでしまっていた。質はまさに個別科学が明らかにしている対象であり、量は数学の対象である。個別科学、数学を学ばずに質量とは何かを追求しても、水に映った月を取ろうとするようなもの。
- 2001.6.15
- 始めて「世界観体系化の試み」の注文を受けた。長文はまだ紙媒体が勝る。といって、プリントするのは大変。いかがです、1,000円で。
- 2001.5.3
- この間半年きつかった。第6章普遍的運動の構成を変更し、第2節矛盾までを一応改訂終了。2節の改訂に半年もかけていたのでは、退職までに完成しない。
- 2000.11.5
- 先月までの改訂はそれなりの成果ではあると思う。ただし、対象性、対称性、規定性、方向性といったものを範疇・カテゴリーとして明確にし、有、全体、部分、運動、静止等を含めた相互関係を明確にする必要がある。それができたら「世界観の組立て方」ではなくて「世界の組立て方」と名付けることができるだろう。
- 2000.10.29
- 第一部第二編の第4章と第5章の改訂終了。自分としては新しい視点に立てたと思う。
- 2000.10.5
- 「哲学とは?」という入門ページを作った。暫定版
- 2000.9.28
- 有→対象性→規定性→方向性→…として第二編を改訂中。けっこう時間のかかる作業である。
- この「経過報告」を軽くするために、古い部分を別にした。
- それにしても、言語哲学者たちは子育てには関わらなかったのだろうか?ことばがどのように獲得され、成立するのかを現実に学ばなかったのだろうか?
- 2000.7.22
- 非常に参考になるwebページを紹介された。おにりんのほ〜むぺ〜じの「History」の「人類の祖先についての最近のお話( http://plaza.harmonix.ne.jp/~onizuka/Ancestors.html )」。こういうページが増えてくると楽しいのだが。
- 2000.6.16
- 第一編の何次か目の改訂作業終了。ZIP形式の圧縮ファイルを作るのはやめた。
- 両朝鮮首脳会談も成功し、台湾でも政権交代し、日本だけが取り残されていくような。総選挙結果が少しでもよい方向に向かえば良いが。
- 世はITとか。情報の共有・交換に対して、情報独占によって権力を維持していた者たちの抵抗は未だやまず。それが情報格差を放置する。しかし、情報の共有・交換によっても人々の情報利用は決してフラットにはならない。それこそ情報の整理、解釈、評価といった本物の情報価値によって人々の知的格差を生む。真のオピニオンリーダーが必要とされる。それを支えるのは確固とした哲学、世界観。
- 2000.4.16
- 第一部第一編第1章を大幅改定
- 2000.3.12
- 懸案というか、謝辞に代えてというか、どうにか参考資料を整理した。ほぼお勧めは数え挙げたが、古過ぎるものもある。それにしても、未だに積読の多さよ。
- 2000.2.26
- この間追求してきたことが、ようやく包括的に形になった。「現実存在」
- 2000.2.13
- もうだめかな?酔うと時々「アレッ,今自分は何をしゃべったのか?」と抜けることがある。
- 2000.1.16
- この間の成果の第2弾、「物質と観念の二元論」をまとめた。
- 2000.1.9
- ようやっと「大論理学」を読み終えた。ただ、読み終え、雰囲気はわかった。こんなもの筋を追って読みきれる人がいるなんて、理解できない。
- この間、何もしてこなかった訳ではない。勉強についてとりあえずまとめた。その他にもぼちぼち。
- 弁証法メーリングリストというのがあって、刺激的。
- 1999.10.9
- 22年前に買って積読していたアーサー・ケストラー著「機械の中の幽霊」。「ホロン」などという怪しげな宣伝文句を流行させ、アメリカ観念論かと高を括っていたけれど、まじめなもんで、「広島紀元」の主張までしている。第15章から第17章までは消化して我が「世界観」に取り入れなくては。
- 「権力と情報は比例する」と思われている。特に大国はそのように装うことが権力維持に必須のこととして、保証するその制度まで一定の工夫をしている。我が日本でも天皇に対して御進講がある。じかし実態は広島では警察が運動会での君が代斉唱、日の丸掲揚の実施調査をするし、神奈川県警のスキャンダル隠し、ウラン燃料再転換のJCO臨界事故と事故対応の無様さ。最高権力者でなくとも、権力を行使し、社会的地位を少しでも占めるものの資質の欠如を補う努力の何と足りないこと、それを許す馴れ合い。
- 1999.9.23
- 引用や触発された元テキストや修正個所を明らかにするため、本文にコメントをつけることにした。ソースでは"<!−−"と"−−>"で囲んで表示される。
- 世界観は世界の粗視化である。専門家は専門分野をとことん追求する。しかし世界観は世界全体を一定の深さで整合的に、統一的に把握しようとするものである。統一的整合性を維持してどこまで掘り下げられるかが世界観の程度を示す。一定のレベルを維持し、各分野間の整合を保った統一的世界の把握が世界観であるべきである。そのためには世界を粗視化しなくてはならない。個別分野の対象認識をそのまま世界全体に敷衍してはならない。「粗視化」については「クォークとジャガー」マレイ・ゲルマンより。
- 私は個人が扱える個人的認識としての世界観の提示を目指す。職業専門家には社会的認識としての世界観を示してもらえないのだろうか。「教師・生徒には君が代を歌わない自由など無い」と公に発言する教育長がいてしまう世の中に対して。
- 認識は世界を対象として反映し、世界観を形成する。さらに認識は認識をも対象とし、世界観をも対象にする。対象化された認識と世界観の世界における位置付けをより明確化すべきではないかと思い、再度第一部第一編の改定を始めている。ヘーゲルの反省を唯物論的に組替え、コペンハーゲン解釈の誤りを明らかにし得るのではないかとの野望である。
- 1999.8.24
- 第一部第一編第1章の第4節と第5節の順番入れ替え。
- 1999.7.30
- 「存在、認識と論理」にさしたる反応はなし。残念、かなり力を入れたのに。日常的な様々な「発見」「思いつき」のガラクタを話し合える環境をもたない者として、ネットワークに期待しているのだが。話し合える友を得る社会的地位を獲得する努力をしなかった罰だ、と言われればそれまで。
- リーペルト・リードル『認識の生物学』(思索社)を読み終えて、引き続きK.ローレンツ『鏡の背面』に挑戦中。53ページ最後で「ところで最高レベルの認識過程も、考えられる限り最低かつ最古レベルのそれとまったく同様の原理にもとづいている以上、別な様式の知識獲得は存在しないのだといってもよさそうである。」とある。生物が系統発生的に獲得してきた認識過程が最高であると読める。生物個体としての人間の個々の認識過程ではそうとも言えるが、人間の認識過程はそれにとどまらず、道具、設備、組織、制度を媒介にしており、認識過程自体が社会化されていることを無視してはならない。道具の利用、社会的認識過程での現実変革の過程が、人間の認識過程を生物の認識過程を超えたより発展的な認識として実現していることを無視してはならない。
- 認識を媒介する獲得物は生物一般の場合細胞からなる組織、それを実現するDNAと酵素タンパクとしての生化学物質、いわばハードウエアによって担われることまでは了解できる。これに対し人間の認識は、物質には直接依存しない概念として、さらに総体的には文化として、ソフトウエアとして実現され、保存され、継承される。
- 「最高レベルの認識過程」とはこうした人間の認識であり、この人間の認識の獲得物である「意味」「目的」「原因」などの評価、反省的認識を、生物の認識過程へ適用してしまうことは、生物学的還元主義とでも呼ぶべき傾向ではないか。西洋人によく見られる個人主義的傾向とでも言いたくなる。学問においては唯物論者であっても、自らの世界観は観念論、唯一神に支配される。勝手な思い込みに過ぎないのか。
- 1999.7.3
- 50歳の誕生記念に「存在、認識と論理」
- 1999.6.4
- 唯物論研究協会編『思想と現代』の総目録のHTML化ができた。
- 目下 ”論理性”について基本的な見方をまとめ中。様々な先生の論を読むとようやく分る気がする。
- 1999.5.5
- 岩波科学ライブラリーの高野陽太郎著「鏡の中のミステリー」をどうにか消化できた。「左右」は観念的、抽象的、形式的対立概念にとどまるものではない。
- 1999.4.29
- ヘーゲル大論理学を行きつ戻りつ、70年代の弁証法に関する緒論文を学びつつ、まだ論理性が貫徹していないとジクジ。第一部第一編の冒頭に手を入れ、第一部から第三部まで各部の冒頭を連続してリンクすることで全体の展開を見通しやすくしたつもり。これからは各編の冒頭をつなげることで各編の要約を連続して読めるように改良していきたい。
- 1999.4.2
- ヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインが亡くなっての報道で「人格的にも優れた」との報道に接して『出会いへの旅 ― メニューインは語る』を読んでみた。評判どおり、しかし、世界的な著名人がまともなことをいっても受け入れられないのに、私などどれほどの影響力を持ち得るかと寂しくなる。と言うか、どんなに良い情報が公開されていても、いかされる状況にはないということか。それにしても、最後のシアトル酋長の手紙は、レイチェルの『沈黙の春』に先立つこと凄い。
- 1999.3.11
- 唯物論研究協会編『唯物論研究』の目次ができた。
- 1999.2.28
- もう少し世間とのつながりを持とうかと反省して資料室>を作成した。目玉は1970年代の汐文社から刊行された唯物論編集委員会編『唯物論』の総目次。できれば本分テキストを公開できれば良いのだけれど、著作権者の承諾を得なくては不可能。承諾をいただければ公開作業をお手伝いします。
- 1999.2.16-2.21
- 科学的であることを要求する世界観であるからやはり「観測問題」を避けてすますことはできない。戸田盛和著「物理読本2 ミクロへ、さらにミクロへ 量子力学の世界」を読んである程度整理できたので追加した。表現は不十分であるが問題は整理できたと思う。それにしてもヘーゲルの「有論」そのものの応用、いや基礎ではないか、との感じである。ヘーゲルは「原子の形状、位置、その運動の方向などに関する古代人の説は全くデタラメで、勝手極まるものである。」と断じているが、量子論を知ったら原子(量子)を一者の実在として唯物論に乗り換えただろうに。
- 1999.1.30
- 都城秋穂著「科学革命とは何か」に大変触発された。「科学革命論」を超えて、理論のいわゆる「科学的」の問題は対象の対称性の問題である。対称性の高い対象は普遍性と現実性が直接的に連関して再現性が高い。物理学、化学の対象の個別性は問題にならない。時間の非対称性は歴史過程の理論を非可逆的に規定する。生物の生化学反応は個体について対称性をもつが、免疫については対称性が破れ始め、突然変異にいたっては個体も対称性をもたない。対称性が低ければ対象の個別性が増し、法則の必然性は個別を規定する偶然性によって多様な現われ方をする。社会や文化については対称性を見出すことすら難しい。科学論も、もうすこし勉強しなくては、世界観を人に示すことなどとてもできないことなのだけれど。
- 1999.1.29
- 我が家の勉強嫌いの息子が「もののけ姫」のテレビ放映を見て「始め見て分らなかったことが分かるようになった」と言った。そうだ、この息子が勉強嫌いなのは「理解する」ということを理解できていないのだ。親の言うことをすぐ「うるさい」と拒否するのは何でも簡単に情報が与えられてしまい、それで分った気にさせてしまうことによるのではないか。教科書に書いてあることを覚えてしまえば終わってしまう勉強に興味を持てる訳がない。「何のために勉強するのか」学歴のためでも、知識を詰め込むことでもない。物事をよりよく理解し、人生を豊かにするためではなかったのか。豊かな日々とか、芸術とかは物事をより深く味わえる理解力を育てなくては獲得できない。簡単に手に入り、数回で捨ててしまう流行文化を消費して、豊かな生活などできるわけがない。理解力をつけるための勉強をして欲しいのだが。
- 1999.1.10
- ftpサーバーでないので御法度かもしれないが、「世界観の組立方」全ファイルをZIP圧縮してダウンロードできるようにした。さらに2月からは自動解凍ファイルも用意した。
- 1998.12.30
- ヘーゲル「大論理学」は、内容を理解できなくとも、世界観の問題として不可欠な概念の見落としがないように眼を通せば良いと思っていたけれど、やはりそれでは済まされない。訳のせいか、ドイツ語の文の長さのせいか難解だと思っていたけれど、巻、編程度の量を通して数回読み返してみると次第に分るような気がしてくる。
- 同様に、「唯物論」「唯物論研究」「思想と現代」と並行して「科学と思想」等の積読になってしまっている我が青春時代の雑誌での問題提起にまじめに自分なりの答えを出さなくては、世間との噛み合わせができないのかなと反省。
- 正月休を機に再度まじめな勉強を開始しようと決意。そのため、「組立」がますます遅れてしまう。定年までに、生きてるうちに完成するか不安。
- パソコン研修のレジメを作成していて、ブートストラップローダーのアナロジーが世界の構造説明に有効ではないかと。物理的な電子回路に電流が流れると、回路が初期化され、指定された回路の信号がロードされ、ロードされた信号を処理することでロードプログラムがロードされ、ロードプログラムが実行されることでオペレーションシステムがロードされ実行されて実行権がユーザーに渡され利用環境が整う。ユーザーはアプリケーションプログラムをロード、実行する。ユーザーはユーザー間でデータを交換し、情報処理を行う。物理的電子回路が情報処理を媒介する過程をきっちりと定義することによって階層性の成り立ちを説明できるのではないかと。
- 1998.12.5
- 眼と写真機の機能の解説では、瞼、レンズ、ひとみ、網膜だけではなく、現像、印画の後処理も含めなくては不十分である。
- 最相葉月著「絶対音感」がやっと手に入った。結局、視覚や聴覚の感覚情報処理はパターン認識であり、感覚情報として獲得してきた世界感と比較し、位置づけることで対象を認識する。いわゆる色盲、色弱であっても色世界についての高度な情報処理を実現し、独自の色世界を認識している。人間の場合はそれらを含め障害としてではなく、個性として共生することができる。さらに、人間は感覚にとどまらず論理におけるパターン認識も学習できる。ホフスタッターもけりをつけなくては。論理によるパターン認識の基準になるのが世界観である。世界を知り、自分を知ることによって平等な人格を理解できる。と夢うつつで思い巡らしながら、「障害ではなく個性である」ことを実感させてくれた早稲田大学学生講演者の名前は何といったけと、今朝起き出してテレビを見たら当の「五体不満足」の著者乙武氏が紹介されていた。
- 官僚制、会社組織、マスコミ等の既成の評価体系の中だけで出世した者によっては、このにぎやかな閉塞状況を打開できない。多くの、大小のオピニオンリーダー=意見表明者を育てなくてはならない。オピニオンリーダーは個人の才能、努力だけで生まれるものではなく、支持者によって育てられる。オピニオンリーダーは組織しなくては消耗し、潰れてしまう。過ぎた組織ではつまらなくなる。
- 1998.11.25
- シュレディンガーの猫の実験をもう一度やろう。
- ただし、今度は青酸ガスの量を増やして、実験室を密閉して。もう誰かがやってしまっているのかも知れないが。
- さて、猫の生と死の重ね合わせの状態は科学者が猫の入った箱の蓋を開けることによって生か死かの状態に収束する。しかし、その途端に猫が死んでいれば科学者は死ぬ。猫が生きていれば科学者も生き延びる。しかしその結果は実験室の外にいる我々には分らない。実験室を換気して戸を開けるまでは科学者は生と死の重ね合わせにある。換気設備が壊れていれば、我々も重ね合わされる。
- この重ね合わせ状態はどこまで拡張されるのか。そもそも重ね合わせ状態は存在するのか。
- 問題は重ね合わせ状態を局所系に限ることによって起こる。現実にはすべての物事は他との関連、その延長としての世界全体と関連している。もともと、局所的な存在などこの世界にはない。すべての量子的存在も他と関連し、その連なりとして全体と関連していることによって重ね合わせのすべての分岐可能性を収束している。
- 世界のすべての重ね合わせの無限の可能性は一つの世界に繰込まれてている。多元世界の可能性はつぶれている。無限の分岐可能性は世界の実現過程で一つの世界を維持している。
- 必然性は偶然の実現過程をとおして現われる。一つの可能性、その可能性の結果から引き継がれる可能性は一つ一つが実現される現実の過程で可能性ではなく現実性になり、一つの世界を実現する。一つの世界はそれら一連の可能性、その他の一連の可能性のすべての連関の実現としてある。世界のすべての可能性は相互に規定し合い、世界を規定することによって一つの世界を実現している。
- 「ウィグナーの友人」との関係を要整理 [1999.2.16]
- 1998.10.20
- 生物進化の可能性、根拠をめぐってドーキンスの主張をどう消化しようかと長い間思い巡らしてきた。「結果選択」「選択累積」などと造語いじりをしてきたが、偶然性と必然性の関係、一般的形式としての発展過程を定義できそうな気がする。
- 1998.10.10
- このところサボリ気味で節酒できていない状況。でも法則の現象過程について法則自体の階層性と同時に法則の現象過程の階層性の関係について思いついた。乱暴な例で言えば、生物は生まれ生長し生殖し老化し死ぬという一般法則にしたがう。しかしこの法則は生物個体の運動過程を絶対的に規定してはいるけれども、個々の生物の生活過程に対する規定としては絶対的ではない。病気等によってより強力に規定されるし、生殖に関しては寂しい結果もある。一般法則は強力ではあるが、個別の現象過程では特殊法則の規定性の方が強力である。さらに生物は物理化学法則にも規定されており、環境の変化によって存在そのものが規定されている。この法則規定の関係性を明確化して社会科学に敷延すると、「階級闘争論は誤りである」との様々な反論に有効に答ええる。また「反証条件を提示できない主張は科学ではない」との主張にも答ええる。「科学はパラダイムの転換を通して発展する」との形式化に対して、傍証の根拠となる。
- 数論の勉強も遅々とは(=極めてゆっくりと)進んでいる。評価版における自然数の成立の歴史的過程の誤りも学んだし。しかしそれにしても、ヘーゲルの数学理解を現代の数学に基づいて解説してくれている物はないのかしら。
- 1998.9.9
- この間進展がないのは第一編にやはり修正の必要があること、第二編に進むにはヘーゲル「大論理学 第二編大きさ」以下とソーンダース・マックレーンの「数学−その形式と機能」等を一応は、分かるだけ読んでからと高望みしているから。
- ところで、専門家がなかなか意見を言ってくれないのは「どうせ素人の思いつき」との評価ではないかな。「素人の思いつきは大方下らないし、取り上げる価値もない戯言の繰り返し」それは真実でしょう。しかしどんな偉大な科学者でも思いつきで仕事をしている。ハズ。しかも素人と同じように大半は下らなく、また誤った思いつきを。素人と専門家の思いつきの違いは思いつきの評価フィルターでしょう。どれほど体系化され、試されたフィルターを通して思いつきを評価するか。思いつきは知ってしまえば、知識として位置づけられてしまえばどうと言うことのないこと。学習とはそのフィルターを学ぶこと。大切なのはいつまでも、どこでも思いついてフィルターにかけること。
- メールでご批判を紹介するコーナーを設けようかと計画中。このホームページも"yahoo"等に直接登録しようかと計画中。
- 学校教育では学級崩壊が言われ、とうとうその原因は家庭崩壊にあると言われ始めた。何故、家庭崩壊が。なのに労働基準法の「改正」、「合理化」、グローバルスタンダードの導入、「競争しなくては生活できない」と。自分たちで自分の首を絞めてその責任を感じない者が世の中を嘆く資格があるのか。
- 1998.8.19
- 第一編の改訂を一応終えて印刷してみた。手を入れるところはすぐに見つかるがとりあえずは満足、そして虚脱感。第二編に進めるかしらん。で岩波科学ライブラリーを手にして焦り始める。
- 我々団塊中高年は一般教養から離れて30年以上経つ。それでなくても受験競争を頑張った人たちは受験科目以外は気にしなかっただろうに。この30年の免疫学、脳神経学、宇宙論、情報学、そして20世紀初頭の論理学・数学の一般への普及は大変なものだ。改めて積読した本の価値に驚く。こんな世の中でもまじめに頑張っている人がいるのだから、せめて私にできることとして、飲酒を制限して勉強しつつ改訂作業を進めなくては。
- 1998.8.16
- ようやく第一部第一編の改訂が終わった。夏休みも半分以上過ぎたのに、遅い進捗。
- この世界観を記述する作業と言うのは、宇宙人へのメッセージをボイジャーに託して送り出すのに似た、返事を期待できぬ空しいことなのか?
- 1998.8.2
- 存在論の視点を有論からの発展段階に置き換えなくては。
- 体系的世界観はエレガントでなくてはと、用語の定義も端緒から論理の展開の段階に応じて順次連なっていくように記述したかったのだけどできそうもない。「評価版」では序論だけに「状況説明」をし、また段下げ(webページ記述では「蛇足」、「注」)、鈎括弧書きを多用してた。この改訂版ではより分かりやすく、明確に記述するために用語の説明、状況の説明を文字サイズを小さくいて、フォントを斜体にして記述することにした。自己言及表現は避けようもないことにひらきなおることにした。淋しいけれどエレガントさの放棄宣言。
- 1998.7.29
- 有論を受けて存在論へ。もはや存在論は単なる思弁ではなくなる。有が規定され、関係のうちに現れる存在として論じなくてはならない。
- 1998.7.28
- 第一編第2章有論まで改訂が一段落した。ただ最終的には印字して見直さなくてはならないけれど。
- 1998.7.22
- この夏休みの課題として、ヘーゲルの精神現象学と大論理学、ホフスタッターのメタマジックゲームに取り掛かろうとして、自己言及の普遍性について思い当たった。
- 宇宙進化の結果として世界を認識する意識が生まれた。この事自体が自己言及ではないか。認識の成立、自意識の成立そのものも自己言及の過程ではないか。となると、世界観の端緒からこれを取り上げることで分かりやすくなるのではないかと改造を始めることにした。また始めからやり直し。
- 精神現象学は難しい。ヘーゲル哲学の宣言文だから読み飛ばしてもいいのだと自分を納得させて机に縛り付けることにした。同時に大論理学に取り組み始めたら、今回は分かりやすい。まだ序文だけど、概念として本質を捉える思惟の論理学は自己言及ではないか。
- 1998.7.4
- 第一部第一編第1章序論の序まで改訂が進んだ。まだ始めの一歩。改訂は第一部第一編の始めからの論点の整理と、思いつきの書きっぱなしをきちっと説明することを中心課題にしている。同時に誤りの訂正、欠けている論点の追加は順序に関係なく全編にわたり改訂する。
- 1998.6.24
- この間ポール・フルキエ「哲学講義1」に示唆されて「記憶」についてまとめ中。おかげで生物に関する記述のつながり、バランスが崩れてきている。
- 1998.6.14
- 更新経過の記録、進捗状況、現在学んでいることを報告するため、この過程の記録を作り始める。これによって皆様のご批判を受け入れる媒体としていくつもり。
- 現在の学習状況。この間生物学の勉強不足を実感、岩波新書を読んでるところ。丸山茂徳、磯崎行雄著「生命と地球の歴史」、小長谷正明著「神経内科」「脳と神経内科」、村上元彦著「どうしてものが見えるのか」、いっしょに佐々木力著「科学論入門」を読み終わったところ。これらは通勤電車中で読む。「精神現象学」「大論理学」は中断中。家では勉強するより酔っ払い、テレビを見ている方が多い。今日はサッカーワールドカップ日本の緒戦。
- 1998.5.7
- 新版 全ファイル アップロード公開開始。第一部から公表できる文書としてわかりやすいように書き換え開始。示唆的、象徴的、一人よがりな表現をまず叩き直さなくては。
- 1998.5.6
- 職場も変わって生活も落ち着きいよいよ「新版 世界観体系化の試み」改め、この間の訂正、追加をしてフレーム版「世界観の組立て方」への組替えを終了。序は含まず。
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