仙川駅南口側には六ヶ寺の浄土真宗本願寺派の

寺院が寺町を形成しています。
法座めぐりををしてみてはいかがですか。
初めての方には、入りにくいかもしれませんが、
実は皆さんのお参りをお待ちしています。
ちなみに、西照寺はこんな縁起をたどっています。
寛永年間 開基了源によって江戸浅草横山町に創建される。
万治十五年 浅草御坊(現在の築地本願寺)の

築地への移転にともない築地に移転。
昭和三年 現在地に移転。
浄土真宗本願寺派(お西)
東京都調布市若葉町1-39
      03-3300-7734

 【由来】
寛永十九(1642)二月に開基了源によって江戸浅草横山町に創建される。
江戸期より度重なる火災に遭うが、その都度歴代の住職・門信従によって再建されてきた。
明暦三年(1657)江戸の大半が延焼し江戸城まで焼けおちた明階の大火(振抽火事)にて被災の後、浅草御坊(現在の築地本願寺)は幕府より浅草での再建を許されず、八丁堀沖の海を埋め立て再建された。 (築地の地名はそのことに由来するという)、浅草御坊の地中にあった西照寺も浅草御功とともに、築地に移転し再建されている。
八世了山(信州酒井の出身)は豊後(大分県)中川藩の藩主の帰依を受け、中川藩より米七人扶持を送られた。その後中川落は明治維新まで毎年扶助米を西照寺に送つてぃる。
 当時の住職了山は本願寺の内陣昇進を認められている_
 大正十二年の関東大震災による火災により本堂・庫裏が全焼するが、十五世養淳は御本尊、を抱き、浜離宮に選難し、農災後築地にて本堂の再建をした。しかし震災後の東京府の都市計画により晴海通が計画され、さらに日本橋より魚河岸の移転がなされることとなり、西照寺は移転を余儀なくされる。当時白木屋で重役をしていた養淳の義兄が仙川に別荘を持つていたため、その縁で村の了解を得て昭和三(1928)年六月に仙川に移転して現在に至つている。


境内の墓碑・石碑

◎石田醒斎 安永九(1780)年~天保五(1834)年

鍵屋半兵衛こと、石田醒斎という豪商、しかも学者で本石町辺りに住んで池田家、山内家などの御用達をし頼山陽とも交友があったという。
京都の本山(本願寺)にも莫大な献金をし寺のために力をつくした。

◎ 中川藩士の墓

岡藩の藩主中川氏は八世了山住職の人徳を慕い、西照寺を財政的に支えた。境内には江戸詰めの中川藩の家臣の墓がある。

◎蔦本咲吉 弘化二(1845)年〜明治四十一(1908)年

文明開化の明治初年蔦本咲吉は長野から横浜に出て、乗合馬車の仕事に従事している時、英国人と知り合い、その人からバンを焼く技術を学び、明治二年に築地で食バンを焼き営業し製バンの元祖とうたわれた。



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