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 このページは、スタディユニオン:哲学道場の「レジュメ」として作成したものです。

目次

1.哲学は拠り所を求める。
2.対象性と個別性
3.存在
番外 共同主観性についての疑問
4.共同主観性と素朴実在論
5.二元論
6.視覚の基礎
7.意識
8.理性


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2005.4.3

1.哲学は拠り所を求める。

1-1.ギリシャからデカルトのように。
1-1-1.世界、自分、真理、等。しかもその普遍性を求める。

1-2.経験を根拠とするなら
1-2-1.経験には個人的限界がある。空間的、時間的、能力的
1-2-2.経験、対象化の感覚、記憶の特殊性と普遍。「ありのまま」の意味。
1-2-3.自我の確立を振り返る。経験の始まりはいつ、どこからか。
1-2-4.経験は自他の区別の相対性と自己経験の絶対性に(が)ある。

1-3.科学を根拠とするなら
1-3-1.科学は社会的認識である。運用技術経験、教育、資源。社会環境
1-3-2.観測、観察データ間の相互規定関係と理論。理論による対象の説明解釈。科学にも限界があり、到達点でしかなく、仮説でしかないが。
1-3-3.根拠としての解釈、説明は科学をはみ出る。科学と学問

1-4.根拠の手がかり。方法
1-4-1.自己と対象、主観と客体、観念と物質。二元の乖離と対立
1-4-2.「私」について知るにも、説明するにも対象によらなくてはならない。他を介して自分を知る。しかもコトバによって説明する。
1-4-3.前提を保留して全体を明らかにすることで前提を含んで確認する。再帰構造自己言及弁証法
1-4-4.個別性と普遍性による対象認識。世界を世界観として構成する。
1-4-5.普遍的表象世界を実在する対象世界に重ね合わせる。


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2005.6.5

2.対象性と個別性

2-1.対象性(object )
2-1-1.普通は主体、あるいは主観によって対象は関係づけられる。
2-1-2.主体、主観にかかわらず対象が対象であるのは相互に対象であるから。相互に対象化することで個別として互に区別する。物事が実現する過程、生まれる過程での存在の有り様。
2-1-3.主体、主観も個別対象と相互に対象化する。生理的物質代謝として。認識の媒介過程として。コミュニケーションにおいて。
2-1-4.主観から見て客観的対象は相互対象化関係で存在する。実在としての有り様。
2-1-5.対象性は対象になるものと、対象にするものとが相互にその関係にあること。観照ではない。

2-2.対象性と対称性(symmetry )
2-2-1.対象性は対称性(秩序、当然性)を破ること。
2-2-1-1.対称性は数学、物理学の基本概念。変換しても保存される関係形式=秩序。空間対称性には並進(ずらし)、回転、鏡映、映進(ずらし鏡映)、螺旋が区別される。さらに時間の非対称性として非可逆性=時間の方向が定まる。
2-2-1-2.宇宙進化の過程は対称性の破れる過程でありながら、秩序を実現してきた。全体=閉じた系のエントロピーの増大として無秩序化しながら、部分=開いた系で秩序、法則を実現してきている。
2-2-1-3.生命は物理化学的過程の対称性を破るもの。さらに精神、文化も生命過程の対称性を超える。
2-2-2.対称性は破られるものを否定し、破るもの(対称軸、基準)を保存することで破られたものを相互に区別する。
2-2-3.対称性は秩序であるが、全くの対称性は区別できず、逆に全くの混沌とも区別できない。客観的に対称性は相互対象化としてあり、主観的には対象化によって表れる。

2-3.対象性は個別性
2-3-1.個別は対象性を担うものとして他から区別され、かつ全体から区別される存在単位、認識単位。対象は個別として区別される。主体、主観は先天的に経験的に個別を区別する。
2-3-2.主観によってではなく、個別はそれ自体が系として閉じ、他に対する自律として秩序を実現し、保存する。
2-3-3.秩序の階層にあって、階層内で相対的に区別されながら、階層を貫いて自体にとって絶対的に実現する。


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2005.8.3

3.存在

3-1. 存在の問題
「・・・は存在するか、しないか」と問うのではなく、逆に「存在するとはどういうことか」を問う。

3-2. 存在の定義
3-2-1. 存在は関連として他に作用し、他からの作用を受けることである。他と相互作用するものが存在するものである。対象化し、対象化されるものとしての対象性が存在することである。
3-2-2. どのように作用するかがそのものの性であり、他から区別される規定である。他との相互関係に対象の個別性が現れる。
3-2-3. どのような作用、性質、規定があるかは対象それぞれによって異なる。対象それぞれに応じて科学は分科している。
3-2-4. 相互作用の基本は物理的4つの相互作用である。重力、強い相互作用、弱い相互作用、電磁相互作用
3-2-5. 物理的相互作用に媒介されて、化学的、生物的、精神的、文化的相互作用が実現する。それぞれの階層で、複数の相互作用そのものを他と区別するまとまりとして個別存在が現れる。
3-2-6. 日常生活で対象となる個別存在は多数の性質、規定をもつ。にもかかわらず一つの個別存在として対象化され、名づけられている。通常「その名の物」について、特定の時刻・場所での存在・不存在を問う。
3-2-7. 哲学的存在は「その名の物」の普遍的な存在・非存在を問う。それぞれの名が指示する対象ではなく、普遍的相互規定関係でそれぞれの規定での個別の存在・非存在を問う。
3-2-8. 存在は確かめることに関わりなくあり、確かめることは認識の問題である。〔素朴実在論
3-2-9. 発見は通常の相互関係に表れる異常な作用を明らかにし、その作用を担うものが他の関係ではどのような作用をしている個別であるかで、既知の存在との異同を明らかにする。

3-3. 存在を問うもの
3-3-1. この存在規定で唯一存在を明らかにできないのが、「自意識」、「主観」である。「主観」は対象化するものであって直接対象にはならない。主観は自らを対象のなかに位置づけ、対象間の客観的関係に反省することで間接的に主観を対象化できる。主観は主観を媒介する主体としての人の意識に位置づけられて、他の存在と同じに存在する。〔二元論


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番外

2005.10.1

共同主観性についての疑問

主観は正当な根拠なのか
そもそも人の認識は感覚も含めて身体を制御するための便宜的なもの。その認識を普遍化するものとして知性が発達した。
意識は一時に一点しか対象化できない。共同作業であっても視点は異なる。
感じ方、理解の仕方の多様性は無限である。障害者と健丈者との能力は連続した分布である。
人それぞれの経験によって、いだく表象、記憶、解釈には大小の違いがある。

共同はどのように保証されるのか。共通理解は成り立っているのか
他者が自分と同じであることの根拠はないか。
他者も自分と同じように認識しているであろうと、対象を分節化、範疇化して表象を得て、言語等の記号で表現する。
この表象を対象化する限りで共同主観性が成り立つ。

人知の及ばない世界は存在しないのか
共同主観の「主観」、「対象」とは何か。
共同主観の「現象」とは何か。「分断された客観そのもの、主観そのものは存在しない。すべては現象として存在する。」現象がすべてであるなら「非現象」もなく、存在を定義したことにはならない。
「歴史化された自然」は歴史化される前の自然を認めているではないか。

無意識の自分を否定するのか
意識した思考は思考の極一部分である。大雑把な話、前頭葉が受入れ処理している表象を意識しているに過ぎない。



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2006.1.28

4.共同主観と素朴実在論

4-1. 共同主観
4-1-1. 対象として存在し、知り得るのは主観が共同して対象化できた存在である。
※ 「実際には…対象が既成のかたちで現前するわけではない。…判断があってはじめて…“性質を備えた対象”が構成的に定立されるというのが実体である。」廣松『認識』1979.2
4-1-2. 知識の媒体である言語も共同主観によって獲得された。
4-1-3. 対象として確認できるのはその言語によって指示、表現できる存在である。
4-1-4. すべての存在は知識として確認できた対象である。

4-2. 市川の素朴実在論
4-2-1. 主観は主体にあって対象化する反映=意識である。
4-2-2. 主観は主観以外のものと、主観自らを対象化するものとして、すべてを対象化するものとしてある。
4-2-3. 主観にとっては他人の意識も主観自らと同じにはない、他の対象と同じ客体でしかない。
4-2-4. 共同主観でいう「存在」「概念」も共同で獲得したものではなく、生活経験の対象を説明するものとして学んだものである。進化の過程で獲得してきた認識の枠組み、弁別能力(これを先験的主観と云っているが)も自らの成長段階で経験、訓練することで使えるようになった。
4-2-5. 主観の内にある学んだ観念とは別に、外に、生活体験の対象が客観的に存在する。

4-2-6.こで4-1-1.※ に反論
4-2-6-1.実体である「対象」は自発的に対称性を破ることで、相互規定関係に「既成のかたち」を実現している。
4-2-6-2.表象の解釈で、意味づけ「判断」する際には、云うように「構成的に定立」し表象を分節化、範疇化する。「主語的対象を対象として構成的に措定する営為
4-2-6-3.主語・述語の規定関係は単独では成立しない。コトバだけでは意味規定関係は循環してしまう。コトバの個々の規定関係は、コトバの相互規定関係全体のなかに位置づけることで成り立つ。コトバの相互規定関係全体として、まさに共同主観が対象とする世界が反映されている。
4-2-6-4.「対象」の個別性は対象の普遍的存在としてある。個別性は共同主観にはなんら依存しない。

4-3.対立点(4-3-2)
4-3-1.物理的時空間は物理的運動の普遍的形式である。
4-3-1-1.光速度等の普遍定数は運動の普遍的形式を表している。
4-3-1-2.数学的普遍性はオイラーの恒等式が象徴している。
iπ = -1 [自然対数(e)、虚数単位(i)、円周率(π)、自然数(1)]
4-3-2.「科学は仮説である」という意味では「共同主観」も成り立ちえる。「共同主観」であれ、科学であれその対象は、主観でない客観的実在世界として存在している。
4-3-3.共同主観でいう「測る」ことも主観と対象との再現性のある、不変的関係を前提にしている。
「測らなくては知り得ない」というが、「測ること」それ自体が測定結果の再現性を認めている。それが存在対象の普遍性である。
4-3-4.主観と対象との関係の絶対性を根拠に、科学「仮説」として表現される対象が普遍的実在世界として存在する。

4-4.これ以上の議論は異なる立場間の反論の繰り返しになってしまう。「認識論」を取り上げることで先に進むことができるだろう。



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2006.2.18

5.二元論

5-1.主観と対象の二元論
5-1-1.私にとっての存在は自意識=主観と対象である。意識、主観だけの存在を主張する独我論と似て非なるものである。
5-1-2.この存在の否定は意識の消失であり睡眠、麻痺、そしてたぶん死である。
5-1-3.この存在関係は私にとってすべてであり、絶対的である。この区別を乗り越えることはできない。

5-2.対象の主観への現れ
5-2-1.対象は主観に感覚表象世界としてまず反映される。
5-2-1-1.感覚表象は具体的で個別的である。
5-2-1-2.感覚表象での時空間は一面、一瞬に限られている。
5-2-2.感覚表象を反省することで知覚表象世界を得る。この「反省」は意識されていない。
5-2-2-1.知覚表象では対象を他との関係に個別化してとらえる。
5-2-2-2.個別対象は時空間に対して相対的に不変である。変化すると個別対象は区別される他の個別へ転化する。
5-2-3.個別対象を個別間の相互関係全体に位置づけることで観念表象を得る。この位置づけは意識的におこなうこともできる。
5-2-3-1.観念表象は感覚表象に対し普遍的である。
5-2-3-2.個別表象は観念として意味づけられる。
5-2-3-3.私にとって物質ではない観念が、私自身として、主観として確実に存在する。この非物質である観念をとらえない唯物論は観念論に対して非力である。
5-2-4.観念表象をコトバで指示し、相互関係をコトバで表現したものが論理である。
5-2-4-1.論理は理解できた関係しか表現することはできない。

5-3.主観の主観への現れ
5-3-1.主観に反映される対象世界を意識的に反省することで、対象世界における主観の存在を位置づける。
5-3-2.人間主体の実践での精神活動、意識活動として主観はある。
5-3-3.主観に反映される主観的表象世界ではなく、主観を超えて、人間主体が働きかける実在世界を客観的に学ぶ。

5-4.主体の実現
5-4-1.二元世界にあって、主体としてある自らを実現し続けている。
5-4-2.主観は主体を実在世界に位置づけ、方向づける。

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2006.5.27

6.視覚の基礎

視覚も進化の過程で獲得された。
生活環境のなかで光の来る方向、対応する運動の仕方で視覚器官の身体上の位置が決まった。ミミズと脊椎動物での違い、魚や牛馬と人では視野も違う。視野を広くとるか、立体視をとるかは生活環境によって異なる。
ひとたび受光の組織ができれば、組織は受光に特化することが淘汰圧になる。よりよく光に反応することが有利になる。明暗の区別は、影を認知し、影を像として抽象する。像を区別することで環境を評価する。視覚像を区別することで餌を見つけ、自らが餌にならないよう敵を見つける。視覚による捕食関係で個別存在を対象とする運動能力が飛躍的に発達した。カンブリア紀に視覚を獲得したことによって種は一機に増えたとの主張もある。

視覚が見ているのは基本的に色、形、大きさ、遠近、動きである。視覚がもたらすこの5つの情報と、触覚や聴覚、臭覚、時には味覚も含めた情報と統合し、記憶と照合することで初めて対象を見ることができる。視覚は発展的に対象物だけではなく空間、運動、そして他との関係に表れる意味も見ている。
視覚は眼だけでなく中枢神経も含めた視覚系全体で見ている。眼がとらえているのは光であって対象物ではない。視覚は光を受けるだけでは見ることができない。視覚は生後の経験・訓練によって獲得される。3歳までに視覚経験をしないと正常に発達しない。
ステレオグラムは通常の視線とは違う見方、交叉法、または平衡法によらなくてはならず、練習が必要である。上下を逆転させる眼鏡をかけると初めは倒立てみえ、動くと視野が動揺し、めまいを起こすが、数日で成立して見えてくるという。視覚表象が上下逆転するのではなく、視覚表象の高次処理での解釈が変換されることを表す。
鏡を見る時も鏡を見ることから、鏡像を見るまでにも慣れがある。
絵画の鑑賞でも訓練に応じてより豊かに見えるようになる。

【視覚光学】

人が感じることのできる光の波長範囲は、生活環境である地球での太陽光に応じて決まっている。光源温度で6千度、人は波長400〜700ナノ・メートルを可視光にしている。
もし、赤外線を見ることができても、自らの身体が発する赤外線を見てしまう。X線が見えたとしたら、対象を透過する光までも見てしまうことになる。昆虫や猛禽類は紫外線を見ることができる。

色は基本的に光の波長の区別である。色の区別は解釈であり、主観的である。
光は対象から発し、あるいは対象で反射する。光の色は光源色と物体色で違う。
光源色の違いは光の波長の違いであり、波長の違いは二次元の区別として線上に表すことができる。色温度も二次元の線上に表現することができる。物体色には色相、鮮やかさ=彩度、明るさの違いがあり、三次元の立体を表す。三次元の区別はマンセル色立体のように標準化されている。
物体色は物体の受けた光が反射することで光の性質が変化する。物体表面が解析格子を形作っていると反射光は干渉してCDの記録面の、ホログラム画像の色が見える。光の干渉であって物の色が変わるのではない。銀色、金色、茶色等は波長によって区別される色ではない。
人の眼は光を3色に分けている。テレビのディスプレイでは赤、緑、青の3色それぞれの明るさを変えることによってフルカラーを表現している。また、コマの表面を色分けして回転させれば別の色が見える。決して光の波長が変化するのではない。他方聴覚では混合は起きない。音楽で各楽器の音は別々に聞こえる。

色には反対色、補色の関係もある。赤、緑、青の三原色の関係は黄を加えた四色関係に変換している。視細胞は赤、緑、青に色を分解するが、色覚ではこれに黄色が加わり、4色を基本にする。赤と緑、黄と青はそれぞれ反対色である。色相の色味に一方が見えると反対色は見えない相補関係にある。反対色は4色関係にさらに白と黒の関係が加わる。
物理的に黒は光を出さないが、スクリーンは白であり、人はスクリーン上に黒を見る。これら色の性質は光や視覚の問題ではなく、色の関係構造解釈の問題である。この解釈も網膜での神経細胞網での信号処理によって行われている。

【眼の機構】

光は光の物理法則にしたがい、瞳に到達する。したがって光りは明らかな方向の情報をもたらす。遮る物が途中にあれば見えない。透過する物があれば光りの量が減ったり、屈折したりする。光りは届かないことによっても、変化することによっても視覚情報をもたらす。
眼では瞳で光量が調整され、水晶体で屈折率が調整されて網膜に像を結ぶ。光が強烈であればまぶたを閉じ、強すぎるときは瞳を小さくし、弱すぎると大きくする。瞳の調整は虹彩の輪状と放射状の筋肉をそれぞれ縮ませる。網膜に像が焦点を結ぶように水晶体を調節するが、これは水晶体の弾性と水晶体を取り巻く毛様体の筋肉が縮むことによる。さらに対象の像を捉えるために、眼球にとりついている6本の筋肉を使って視線方向を変える視線を変えるだけで不十分な場合は頭を、さらには身体の向きを変える。見ることでこの調整はおこなわれる。意識しなくとも見た結果を再帰し、フィードバックしている。単に光を受動的に受け取っているのではない。

網膜の底にある視細胞では光を受けてタンパク質である視物質が分解し、これを刺激として視細胞膜のイオンチャンネルが開くいて発火する。その後直ちに視物質は再結合し再生する。
視細胞には桿体細胞と錘体細胞の2種類がある。桿体細胞が1億2000万個と錘体細胞が600万個ある。桿体細胞と錐体細胞の網膜での分布は偏っており、錐体細胞は像が焦点を結ぶ黄斑では独占的に集中し、周辺部にはほぼ均等にある。桿体細胞は黄斑を取り巻くように多くあり、周辺になるほど少なくなる。人の視野は広いが焦点が合って、分解能の高いのは視線方向の一部、黄斑の中心窩であり、錘体細胞が集中する。視細胞から脳へは120万本の視神経でつながっている。視細胞と視神経との対応は中心窩付近では1対1対応であるが周囲では1,000対1以上の対応になっている。したがって、視野での情報分布量は空間的に歪んでいる。ただし、視界の周辺部であっても対象像の空間移動に関する情報は優先的に処理される。
桿体細胞は1個の光にも反応し、数個の桿体細胞が反応すればその反応を受ける双極細胞が発火し、眼は光を感じることができる。
錐体細胞には異なる波長域で反応の強さが違う、赤、緑、青それぞれに特に強く反応する3種類がある。それぞれの光の波長に反応する錐体細胞の区別によって色の違いを区別する。
人の網膜の感度は可変である。明るいところから暗いところへ変われば暗順応する。まず錘体が素早く暗順応し、しばらくして桿体が暗順応する。
また、視神経が眼から出る盲点には当然に視細胞はない。盲点では光を感じることはできない。見えないはずの盲点を見えているように補正しているのは視覚の解釈によってである。

視細胞は双曲細胞につながる。双曲細胞は水平細胞、アマクリン細胞ともつながって層をなしている。双曲細胞は次の層である神経節細胞につながる。神経節細胞は受容野を形成し、中心の光に興奮性の反応をし、周囲には抑制性の反応をするものと、逆に中心の光に抑制性の反応をし、周囲には興奮性の反応をするものとがある。この側抑制によて光の強弱の差を拡大し、対象の輪郭を強調して形を鮮明にとらえる。また神経節細胞には光のあるなしに反応し、素早く脳へ伝えるものと、光の強弱に反応する2種類の細胞がある。

錐体細胞での3色分解は次の水平細胞ネットワークで4色に演算・変換され、関連づけ直される。水平細胞ネットワークで反対色感の量差が区別される。反対色関係は正負の量的関係に変換する。

【視覚情報処理】

左右の眼からの視神経は視野の外側、すなわち網膜の内側からの視神経は途中の視交叉と呼ばれる部分で交叉し、視野の内側、すなわち網膜の外側からの視神経はそのまま左右大脳の外側膝状態と上丘と呼ばれる部分、運動神経核へつながる。交叉することにより視野の右半分は左大脳半球へ、視野の左半分は右大脳半球へ伝えられる。
視神経の一部は視交叉上核へもつながる。視交叉上核は光の強さによって体内リズムを調整する。
上丘は大脳の奥(中脳)にあり、視覚情報を目の網膜や視覚野などから受け取り、脳幹にある眼球運動制御の神経核に信号を送り出す。運動神経核は眼球運動を調整し、視線を移動させる。目に光が入ったときに瞳孔を収縮させる対光反射、見ている物が近づいたときにレンズを薄くしてピントを合わせる調節反射、それと同時に視線を内側に寄せる輻輳反射に関わる。上丘へつながるのは網膜周辺部の桿体からの視神経であり、視力は弱いが動きの検出に優れている。上丘にある神経細胞は聴覚情報、前庭器官からの頭の位置情報も寄せられ、そして意味づけされた後の視覚情報が再帰する。このことで上丘は身体の空間定位を担う中枢と考えられる。
外側膝状体では神経細胞は6層に分かれ、左右それぞれの視野に分かれる入力を調整して視覚皮質へ出力する。外側膝状体でも神経細胞は網膜の神経節細胞受容野の空間配置に対応する。
外側膝状体からは大脳後頭部にある視覚皮質へ視放線と呼ばれる神経によってつながる。視覚皮質の視覚野は4段階の野を順次経てそれぞれで視覚表象の特徴を区別しする。第一次視覚野では線分の傾き、方向、長さや、色、動き等を区別して反応する神経細胞の機能単位=コラムが並んでいる。二次視覚野では線分の太さ、間隔、輪郭、三次視覚野では・・・とそれぞれで情報処理している。低次の領野では網膜像と細胞の空間配置が対応しているが、順次情報の意味に従って、細胞の空間配置の対応は崩れる。
側頭葉の高次視覚では顔やその表情、手の動きに特化した情報処理もしている。最終的には視覚を超えて「四角らしさ」まで抽象して認知する。表情に表れる情動は単なる視覚情報ではなく、相手の立場になることによって理解する。
視覚野での視覚情報は連合野で側頭葉に記憶された視覚表象と比較されたり、他の感覚情報と統合されたりする。物体として対象を見ることも、空間配置を見ることも、高次の視覚として実現されている。

【視覚像とパターン】

焦点が合って、詳細に見ることのできるのは視線方向だけである。対象を見るには無意識であっても解釈が必要であり、解釈に時間がかかる。このため、広がりのある対象を見るには視線を移動させる。連続的に視線を動かすなら画像が流れてしまうが、一点一点に一時的に視点を固定し、次々と特徴点に跳躍することで見る。跳躍時は跳躍時抑制によって光を感じない。この際視線の先だけしか見えないように制限すると対象を理解することはできない。視界の内に全体を見ながら視線の先の部分を次々と見ることによって対象を理解することができる。
感覚は対象のうちに秩序をパターンとしてとらえようとする。対象表象に保存されている秩序を単位として、個別対象化してとらえる。全体のなかに部分を個別として捨象する。個別として他から区別することは、対象の秩序を抽象することである。パターン認識は対象にある秩序の抽出である。パターン認識としての秩序抽出を感覚は生理的にも、意識的にもおこなっている。
ステレオグラムでは左右それぞれの眼に入る画素を見て、対応関係にある画素と無秩序の画素とを見分ける。対応関係にある画素の秩序を抽出することで遠近を構成している。眼は無意識のうちに左右の画像を比較して、そこに秩序を見いだす。
秩序は他との比較によって意味を与えられる。感覚は秩序に意味を見いだす。相補的なパターンは一度に一方しか見ることができない。向き合った人の顔が見えれば杯を見ることはできないし、杯を見たのでは人の顔は見えない。老婆が見えたなら、婦人は見えず、婦人が見えたなら老婆は見えない。同じ図形を見ているにもかかわらず、見える範型は異なる。範型は意味づけられた他との区別として群化、分節化され、符号として認識される。視覚は意味づけられた、構成された視界を獲得する。

空間秩序は眼だけではわからない。物の大きさは眼との距離によって網膜像に異なって写る。網膜像と水晶体の調整と両眼視によって距離感を得て、物の大きさを理解する。物の大きさの理解は視覚経験によって獲得される。経験することのできない太陽や月との距離にまでなれば、地平線上の太陽や月は大きく見え、天空では小さく見えてしまう。さらに、物理的空間での水平と垂直の距離の見積もり能力に差があることが体験できる。幅や奥行きはだいたい言い当てることができるが、高さや深さはよほど経験を積まないと分からない。地表にいる人は遠くても近くても同じ大きさの人に見えるが、高層ビルの上から地表の人を見るなら小さく見える。これはわれわれが地表面で進化してきたからであろう。

パターンを認識するための情報処理が様々な錯視を生む。錯視であることを確かめても、分かっていても客観的な形を見ることはできない。錯視は視覚の特性と、生理的過程の制限からなる。形に関わる錯視はエッジ効果によることが多い。補色が見えてしまうのは感覚細胞が刺激前の状態に戻るまで時間がかかるためである。

【視覚解釈】

「物をありのままに見る」というが、眼で見るだけでも「ありのまま」は定義できない。見ているのは客観的対象像であっても、脳内では神経細胞網の発火反応しかない。神経細胞網の発火反応パターンのだいたいの範囲、動きは機能的核磁気共鳴装置によって映像として見ることができるようになってきている。
意識はこの視覚系全体の発火反応過程を対象に重ね合わせている。表象の想記も発火反応過程の再現を対象と重なっているものと解釈している。視覚の記憶は対象の表象イメージだけではなく、表象の特徴もそれぞれに記憶されている。表象イメージ、特徴イメージは記憶として索引づけられ、組み合わされて想起される。視覚は眼から始まり、脳が反応する全過程であり、脳内のどこかの領野に画像、映像が保存されるのではない。

視覚情報処理それぞれの段階では対象像の一部分の情報しか反映していない。にもかかわらず、実在感のある世界を見ていると感ずる。盲点があるにもかかわらず、見えないはずが見えているように感ずる。視野全体が天然色に見える。視野内の物はそれぞれはっきりとした輪郭があるように見える。網膜像は平面であり、倒立していながら、視覚は立体的に、正立して見える。実在感をともなって視界が見えるのは、視覚情報と世界の対象との対応関係を保存しているからである。夢のリアリティーは対応関係の擬似的再現であり、だからこそ醒めて夢であることを知る。
認識されるのは構成された像である。構成された像は観念であり、物質ではない。実在、世界は認識によって構成されるものではないが、認識は世界を構成する。構成された世界感、世界観が対象世界と、実在世界と重なり合うことが真実、真理の把握である。



2006.7.1

7.意識

意識の基礎は感覚である。感覚は感覚器と反応系を観察することでその客観的存在を確かめることができる。感覚は感覚受容器、神経系、筋肉を物理的基礎にした生理的過程としてまずある。
神経細胞が信号を受け、発することとして、感覚の最小限の一般的定義ができるが不十分である。次ぎに「感覚は感覚受容器での刺激の受容」という定義は確実そうではあるが一般の「感覚」解釈とは一致しない。この定義では「感じ」がない。感覚は感じるとは限らないし、受け身ではなく主体的である。
感覚は「感じること」であるが、感じない感覚もある。個々の神経系、筋肉系の制御は意識にかかわりなくおこなわれ、生命を基本的に維持している。主観的にどのように感じるかにかかわりなく、感覚は客観的生理的過程としてある。感覚によって環境に、あるいは身体の状況に対応する。環境に、身体の状況に対応することとして感覚は進化し、獲得されてきた。

普通「感覚」とは五感のことをいうが、感覚は感覚器官だけでなく、全身の感覚受容器からの信号を受け、身体運動も対象として感じている。平衡感覚や運動感覚は五感とは別の、同様に明らかに感じることのできる感覚である。感覚器官からの刺激だけが感覚でないことは、アルコールを飲んでみれば感じることができるし、感情も感覚器官からの直接の刺激ではない。

【感受】

感じていない感覚刺激を受けることを「感受」として、感じる感覚とは区別する。感受は感じない感覚過程である。感受は感覚の最も基礎的な過程である。感受としての感覚は意識されなくとも記憶され、反応を制御する。熟睡している間は意識は失われて感じないが、感受はある。乾きや尿意は寝ていても感受していて、必要になれば感じる。

【感覚(即自)意識】

「感じる」ことは意識することとしてある。感覚を感じることとして意識はまずある。意識はまず感覚を感じることとしてある。意識が感覚を感じ、意識されない感覚は感じない。無意識の感覚は思い出すことによって感じることはできるが、感覚器官が刺激されただけでは感じてはいない。
感覚器官が受けた刺激を感じることとして意識がある。意識は神経系の反応を対象とする神経系の反応である。意識は神経系の再帰構造としてある。
感覚も、意識も神経系としての生理的反応過程に区別はない。神経細胞間の信号のやりとりは基本的に同じである。ただ神経細胞の種類とそれぞれの神経細胞網の組み合わせが違う。違いは神経細胞網の接続の仕方である。信号処理単位として大脳皮質はいくつもの領野に分かれ、領野はさらにコラムに分かれている。感じるのは大脳であり、意識は脳の活動としてある。感覚が無くても、脳だけでも感じることがある。夢は脳だけで感じている。幻肢では失った手足の痛みすら感じる。ついでに言及すれば「リアリティ」は感覚ではなく意識での問題である。

意識は無意識の運動を対象化し、方向づける。再帰する過程によって方向付けができる。再帰のない方向は環境との相互作用のみで決まるが、再帰によって環境からの入力に加え、意識での判断も入力する。意識は感覚による感じに基づいて個体としての有り様を方向づける。なにによって方向づけるかはまた別にして、意識されていなかった身体、感じを意識的に操作する。どう方向づけるかはまた次の再帰の再帰による。

一般的「感覚」解釈は感覚イメージ=感覚印象を受けることと、印象そのものの二重の意味をもっている。感覚イメージ=感覚印象を受けることは客観的過程であるが、印象そのものは主観そのものであって、他人には知ることはできない。
本人は感じている主観を客観的に表現しようとすることはできる。しかし、感じている印象そのものは当人の主観でしかなく、客観化するために描いた物は感じている印象とは別物である。
感じている主観的印象は主観的に解釈されたものである。主観的感覚は解釈が加わっている。例えば、物を立体として見ているのは網膜像をこれまでの経験の中で解釈している。この「解釈」も意識以前にある。生理的に感覚信号は処理され、意味づけられている。客観的過程としての感覚と、主観としての感覚とは別の有り様である。

意識的感覚には制限がある。意識は対象化する指向であり、同時にはいずれか一つの対象一つの感覚しか対象化することはできない。意識できる「一つ」とは、他との区別として切り出した、捨象した個別部分である。感覚器官で個別対象化する一つの感覚要素、身体が働きかける一つの物体、視覚、聴覚等として区別される一つの感覚要素、動かそうとする筋肉の体感であり、さらには意識そのものも一つの対象になる。多様な個別対象化があるが、どの個別を指向するかは意識の有り様である。いずれにしても一時に意識できるのはそれらのうちの一つだけである。意識にかかわらず、身体はそれらすべての感覚を感受しているが、意識できるのは一つだけである。
しかも、対象全体を無意識のうちにとらえ、部分に意識を向けることで対象を理解する。感覚を部分にだけ制限すると、対象を理解することが難しくなる。
身体のすべての感覚を対象とすることはできない。意識できるのは感覚のごく一部である。自律神経系の感覚は普通感じることができない。自律神経系の感覚も訓練によって感じる範囲を広げることができるようになるという。呼吸は普段意識しないが、感じることも、限界内では意識的に制御もできる。また逆に、慣れることによって意識しなくなる感覚もある。スポーツの動きは意識しなくなることが目標到達であり、より高い目標を意識することで向上する。

【対象(向自)意識】

次ぎに、意識は意識自体を対象とする。意識は自らを意識する。感覚を感じていることを意識する。意識の第二の再帰である。意識としての脳神経細胞網での信号処理過程全体を対象化する意識である。集合論ではすべての集合の集合は矛盾であるが、意識は時間経過の中でこの矛盾を止揚する。意識は再帰過程で実現しているから意識している瞬間の結果を対象化することはできない。自らの対象化は一瞬前の自分を今意識しているのである。意識を対象とすることで意識を顕在記憶として記銘し、保持し、想起することができる。
意識の意識も脳神経細胞網の信号処理としての生理的過程に違いはない。対象化する対象の、対象化そのものの階層が違う。自由度としての「次元」とは別の、階層の次元が違う。第一は感覚の階層次元である。第二は感覚を対象化する意識の階層次元である。第三に意識を対象化する意識の階層次元がある。

ほ乳動物にも感覚はある。感覚、感情を対象として感じる意識もある。犬猫などは意識を表情に出す。しかし、意識を意識しているようには見えない。

意識の意識としての階層次元には様々な意識がある。美意識規範意識等であり価値観の基礎になる。

【自意識】

最後に、意識を対象化する意識を自分として対象化する自意識の階層次元がある。第四の階層次元である。対象化の次元はこれで終わりである。無限後退は起こらない。有限の部分に無限後退は起こりようがない。無限後退を想定するのは限定のない観念がすることであるが、その観念も無限を追うことはできない。観念は無限を「とらえきれない」物事として解釈している。
自意識は感じる意識として、身体も含め、社会的役割も含んだ主体としての、自分についての意識である。

【目的意識】

意識が何をどう対象化するかは認知過程の遺伝的経験と、個体の経験による。生物種として淘汰された経験によって認知関係組織は発達してきた。個体発生からそれぞれの生長する過程での経験によって意識の指向性はきまる。そして、意識を意識することで目的意識的に自らを訓練することができる。訓練することができるだけで、思うように対象に集中できる様になるのは大変であるし、できても長くは続かない。この意識を意識して方向性を維持するのが意志である。

意識を意識し、他者の意識をも理解できるのは人間である。サルが他のサルの表情を伺うことはあっても、自らの意識を意識できるようには見えない。人が自らを意識できるのは3歳以降であろう。
日常会話でも「意識が低い」「意識が高い」というが量的違いではなく、質的違いがある。意識を一つの有り様として意識してしまうが、それは意識が一つしか対象にできないからである。意識は階層次元を意識することなく、常に一つを指向し、対象化している。



2006.10.7

8.理性

理性は意識、認識、思考、論理とかかわり、この間の関係を整理しておかないと議論は混乱する。

理性は意識の一つの有り様である。

意識は物質代謝系として自己組織化した生物個体の体外環境、体内環境の反映表象系である。意識は動物個体が代謝系秩序維持を発達させることで獲得した反応制御系(神経系)によって実現する。意識は中枢神経系により反応制御系を制御することで個体の方向性を規定する。

生物は保存される秩序である。生態系秩序として保存され、個体の新陳代謝秩序として保存される。遺伝子として物理的にも保存される。

保存される秩序は対称性として表れる。対称性は変化、変換に対する不変な関係形式である。対称性は空間対称性だけでなく時間対称性もある。時空間対称性として個別が他と区別される。時空間対称性として個別の普遍性が表れる。

秩序として物事は区別され、関係している。存在を現す相互作用は相互規定関係でもある。相互に規定し合うことで区別され、関係している。

閉じた系としての全体のエントロピー増大化過程で部分秩序が創発される。秩序が崩れることは混沌化であり、窮極は熱死である。開放系の部分では、相互規定関係が組み合わさって新しい秩序を自己組織化する。

生物の物質代謝秩序は動的平衡として実現している。物質代謝は恒存性としての秩序を表す。個体秩序を維持できなくなると死ぬ。個体秩序を世代交代によって更新する。
生物は秩序(負のエントロピー)を取り入れて自己の秩序を維持し、失われた秩序(エントロピー)を廃棄することで生きる。生物にとって秩序を取捨することは生存することである。動物は秩序ある餌、水、酸素分子を取り入れ、消化して糞、二酸化炭素、熱等として排出する。動物は自らの存在秩序を破滅させる敵からは逃れる。生物進化は秩序発展の歴史である。

動物は反応制御系として感覚系と運動系を発達させた。基本となる反射は感覚系と運動系との関連づけとしてある。一定の環境にすむなら、一定の刺激に対して一定の反応をする個体が生き残る。生き残る反応をできないものが淘汰される。秩序に反しないものが秩序を維持し、発展させることができる。
一定の刺激に対して一定の反応をするしくみは、特定の刺激を他の刺激から区別している。また、繰り返される反応を引き起こす動的秩序である。一定の刺激反応行動は本能である。
複数の刺激の組み合わせに応じた反応として条件反射を実現する。刺激を区別し、関連づけることが認識の基礎である。関連づけは記憶として保存される。条件反射は記憶能力を前提にしている。
アメフラシも記憶する。アメフラシは水管を刺激されるとエラを引っ込める。水管への刺激を繰り返すと慣れてエラを引っ込めなくなる。慣れは刺激が記憶されたことを表す。この機序は神経細胞間の反応として分子レベルでも解明されている。

感覚は刺激の対称性秩序として表象をとらえる。感覚器官は表象秩序、特徴を強調してとらえる。このしくみによって錯覚も生じる。対象に秩序をとらえようとする指向が想像力となる。他と区別される感覚刺激を感覚表象として対象化し、記憶する。
記憶された感覚表象の操作が感性的思考である。対象の異同、変化をとらえる。
感性的思考は受動的である。環境での対象との相互作用関係で反応するための思考である。対象秩序の組合せに対して働きかけることはできない。
日常的に感性的思考によって身体を制御している。物をつかむ時にどの程度指を開き、力を加えるかは感性的思考によって制御されている。感性的思考は繰り返すことでほとんど無意識化される。

人は道具を介して物に働きかけることで物と物との関係、物と自分の関係を理解する。人は協働することで共感を慰安とし、言語コミュニケーションを獲得した。
人は対象を言語によって表現し、操作することができる。言語表現によって感覚表象を操作可能な観念表象化する。言語表現は観念表象間の関係も表現し、操作可能にする。観念表象を操作することが悟性的思考である。
悟性的思考は積極的、主体的である。対象秩序の組合せを変えることを考える。物理、科学、生物秩序を変えることはできないが、組合せを変えることはできる。
人は感覚表象を観念表象として区別し、関連付けることで物事を理解する。人は観念表象の区別、関係から対象の個別性を抽象する。個別として保存される秩序を抽象し、個別間の関係を抽象する。対象の個別性と普遍性とを理解する。観念表象の区別、関係として対象世界秩序を理解する。人は世界感を獲得する。人は世界感を感じるものとしての自分を意識する。
日常会話は無意識のうちに文法処理をしている。文法にかなった発話は悟性的思考による。無意識の悟性的思考も表現することで意識され、正誤が反省される。会話では意味の展開、言語表現化、発声制御、発声の確認、相手の反応等々についての様々な思考を無意識のうちに並列処理している。

秩序は対象の普遍的関係である。論理は普遍的関係にある個別対象を概念として定義し、関係を概念間の規定関係として定義する。秩序の現れを論理によって表現したものが法則である。
対象を概念の論理的関係として認識するのが理性である。法則は理性によって理解され、表現される。概念表象を操作するのが理性的思考である。理性的思考は論理にしたがって概念を操作する。論理的思考は概念間の規定関係操作である。
論理は議論領域を定義することで形式的に整う。議論領域を定義したなら論理関係は形式的に決定される。形式的に決定できる論理が形式論理である。形式論理だけが理性的なのではない。
議論領域は議論するさいに問題になる領域、範囲のこと。 述語論理などで使われる場合には、関数の変項が取りうる範囲を設定すること。「すべてのXは死ぬものである」とした場合、「すべての」が指す領域がたとえば人や動物を指すとすれば、この命題は真である。しかし、その領域に単細胞生物や無生物も含まれるとすれば、この命題は偽になる。このように、議論領域をどう限定するかによって命題の真偽が変わってくる。

意識は感覚、そして思考を対象化し、さらに自らを対象化する。感覚と思考は意識に関わりなくある。意識が注意できるのは感覚や思考のたった一つの対象である。意識は対象を常に注意していることはできない。意識自体が休み、睡眠を必要としている。意識しなくてすむ感覚や思考をあえて対象にはしない。かえって意識するとぎこちないことになる。意識は個体である自分にとって最優先課題を対象にして、注意を向ける。意識は未知の状況、対象に対して特に働く。注意を意識的に制御できなくなると病気である。無意識の思考は直感、ひらめきとして意識されるようになる。
意識も思考も大脳皮質の神経細胞によって担われていることは同じであるが、処理する情報の階層が違う。思考は対象とする情報の直接的処理である。意識は思考を含む情報処理を一つの個体として方向づける再帰的情報処理過程である。意識は個体の状況について、対象についての情報処理を個体として反省する。自分の関わるより広い関係、より長期の未来に向かっての有り様を反省する。さらに意識は自らを反省する。

日常生活は基本的に繰り返しであり、既知であり、意識的思考は必要ない。日常生活では意識できない多様、多量の思考が並列処理されている。生まれてからの経験、訓練によって、基礎的な思考は無意識化してきている。論理的思考も訓練によって意識しなくてもできるようになる。即興による創造は意識しない論理的思考の実演である。具体的な関係での論理は日常的に繰り返し訓練している。数学やアルゴリズムなどの抽象的関係での論理は学ぶことによって訓練する方が効率的である。

確実な思考は意識した論理的思考である。論理的思考は再現可能であり、検証可能である。論理によって対象を確実に明らかにし、表現することができる。対象の部分を区別し、部分間の関係、部分と全体との関係を明らかにすることが理解である。論理的思考によって対象秩序を法則として理解し、表現する。論理的に表現できるのは、理解できたことである。理解できていないことは論理的に表現できない。
世界の秩序理解が完全ではないのだから論理的思考も完成されてはいない。完成されていない概念の規定関係を点検することが反省である。本当に分かっているのか、何処までが分かっているのかを反省する。意識した論理的反省が理性的反省である。反省のない思考は非理性的である。論理に反する思考は反理性的である。

推論できるか、どのように推論するかが未知に対する論理的思考である。論理的思考によって未知の秩序を理解する可能性が開ける。人類にとっての未知だけでなく、それぞれの人にとって未知の対象がある。未知の対象を論理的に探査するのが理性的思考である。秩序を理解することで予測が可能になる。法則を知っていれば対象秩序の詳細を理解しなくても予測が可能である。
判断に際して、何が分かっているかは論理的に整理される。選択肢も論理的に導かれる。その上で選択判断する。判断根拠を論理的に説明できなくとも、判断材料は論理的である。日常では数限りない判断をしている。一つひとつを意識していては生活できない。意識しても深く考える、論理的に考える余裕はない。ただ日常では意識しないでも、身についた反応で対応できる。未知の事柄も経験則でだいたい対応できる。
だが、大切なこと、取り返しの点かないことは論理的に思考する。社会的責任がある者ほど論理的に思考してもらわなくては困る。調べもしない、考えもしないで決定されてはたまったものではない。

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