長男はナナがいなくなった後も、発作を繰り返し、猫を手放しただけでは喘息は治らない事を悟るが、だからといってまたナナを呼び戻せるというわけでもない。
喘息に加え、皮膚にも重いアトピー性皮膚炎を患っている長男に翻弄される私に、神様は超、超健康な長女をクリスマスイブの日に授けてくれました。
学校に上がれば丈夫になるよ。と人は励ましてくれるけれど、6歳以来欠かすことなく薬を飲みつづけていても長男は夜中の発作、急患から帰って来て2〜3時間でまたすぐ発作で、入院もたびたび。
実家のナナは、猫嫌いが嘘のように、(情が移ったのだそうですが)大変可愛がられていました。コーヒーブレイクにはいつも、ナナもコーヒーミルクを1個貰っていたそうです。
ナナの爪切りは私にしかできない仕事でした。
「爪が伸びたから切って上げて」「お風呂に入れてあげて」と、実家から要請があるとうれしい出動です。
ところが実家での生活が4〜5年経ったころ、ナナは食欲が落ち、出血。
子宮ガンでした。もう高齢だし、手術が成功してもそのまま麻酔から覚めないかもしれない危険があったのですが、よく頑張って回復したのです。
獣医通い、薬のませ。私の仕事はさらに増えましたが、ナナに会うためにせっせと出動しました。
もうナナは、すっかり、おじいちゃん、おばあちゃんとともに、老人の館の暮らしになじんでいました。
が相変わらず、人見知り。お店の看板猫にはちっともなってくれませんでした。
ガンは、多分完治したものの、高齢ゆえ色々と衰えが見え始めました。
歩くのに、色んな所に頭をぶつけるようになり、階段を踏みはずすようになりました。
それでも、間取り、段差は、これまでの慣れでクリアーし、トイレに行くのも困らなかったのですが、まず前足が不自然にクニャリと曲がって力が入らなくなり、やがて後ろ足もよろよろになり、立ち上がれなくなりました。
加齢性の疾患で回復の見込みがなく、目も鼻も利かなくなり、手足も不自由になったナナに、「かわいそうで見ていられない。安楽死を。」と言う実家の母。獣医も、NOとは言いませんでした。
余命はいくらもありませんでした。
猫は我慢強い動物なので、痛くても、痛そうにはしないものなのだそうです。
当時は、ナナは実家の子で、世話になっている立場。
また、これから、寝たきりのナナを面倒見てもらっている立場である私には、何が言えるでしょう。
数日涙に暮れました。絶対安楽死なんてさせない。ナナは目も鼻も利かなくたって、足腰立たなくたって、痛いのを我慢していたって、死ぬ事なんて望んでいない。
絶対に本能は、生ある間精一杯生き続ける事を望んでいると私は思っていました。
ナナを実家から、自分の手元に引き取りました。1999年6月の事。
6年ぶりに戻ってきたナナ。動けないので、サークルの中にペットシーツを敷いて、そこで過ごしました。
動けない分、毛も飛ばないし、息子との共存には都合が良かったのです。
動物が大好きな長女は家に猫がいることが嬉しくてたまらないようで、死期が近く、ぺッタリと寝たままなでられて、目を閉じているナナを幼稚園の友達に、
「うちは猫を飼っているのよ」と、自慢げにしていました。
しばらくして、何がよかったのだろうか、奇跡が起きました。
四肢が全く萎えてしまっていたのに、ある日立ち上がりました。目は全く見えていなかったが、微かに利く鼻と耳を頼りに、トボトボ歩きだしたびです。
みんながびっくりです。食欲も少し出てきて、ナナは冷蔵庫の前でニャーンと鳴いて食べ物をねだったり、昔が戻ったようでした。
心配だった長男の喘息も、ナナが戻ったからといって悪化したわけでもなく、かえって、自分のせいでナナをうちから追い出す形になっていたのに引け目を感じていた長男は、きっとナナとの共存できることが嬉しかったのだろうと思います。
そんなころ、世の中(小さい子たちの)ハムスターブーム。
ハムちゃん欲しい欲しい病にかかっていた長女は、碑文谷のスーパーDで、セール(?)になっていた、
ジャンガリアン¥1000の前から動こうとしません。
「買って〜ねえ〜買って〜」のシュプレヒコールに、なんと私も加わって・・・うちのハムスターの歴史が始まったのです。猫がいるのになんと無謀なと思われるでしょう。
ナナは目も鼻もだめだったし、行動範囲が限られていたので可能だったのです。
ナナちゃん、我が家の初代ハムちゃんのハム子とご対面。分かっているのかいないのか。とりあえず存在は感じているようであります。ハム子の方は見えてるので、ものすごくビビっていたことでしょう。