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夕張保険金殺人事件

1977年(昭和52年)、日高安政は北海道夕張市内に日高工業を創立した。炭鉱の下請会社へ作業員の斡旋をする会社であった。事務所には、「初代誠友会日高組」なる暴力団の看板も掲げられた。

仕事は順調だったが、日高は些細なことが原因で暴力事件を起こし、懲役3年の実刑判決を受け、1979年(昭和54年)、刑務所に入った。これで4度目である。

日高はバー・ホステスの信子と知り合い、結婚していた。お互い再婚同士であった。信子は日高が服役すると、夫の留守を守って本業の社長と日高組の姐御(あねご)として代わりを務めた。

1981年(昭和56年)10月16日午後0時40分ころ、北炭夕張炭鉱で大事故が発生した。地下1000メートルの採鉱のための準備坑道でガスが突出、83人が窒息死し、さらに、坑内火災が発生して10人が焼死した。結局、計93人が死亡し、39人が重軽傷を負った。全遺体が収容されたのは翌1982年(昭和57年)3月であった。

この戦後3番目に大きい炭鉱事故で、日高工業の従業員7人が犠牲となったが、これによって信子は生命保険金1億3000万円を手に入れた。

ちなみに、戦後最大の炭鉱事故は1963年(昭和38年)11月9日に福岡県大牟田市三川町の三井三池炭鉱で起きた爆発事故(死亡458人、一酸化炭素中毒者約839人)、2番目は1965年(昭和40年)6月1日に福岡県稲築町(いなつきまち)の三井山野炭鉱で起きたガス爆発事故(死亡237人)。

その後、出所してきた日高とともに高級車を買ったり、海外旅行に出かけたりの贅沢三昧の暮らしを始めた。だが、そんな暮らしは長続きするはずはなく、2年も経たないうちに、使い果たしてしまった。金銭感覚がすっかり麻痺してしまった2人は、もはや元の生活に戻れなくなってしまっていた。

1984年(昭和59年)3月ころ、日高は「夕張は不景気だから札幌に出てデートクラブでもやろう。それには2000万円以上の金が必要だ」と信子に言った。

日高工業は、夕張市内に坑内員の宿舎をもっていた。この木造2階建ての建物には火災保険をかけてある。宿舎に寝泊りしている坑内員にも生命保険をかけている。日高はこれらの保険金を騙し取る計画を立てた。

4月下旬、日高(当時41歳)と信子(当時38歳)は、同組員で坑内員のK(当時27歳)を自宅に呼び、「500万円くらいの分け前をやるから火をつけろ」と指示した。

5月5日夜、日高夫妻はアリバイづくりのため、行きつけの料理屋に寄った。午後10時40分ごろ、Kは同僚が寝静まったのを確認して、1階の食堂で新聞紙にライターで火をつけた。

火はたちまち燃え広がり、就寝中の従業員4人と住み込み炊事婦の子ども2人の計6人のほか、消火作業中の消防士1人も崩れたモルタルの下敷きになって死亡した。

日高夫妻は、失火による不慮の事故だとして、保険会社4社に保険金を請求した。そして、宿舎にかけていた火災保険金2425万円と死亡した従業員4人にかけていた生命保険金1億1376万円、合計1億3801万円を受け取った。

Kは出火したとき、2階から飛び降り、両足を骨折。病院に入院していたが、7月中旬に退院し、そのまま行方をくらましていた。

8月15日、Kが警察署に電話をかけ、「火事のことで追われている」と犯行を自供した。Kが自首したのは、友人に電話したとき、その友人から「暴力団がお前を捜している」と言われ、事件の秘密を知っている自分が追われていると思い、身の危険を感じたことと日高夫妻が分け前の500万円をやると言ったのに、けがの見舞い金の75万円しかくれなかったことで日高に対する不満があったからであった。

8月19日、日高夫妻は現住建造物放火、殺人、詐欺容疑で逮捕された。

札幌地裁で行なわれた公判で、検察側は坑内員に酒を飲ませ、就寝した後に放火させるのは、明らかに殺意があったものと認められると主張した。

これに対し、日高は火災保険金だけが欲しかったと殺意を否認した。信子は酒を飲むと泥酔する癖のある1人については焼死するかもしれないと思ったが、そのほかの人は逃げられるようにやれとKに命じたのにKは命令通りにしなかったと主張した。

1987年(昭和62年)3月4日、札幌地裁の分離公判で、Kに対して無期懲役の判決を言い渡した。

3月9日、札幌地裁は、日高夫妻に対し死刑を言い渡した。

裁判長は、放火の結果、焼死者が出てもやむを得ないと認容していたとして、未必的故意を認めた。また、両被告の犯行における役割については、首謀者は日高だが、一時、犯行をためらうことがあった。そんな日高に対し、信子は強い口調で遂行を促すなどして謀議成立の過程で重要な役割を果たしたとして、両被告の罪責は同等であると断定した。「わが国犯罪史上、類例を見ない凶悪、重大な事犯」として、求刑通り、日高夫妻に死刑を言い渡した。のちに被告側は控訴した。

1988年(昭和63年)10月11日、被告側が控訴を取り下げ、日高夫妻の死刑、Kの無期懲役が確定した。

日高夫妻が控訴を取り下げたのは、昭和天皇の崩御による恩赦を狙ったものだった。控訴、上告、再審請求中の被告人という身分であれば、恩赦は適用されないからである。同じ時期に控訴や上告を取り下げた者が他にもいた。だが、この狙いははずれた。つまり、恩赦はなかったのである。恩赦を受けなかったのは日高夫妻だけではなく、全国の懲役受刑者や禁錮受刑者、死刑確定者については1人も恩赦がなかったのだ。

1996年(平成8年)5月10日、「死刑判決を受け、精神的にも不安定で法律知識もないままに恩赦があると誤信した」として控訴審の再開を札幌高裁に申し立てた。

8月、札幌高裁は「控訴取り下げは無効とはいえない」として申立を棄却。

1997年(平成9年)5月30日、最高裁への特別抗告も棄却された。

8月1日、札幌拘置支所で、日高夫妻の死刑が執行された。午前10時前に夫の安政が、約2時間後に妻の信子が処刑された。夫婦でありながら死刑確定から一度もお互いの姿を見ることもなく処刑されたのである。安政54歳、信子51歳だった。夫婦での執行は戦後初で、女性としては戦後3人目の執行だった。

ちなみに戦後の女性死刑執行第1号はホテル日本閣事件の小林カウで、1970年(昭和45年)6月11日に死刑執行。2人目は女性連続毒殺魔事件の杉村サダメで、1970年(昭和45年)9月19日に死刑執行だから、実に約26年8ヶ月ぶりの執行だった。

日高夫妻の処刑と同じ日、東京拘置所に収監されていた永山則夫の死刑執行も行なわれた。48歳だった。永山則夫連続射殺魔事件

参考文献・・・
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『死刑執行』(東京法経学院出版/村野薫/1985)
『元刑務官が明かす刑務所のすべて』(日本文芸社/坂本敏夫/2002)
『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)

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