慈眼山西照寺

西照寺の歩み


親鸞聖人が常陸稲田の草庵で「教行信証」の草稿を書かれた元仁元年

(一ニ二四)をわが浄土真宗立教開宗の年といたしております。 したがって関

東は浄土真宗発祥の地ということになります。

聖人はこの地に二十余年間御滞在になられた後、御オ六十三オで京都に

お帰りになられ、八十オを前後されて御和讚をはじめとする沢山の御著述を

お書きのこしになられて、御才九十オで御入減になりました

(弘長二年十一月二十八日)。

その後十五世紀に蓮如上人が本願寺第八世の門主となられて熱心にそし

て組織的に布教をすすめられて近畿、北陸に無数の念仏者を育てられまし

た。

戦国を統一した信長は、門徒農民の力を削ぐために、その中心である石山

の本願寺を攻めて十年も戦いましたが門従の愛山護法の念にはばまれてこ

れを落すことができませんでした。

天正八年(一五八〇)門主顕如上人は正親町天皇の勅をうけて信長と講和

し、本山を紀州鷺森に移しました。次子准如上人はこれにしたがいましたが、

長子教如上人は当初これに賛意を表せず、このことが後に准如上人が父

の後を継いで門主となる事情につながったようであります。

信長の死後、秀吉は本願寺の門前町として発展してきた石山の地に大阪城

をきづきましたが、天正十九年には京都七条堀川の土地を本願寺に寄進

し、翌翌年、准如上人を兄の教如上人をおいて本願寺第十二代の住持職

として認めました。

秀吉の残した慶長三年は蓮如上人の百回忌にあたっていましたが、教如上

人はこの法要後家康に接触し、慶長五年、家康が江戸に入るとこれをたず

ねて東国にも下っております。

家康はその昔三河で門徒農民の抵抗をうけて大変な苦労をしましたし、信長

以下戦国の大名は本願寺を無視しては統一を考えることができませんでし

た。こうしたことから家康は本願寺教団を二分することを考えて、慶長七年教

如上人に京都東六条の寺地を寄せ、ここに本願寺が東西に分れました。

西本願寺の准如上人は、元和三年(二八一七)徳川氏から寄進された江

戸浅草の横山町二丁目に江戸御坊を創建され、ここに真宗発祥の地関束

に江戸御坊(別院)が建立されました。

江戸御坊は明暦三年(二八五七)の振袖火事で全焼しました。幕府は大火

後の区画整理で寺地を八丁堀海上の埋立て地に移すことを示し、法中と佃

島門従らの努力によって埋立てられた築地に新しい御堂が建てられることに

なりました。

浅草横山町時代の別院地中の寺院は十八ヶ寺(本寺小寺を合すと三十五

ヶ寺)でしたが、築地別院の地中寺院は五十八ヶ寺(後に五十六ヶ寺)に増

えています。幕府の政策で明暦の大火後築地に集められたと考えられます。

西照寺の創建当時の詳細は不明ですが、西照寺にある若干の記録(過去

帳を含め)と明治十一年に東京府に提出した書類によるとおよそ次の記録が

整理されてきます。



寛永十九年二月二十二日

本尊阿弥陀如来木像

寛永十九年二月廿二日願主開基了源(西暦一六四二)

開基了源没,寛文九年八月十三日(一六六九)

二世確源没 元禄六年八月三十一日(一六九三)




とされてあって、ただ、本山よりの送り状が現存すればお受けした年月日が確

証されてよかったと思いますが焼失したものかとにかく失われていて残念に思

います。

それにしましても、江戸期を通じて十回明治大正で四回の火災が本願寺院

の地中に別院あるいは地中の寺院にあって中には明暦の大火や関東大震

災のごとく市中全焼の災難にもあっているので、暦代住職の苦労がしのば

れ、尊くありがたく思われます。

ただ記録にのこる祖師他の画像は焼失して現存しません。

親鸞聖人真影の裏書きだけは現存し




武蔵国豊嶋郡


・・・・・西照寺延享四年十月十七日願主釋了覚





そして十七世門主の法如の直筆と花押が記されている。

だが現在の御絵像は多く当山が仙川に移住して以後本山からお受けし特に

蓮如宗主の画像は篤信の堀田チエさんが前住職とお受けしてこられました。

堀田さんは築地別院本堂の御開山親鸞聖人の御厨子や当山の御本尊の

須弥壇をも寄進されています。

当山歴代住職の中で特に功のある方は開基の了源と八世の了山と十五世

の養淳であります。

了源については当寺の創建者ですが資料を失って事績は不明ですが、創

建の場所は浅草御坊の地中で現在の浜町明治座の辺りであることが図絵

でわかります。

創立十11年後に明暦の大火というとで大変な一者労をされて、万治元年

(一六五八)

築地御坊の仮御堂が出来た頃に築地別を建立されたことかと思います。

その後十年にして往生をとげております。


江戸時代から明治 大正期の別院と地中の図は御覧の通りで、手前の門

から本堂に向う正面の広い通りをはさむ画側が表町その右に見えるやや細

い道の側が東町左が西町で西照寺は東町の通り左手前からケ寺目にあり

ました。

次に八世住職了山は信州酒井村の出身ということでが、豊後(大分県)岡

藩の中川藩主が了山法師を慕って米七人扶持をおくりその後明治維新まで

扶持米を継続しました。

それも足軽小者が多数記されていて現在もその子孫にあたる家がつづいてお

ります。

了山はまた本願寺の内陣昇進を認められています。京都西大谷の裏山通

称勧学谷附近に東面して『江戸築地西昭寺』なる墓石があって、これは了

山法師の築地の西照寺本堂建立と伝えられ、紋はダキ柏が刻まれていま

す。

寺紋は五三の桐ですから、了山法師と深い緑をもった岡藩中川家の紋ダキ

柏をあえてっけたものであろうと前住職は語っておりました。寺の維持に中川

藩は大変な力添えをしてきたもので、明治維新で廃藩になるとともに寺も経済

的には因難をきたしたとも聞いております。

明治維新後別院の境内地は官有となり、西照寺の境内七十坪八合も宮

有地となりました。これは明治二十五年十一月三十日に訴訟をおこして寺有

地になりました。

明治二十九年三十九才で往き、十四世慈幹(愛知県光円寺出身)も大正

二年に往って、寺は維新後扶持米を失い住職の代変り早くなかなか大変だ

ったようです。

明治五年二月二十六日に築地別院並に末寺焼失し、七月に住職了淳と

総門徒の協力で仮本堂七坪、仮庫裡七坪五合が再建されました。その後

明治十五年に住職の往生で隣の真龍寺住職が兼務をされました。

十三世養因(先住養淳の実父で愛知県の出)は明治二十九年三十九歳

で往き、十四世慈幹(愛知県光円寺出身)も大正二年に往って、寺は明治

維新後扶持米を失い住職の代替わり早くなかなかな大変であったようです。

大正十二年九月一日の関東大震災に際し住職養淳は御本尊と過去帳を

抱き、仏具は井戸に投じて浜離宮庭園に避難しました。かく記す私は生後三

ケ月の赤子で母の背に負われて逃れました。寺は火災後本堂と庫裡の再

建に着手、大正十三年暮に落成しました。


門徒総代は中島仙之介、高橋作五郎、関根萬次郎の各氏でした。 門徒

の多くも被災者で大変だったことでしょう。 その後東京府の区画整理により昭

和二年三月現在地への移転許可を得、昭和三年六月十六日に移転しま

した。移転先を決めるには大変苦労したようです。


大正末年に住職の妹宮田たね夫妻が仙川に土地を所有していた関係か

ら、その緑で地主や村会を説得してようやく承諾を得たと聞いています。門従

総代は中島仙之介、高橋作五郎の両氏でした。築地の土地七十坪を売却

し、六百七十三坪の土地を求め、建築に経費を要したため相当額の負債を

しております。築地の本堂と庫裡はそのまま移築し、玄関と客間は増築してい

ます。境内地は昭和八年に二百余坪を購入し、九百坪となりました。


移転して四年目の昭和七年、西照寺わか草子供会が発足しました。住職

は四オで父に死別して苦労したこともあって子供には心をくばって、農村の子

供がほったらかしになって電車の線路などで遊んでいるのを見て集まりの

場をつくることを考え、境内にすべり台やぶらんこを置き、毎月仏教童話研究

会の有カメンバーの方一内山憲尚・三輸寿雄・石井文雄・原勝の各師)に

童話をして頂きました。毎月住職手刷りの絵入り童話もくばり、お正月には凧・

羽子板を出しました。当初はビラくばりをして知らせましたが、やがて非常に広

範囲から子供が集まり百数十人に達した時もあり、最近初老の方から昔聞

いたお話しが今役立っていると話されることが折折あります。子供会は戦争を

はさんで三十年間続き、親子二代子供会に参加した人もありました。

養淳は南画を学び花鳥画を好んで描きました。境内に養淳画く観音像の石

碑があげます。

昨秋野中源作氏が先住が大正十年に描いた孔雀図の掛軸を下さり、これ

は関東大震災と戦災の二度の火災に家族と共ども避難してのこしてきたもの

だと話されてありがたく感謝いたした次第です。

養淳は本願寺布教師として一時期足尾銅山方面にも出むいたこともありまし

た。昭和三十四年に始めた法話会も今日に続いておつます。


当地の仏教会長時代には戦没者の追悼法要を諸宗派合同で厳修し、歳

末助け合いの托鉢も行い、これも最近復活し、花想りや仏教講演会を加え

て市民の間にも知られてまいりました。 地区の常会長や民生委員もっとめて

います。

昭和三十四年十月二十五日本願寺の大谷光照御門主は東京教区多摩

組にご巡教の折、行事をとり行う寺院として御親教・帰敬式・門信徒との懇

談、記念植樹など、午后一時より日の暮れるまで御教化をくださりました。住

職として最大の感激の一日であったことと思います。



門信徒のこと


西照寺の過去帳を繰ると、 江戸期においては中川藩の部屋ものの名前が

一番多い。

明石町も北寄りに中川、松平の下屋敷が、入船町の南寄りに井伊掃部、

堀長門の下屋敷があったようで、 そうした関係からこれらの藩の関係者も記

されています。数十の姓が出てくる中で現在も姓ののこるのは河津、原田、

高木、皆川、後藤、赤堀、石田(以上中川氏)と広川(井伊氏)の諸氏で

す。

町人では遠州屋、相模屋、加賀屋、大阪屋、三河屋、近江屋、越後屋な

どの出身地にかかわる屋号と、万屋乾物屋、桶屋、道具屋、水菓子屋、

車屋、八百屋、魚屋、箱屋、篭屋、研屋、元結屋、水屋、墨屋、油屋、湯

屋、硝子屋、トウガラシ屋、仕立屋、小間物屋など職業そのものを名前の頭

に付記したものがあります。

これらの家の子孫では、関根家、松本家、北村家など今に至るまで非常に

発展してきている家系もございます。

要するに西照寺は下級武士、足軽、小者と町人衆との緑に結ばれた寺で、

阿弥陀さまの凡夫往生(救済) のちかいをむねとした浄土真宗の本義に即し

た庶民(御同朋、御同行)の寺であったということができます。

当時の墓石の中で築地から移し、一部の人に知られている墓に石田家と蔦

本家があります。

石田家の祖先に鍵屋半兵衛こと石田醒斎という豪商で学者が本石町辺に

住んで、池田家、山内家等の御用達をし頼山陽とも交友があったといいま

す。 大儒松崎慊堂の日記や三娘雑記そして名人忌辰録等の書にその名

が出ていて、天保五年八月七日没し、行年五十五才ということです。京都

の本山にも莫大な献金をしたともいいます。

蔦本家のことについては「同朋」の四号に瀬谷さんが記してくれましたので要

点を転記します

と、明治初年に蔦本咲吉が長野から横浜に出て乗合馬車の御者をしている

時に英国人と知り含い、その人からパンを焼く技術を身につけ、明治二年に

築地で食パンを焼き、同四年には設備して営業を始めました。

製バン業の元祖ということです。その昔、東京で食パンは蔦本、菓子パンは

木村屋といわれた時代もあった由です。咲吉さんは明治十一年から明治四

十一年三月に六十三才で亡くなるまで寺の総代として大変尽力されまし

た。業界史に名前の残っている人であります。

まだまだ記したい御門徒多数ですが、今回は以上にして最後に明治以後今

日まで尽力された門徒総代のお名前をあげて敬意を表します。



蔦本咲吉、山口松五郎、中島仙之介、高橋作五郎、関根萬治郎、

中島清正、関根秀雄、堀田チヱ、酒井利、中島直三郎、宮崎敏夫、

山林作右衛門、山林金次郎、高林磯三吉、山林鉄太郎、種五与三平、

堀田茂、浅井喜代治、高林政雄、中山与八朗.浅井ハノ

(敬称略)

(昭五六、三、住職記)

上記の文章は西照寺第十八代住職酒井一真が寺報の「同朋」(昭和五十

六年発刊)に記したものです。



西照寺の寺史については、「同朋」第八号の入佛法要記念号に詳しく忍さ

せて頂いたことでしたが、その後御木山で「本願寺教団史料・関東編」と「新

修・築地別院史」それぞれ六百余頁の書物が発刊され、その中に寛永十二

年二六三五一良如、江戸浅革西照寺帰参につき、宗祖御影を授く。寛永

十十三年九月十七日良如、浅草西淵寺に准如御影を授く。寛水十九年

二月二十二日別院寺中西照寺に木仏、寺号御免。の記録があり、当山

所伝の寛永十九年二月二十二日創建(公許)より七年も前に西照寺は存

在していたことが確認されました。また、今年三月に調布教育委員会で「寺

社所蔵文化財調査報告菩を刊行、『西照寺御木は阿弥陀如来立像。像

高六十ニセンチ、寄木造、玉眼、肉髻が低く、眼を伏せる点に特色がある。

左足裏に「(印)艮口(花押)」右足裏に「西御口門西照寺」の墨書銘あり。

江戸時代中期の作、』と報告されてありました。文中の良口は本願寺第十

三世門キ良如上人です。「木願寺史料」には、『釈良如、寛永十二乙亥三

月七日、武州山豊島郡江戸浅草、帰参、大谷本願寺親親鸞聖人御影、

西照寺常住物也、願主釈延元、取次蔵人、』とあリますので、この年、東本

願寺の末寺から西本願寺に帰参し御門主より宗祖の御影を下付されたこと

(新修築地別院史では、当時お東からお西へは帰参、お西を出てお東に変

る寺は改派と記録されたと記述)、また当時の住職が釈延元であったことが

明らかになリました。寛永十三年については、願主釈円空とありますので住

職はこの方に代っていたものでしょうか。これも新事実であります。

ちなみに、浅草の本願寺並に地中寺院三十五ヶ寺は明暦三年一六五七)

の大火後、幕府の指導で築地に移転したことです。

なお、先に調布市委員全の文化財調査報告書に西照寺の御本尊につき

江戸中期と推定されたと書きましたが、御本尊のおみあしの裏に「(印)良口,

(花押)」とあって、これが本山の記録で寛永十九年に木仏、寺号御免とある

ことと一致すること、更には曽て本山式務部主事として万事に通暁する方か

らの御指摘では、御本尊の台座が青蓮華(当山然り)の場合は江戸初期、

金蓮華は中期以降と判断してよいとあったことも参考になると考えています。

何度かの大火に遭いながらも身命を購してお守リしてこられた歴代に謝意を

表さねばならぬと存じております。