卒業式を迎えた朝、わたしはのろのろと制服に腕を通した。
 今日でお別れ……
 そう思うと、胸が締めつけられる。苦しくて、痛い。
 ほとんど眠れなかったのと泣いたので、目が赤く腫れぼったくなっている。

 今日で最後なのに……こんな顔で会いたくなんかなかったのに……

 鏡に映された惨めな自分をまともに見られず、目を逸らし、ため息を一つ吐いた。

 ――トントン
 遠慮がちにドアをノックする音が聞こえた。
「……どうぞ」
「へへ……」 
 珍しく、作ったような笑みの尽が顔を出す。
「卒業だな、姉ちゃん」
「うん……」
「…………」
 多分、尽は、わたしの氷室先生に対する気持ちを知っている。カンの良い子だから。
「じゃあ、行ってくる……」
 登校するのには、まだだいぶ早い時間だけれど、家でじっとしてられなくて。
 それに、もしかしたら、会って話をする時間が持てるかもしれないし……

(そんな勇気ないくせに……)

「姉ちゃん……」
 玄関先で尽が呼び止める。
「うん?」
「当って砕けろ!」
 グッと親指を上に突き出した握り拳を突きつけて、
「砕けた骨は、俺が拾ってやるからさ」 ニッと笑う。
 わざとふざけた言い方をして、わたしの気持ちをほぐそうとしてくれてるのがわかった。
「生意気」
 思わず笑ってしまったわたしに、ホッとする弟。
 その顔がやけに大人びて見えた。
 そっか、4月からはもう中学生になるんだよね。
 毎日見てるから気付かなかったけど、背も伸びた。
 まだわたしの方が高いけど、きっとすぐに追い越される。ちょっとくやしいな。
「尽……」
「ん?」
「ありがとね、いろいろと」
「なっなんだよ、いきなり。……調子狂うな……」
 照れた顔は、やっぱりまだ幼い。
「ふふ。じゃ、行ってくるから」
 気をつけてな、と見送られ家を出ると、朝日が寝不足の目に眩しく輝く。

(当って砕けろ…か)

 そうね、どうせ会えなくなっちゃうんだから、このままいるより、
 いちかばちかで告白するべきかもしれない。
 ふられたって、どうせもう先生とは……そう考えて、視線を下に落とす。
 吹奏楽部に入ったら、
 卒業してもОGとして先生のところに顔を出せるかもしれないと思った事もあった。
 先生と一緒にいられる時間も、もっと増えるかもしれないと思って
 何度も入部しようとしたけれど……
 足手まといだと思われたくなくて、入れなかった。
 残念なことに、わたしには音楽的才能が全然ない。
 子供の頃、ピアノ教室に通う友達が羨ましくて、ねだってわたしも習った事があったけど、
 ……一ヶ月で終わった。だから、ピアノが弾ける人に憧れていた

 先生のピアノ……
 放課後の音楽室で初めて聴いた時、すごいと思った。
 先生の奏でる、綺麗で優しくて透明な……
 そして、あの時はどこか少しさみしげだった音が、わたしの全身に響きわたり、
 陶然と聴いていた。

 感動して………

 でも、あの時感じた気持ちは、憧れなんかとは違う。
 先生を…本当の先生を感じたから。

 だから、わたしは、こんなにも………

 あの時のピアノの音色が甦り胸を締めつける。胸が、熱くなる―――

 先生…… わたし……

 先生が好き。大好き。

 でも、この想いを伝える勇気が、わたしには、無い………

 卒業式は厳かに始まり、厳かに終わった

 わたしは体育館に並べられたパイプ椅子に座り、
 舞台の下、わたしたち卒業生に向う形に並べられている椅子に座る氷室先生を
 ずっと見つめていた。
 いつもと変わらない、白皙の、冷徹なその顔を。

 式が終わった後、わたしたちはぞろぞろ並んで教室に戻った。
 個人個人の卒業証書は、担任教諭から教室で渡される。
 氷室先生が、一人一人名前を呼んでいく。
 順番が近づくにつれて、胸の鼓動がどんどん高鳴っていく。
 そして、自分の番が来た。
 わたしの名を呼ぶ先生の声。

 もしかしたら、名前を呼ばれるのもこれが最後かもしれない。

 そう思ったら、涙が目に浮かんだ。唇を噛みしめてそれをとどまらせる。
 先生がもう一度わたしの名前を呼ぶ。
「はい……」
 どうか、ふるえていませんように……
 願いながら声を出し、席を立つ。でも、顔は上げられなかった。
 先生の顔を間近に見られる自信は、とても無かったから。
 きっと、涙を抑えきれなくなる…
「卒業、おめでとう……」
 低く落ち着いた声がわたしの胸を貫き、ゆっくりと染み透っていく。
 その痛いような痺れが、切なくて、つらくて、甘い……
「はい……いろいろと、ありがとうございました………」
 つまる声をしぼり出す。語尾が小さくかすれてしまった。
 証書を受け取る時に微かに触れた指先の熱を、手のひらにそっと抱きしめる。

 この瞬間から、わたしと先生を繋ぐ糸は何も無くなる―――

 三年間…… 本当にあっという間でした…………。

 卒業生とそれを送る在校生とであふれかえる正門を横目に、わたしは一人、
 学園裏の森に建つ教会へ向かった。
 なぜだろう……なぜだかわからないけど、足がそこに向かっていた。
 一人になりたかったからかな……
 それとも、もしかすると教会が開いているかもしれないと思ったせいかもしれない。
 何の根拠も無かったけれど……

 木々の間をぬけ、教会の前に立つ。
 この教会を見ると、いつも懐かしい気持ちが込みあがってくる。

 わたし……ずっと以前に、ここに来た事があるのかな……?この教会に?………

 5歳までわたしはこのはばたき市に住んでいた。
 そして別の街に引っ越して、3年前にまたこの市に戻ってきたのだけれど……

 扉に近づき、取っ手に手をかけ、おそるおそる引いてみる。

 ―― ギイ ――

 ……開いた。うそ……

 信じられない気もしながら、とまどい一旦引っ込めた手に力を込め、もう一度取っ手を引く。
 結構重いその扉を、人一人通れるくらいまで開け、内に入った。

 ステンドグラスから射し込む光彩。
 その淡い光が、教会の内に静謐に満ちている。

 後ろ手に扉を閉め、それほど広くない内部を見回す。
 並んだ長椅子、祭壇、十字架、パイプオルガン。そして美しいステンドグラス。
 映画や写真とかでよく見るのと同じような教会……

 でも、この懐かしさは、違う。もっと身近な………

 ゆっくり通路を進む。

 ステンドグラス……
 先代理事長―今の理事長のお父さん―の親友が作ったって、前に先生から聞いた事があった。
 王子様とお姫様が模様されたそれは、光をはじき、とても綺麗で………

(王子は、必ず迎えに来るから―――)

 えっ、今のなに?

 不意に頭によぎったフレーズ。
 なんだろう……もうちょっとで思い出すのに……ここまで、出かかってるのに……
 惑って視線を泳がすと、最前列の長椅子に置かれた一冊の古い本が目に入った。

 これ……絵本?……

 手にとって、ページをめくる。
 書かれている文字は横文字で、英語でもないその文字は読めなかったけど、
 絵に見覚えがあった。
 ページを繰る手がふるえる。

 これは、夢?

 そうだ、小さい頃から、何度も夢で見ていた。懐かしいような不思議な夢。

 それは――――

 夢の記憶は、断片のシークエンス。
 白い服を来た男の子が、わたしに語りかけている。
 5歳くらいの幼い少年。
 絵本を読んでもらっているわたしも、同じくらいの歳。 
 ステンドグラスから零れる光。
 男の子の周りを、光が踊っている。
 そのせいか、顔が白くぼやけて、よく見えない。
 なのに、その後ろの十字架はやけにはっきり見えた。
 ――ここは教会?
 やがて、その子は絵本を閉じ、消えていった。
 「泣くなよ」と言い残して。
 声はしなかったのに、わたしには聞こえたような気がした。
 わたしは泣かなかった。
 会えなくなるということが、その時はよくわからなくて。

 場面はここで切り替わる。

 教会の前で、わたしは泣いている。
 扉は閉ざされ、男の子は来ない。
 はじめて『別れ』というものを実感し、わたしは泣いた。

 しゃがみ込んでしゃくり上げているわたしに、誰かかの手が差し伸べられる。
 お父さんみたいに大きな手。でも、あんなにごつごつしていない。
 もっと細くて白くて、綺麗な手。
 顔を上げると、黒い服を着た背の高い男の人が立っていた。
 目があるあたりに光が反射して、やっぱり顔はよく見えない。
 全然知らない人なのに、不思議と恐いとは思わなかった。

 その人の大きな手が、わたしの頭をそっと撫でた。
 その温もりに、わたしはひどく安心する。

 夢はいつもここで終わっていた。

 この教会だったんだ……。あの夢の中の教会は……。
 そしてあれは夢ではなく、昔の記憶が夢の中に現れていた。
 そうだったんだ………

 あの少年とあの男の人、あれは誰だったのだろう……今となってはもうわからない……

(王子は、必ず姫を迎えに来るから……約束)

 約束か……ふっと笑みが浮かぶ。
 淡い思い出が、胸に、切ないように疼いた。

 わたしは結局、待っていただけなのかもしれない……自分に勇気を持てずに
 ……弱虫で……逃げて………

 待ってるだけで、いいの?わたし?
 ……よくないよ。だって、わたしはお姫様なんかじゃないもの。
 わたしは、何の約束もしていないもの。

 先生とは……
 わたしが大好きな人とは………

 だから先生は迎えに来ない。ここには来ないんだよ。
 それでいいの?わたし?

 よくない。
 このまま、先生と別れるのは、嫌。
 一度は諦めかけたけど、やっぱり嫌。

 そんなのやだよ―――――

 想いがあふれる。どんどんどんどんどんどん……
 あふれてあふれてあふれて、涙と一緒に………

 会いたい、先生に会いたい――――っ

 想いは、告げられないかもしれないけど……
 こんな泣き顔の、ぐしゃぐしゃした自分、見せたくないけど……でも……

 両手をぎゅっと握り締める。握り締めた指の爪が、手のひらに食い込むくらいぎゅっと。
 涙を拭い、ぐっとあごを上げる。

(行く。先生のところに―――)

 決意して扉に振り返ったわたしの目に、ストップモーションのようにゆっくりと、
 その扉が開かれていく光景が映った。

 外からの光が射し込まれる。
 その光の帯は徐々に広がり、その中央に浮かぶ長身のシルエット……

 逆光で顔がわからない。けれど、その人が誰だかすぐにわかった。

 拭ったはずの涙が、またひとすじ頬を伝った。

<<back     next>>