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1980年(昭和55年)2月23日午後7時30分ころ、贈答品販売業「北陸企画」(富山市清水町)を経営する宮崎知子(当時34歳)が富山駅で八尾高校家政科3年生の長岡陽子(18歳)に「アルバイトをしないか」と声をかけた。陽子は春から金沢市の調理師専門学校に進学予定で、友人とその学校に下見に行った帰りだった。宮崎は遅くなったら車で送ると約束して2人でレストランGで食事をした。宮崎は食事をしながらアルバイトの面接を装い、身代金要求に必要な情報を聞き出した。
その後、宮崎は自宅に送り届ける素振りを見せて「北陸企画」に寄り道した。宮崎は夜遅くなったという理由で陽子に「北陸企画」の事務所に泊まることを勧めた。陽子も明日、送ってくれるならと泊まることにした。
2月24日昼ころ、陽子が家族あてに電話で「友人の家にいるので心配ない」「北陸企画でアルバイトすることになった」と伝える。
2月25日午後4時、宮崎が長岡家あてに電話したが、両親は不在で電話に出たのは陽子の祖父だった。「娘さんを預かっている。そのことで相談したいことがあるから両親が27日午前11時に喫茶店Aまで来てほしい」と伝えた。
その後、宮崎が「北陸企画」の共同経営者の北野宏(当時28歳)所有のライトバンに陽子を乗せて車を走らせ、途中で陽子に睡眠薬を服用させて眠らせることに成功。岐阜県吉城郡古川町(よしきぐん・ふるかわちょう/現・飛騨市)の山林に入り、宮崎が車の中で陽子を浴衣の帯で絞殺。
翌26日、死体を山林に遺棄しているが、処理が杜撰だった。
陽子の両親は娘が帰ってこないことを心配して「北陸企画」を訪ねているが、このとき対応した宮崎は知らないと言った。その後、両親は派出所に行って事情を説明。宮崎が呼び出されたが、ここでも知らないと主張した。
2月27日午前10時、25日と同様の内容で長岡家あてに電話をかけているが、このときも両親は不在で電話に出たのは陽子の祖父だった。
午前11時、宮崎の指示通りに陽子の父親が喫茶店Aで待っていたが、宮崎は陽子の祖父へ話した内容は父親には伝わってないと思って喫茶店Aには行かなかった。
3月5日午後6時ころ、宮崎知子が長野市の千石前バス停付近で長野信用金庫石堂支店勤務の寺沢由美子(20歳)に声をかけ、喫茶店に誘い、身の上話などを聞き、国道沿いのドライブインで食事をした後、明日の出勤に間に合うように送ると約束して長野県小県(ちいさがた)郡青木村の山の中に入り車中泊。このとき、睡眠薬を入れた缶ジュースを飲ませている。翌6日明け方、由美子の首をひもで締めて殺害し、道端の崖下に死体を遺棄した。
3月6日、岐阜県の山林で地元の釣り客が長岡陽子の遺体を発見。(殺害から10日後)
午後7時16分、宮崎が寺沢家に電話をかけ、「お嬢さんを預かっている。明日午前10時に3000万円をお姉さん(N子)に持たせて長野駅に来い。警察には知らせるな」と指示。
午後7時43分、由美子の父親が110番通報。
午後8時20分、長野中央署が寺沢家で逆探知セット。
3月7日午前7時、特別捜査本部設置。
これ以降、宮崎が寺沢家やN子あてに電話した内容は次の通り。
午前11時、長野駅の観光案内所にN子を電話で呼び出したが、N子が10万円しか用意していないことを知ると、「それではだめだ。正午まで待つ」と言って電話を切った。
午後0時23分、寺沢家に電話をかけ、「午後4時までに2000万円持参して長野駅に来い」と指示。
午後4時20分、長野駅の観光案内所にN子を電話で呼び出し、「午後4時38分発のあさま16号6両目に乗車して高崎駅で降りろ」と指示。
午後7時4分、高崎駅の観光案内所にN子を電話で呼び出し、「駅前大通りの喫茶店Pに入れ」と指示。
午後8時40分、喫茶店Pに電話をかけ、N子を呼び出し、「近くのレストランNに移れ」と指示。
午後9寺53分、レストランNに電話をかけ、N子を呼び出し、「明日正午に再度レストランNに来るように」と指示。
3月8日午前11時38分、N子がレストランNに入るが、その後、犯人との接触はない。
午後4時45分、捜査本部がN子に帰宅するように指示。
3月8〜10日、富山・岐阜合同捜査本部が宮崎知子と北野宏を参考人として事情聴取。
3月27日、長野県警が「寺沢由美子さん誘拐事件」を公開捜査。
3月29日、富山・岐阜合同捜査本部、宮崎知子と北野宏の事情聴取再開。
3月30日、警察庁が一連の誘拐事件について富山、長野事件を連動する誘拐事件とみなし、広域重要「111号事件」に指定。長野県警捜査本部が宮崎知子と北野宏の2人を「寺沢由美子さん誘拐事件」の容疑者として身代金目的誘拐罪で逮捕。警察庁広域重要指定事件
富山・岐阜県警合同捜査本部が2人を犯人と断定した理由は次の通り。
(1)2月26日正午ころ、岐阜県吉城郡古川町の飲食店Dで宮崎知子と北野宏、長岡陽子の3人がラーメンを食べているのを従業員が見ていた。
(2)長岡陽子の指紋数個が「北陸企画」の事務所内から検出された。
(3)岐阜大学医学部で長岡陽子の遺体解剖した結果から陽子の胃袋の中からラーメンを食べたと思われるシナチクなどが残っており、食後4〜5時間経過していることが分かった。
(4)長岡陽子が殺害されたのは2月26日夕刻と断定。
3月31日、宮崎知子と北野宏の身柄を長野中央署に護送。
4月3日、長野県の山中で寺沢由美子の遺体が発見される。(殺害から約1ヶ月後)
宮崎知子は身代金要求のために日産の赤いフェアレディ280Zを駆使して富山、長野、岐阜、群馬、東京を疾走。犯行現場では赤いフェアレディが目撃されていた。この事件は「赤いフェアレディZ事件」とも呼ばれている。犯行時は離婚して6年経っていたが、小学5年生の男の子がおり、富山の実家に預けて養育していた。1946年(昭和21年)、宮崎知子は富山市で生まれた。父親と母親は内縁関係にあり、宮崎知子は13歳になるまで認知もされていなかった。IQが138あり、名門県立富山女子高校普通科(1948年、県立富山高校へ統合、1956年、再独立、2002年、県立富山いずみ高等学校に改称)に進学し、水泳部に所属した。卒業後、東京経済大学に合格するも父親から学費が出せないという理由で、入学を反対され、生命保険会社に事務員として就職するが、3年で退職。その後は上京して化粧品会社など転職を繰り返し、23歳のとき結婚する。だが、4年で夫の浮気などが原因で離婚。その後、結婚相談所に登録し、14人と見合いしたが、次第に結婚するという考えは薄れていった。1977年(昭和52年)、人づての紹介で妻帯者の電気工の北野宏と出会い、同棲を始めるとともに北野と共同で百円ライターや灰皿、宣伝マッチなどを扱う贈答品販売の「北陸企画」を立ち上げた。だが、業績はほとんどなく、自宅兼事務所の家賃すらまともに払えない状況で、借金は総額で500万円ほどあった。金策に困り果てた末にかつて勤務した保険会社の知識を悪用して1979年(昭和54年)3月、結婚相談所を介して交際したことのある男性Aに頼んで災害死亡時5000万円の生命保険に加入させ、5月ころ、山菜取りの名目で山中に誘い出し、崖から転落死させるつもりだったが、適当な場所が見つけられず断念。8月、近くの薬局でクロロホルム液を購入して同じく男性Aに対しこれを使用した保険金殺人も失敗に終わっている。その後、展示会で見て気に入ったフェアレデイZを借金までして購入。今度は誘拐殺人を思い付く。1980年(昭和55年)2月11日と19日の両日に渡って、20代の男を誘ってフェアレディZに同乗させたが、結局、実行できず断念し、その標的を若い女性に変え、4日後の2月23日に実行に移した、、、。
4月20日、長野地検が長野事件で宮崎知子と北野宏の2人を身代金目的誘拐、殺人、死体遺棄、身代金要求の4件の罪で起訴。
4月21日、富山・岐阜合同捜査本部が富山事件で宮崎知子と北野宏の2人を身代金目的、殺人、死体遺棄の3件の容疑で再逮捕。
5月13日、富山地検が富山事件で宮崎知子と北野宏の2人を身代金目的、殺人、死体遺棄の3件の罪で起訴。
9月11日、富山地裁で初公判が開かれた。一般傍聴席37枚を求めて傍聴希望者は200人を超えた。検察側は冒頭陳述で両事件とも実行行為者を北野宏と断定。誘拐は両事件とも宮崎知子、死体遺棄は2人と主張。北野宏は両事件ともに全面否認。宮崎は富山事件を否認。
2人は起訴されると犯行の実行について真っ向から対立し、激しく憎しみ合うようになった。第27回公判では北野宏は「この清い、静粛な法廷に場違いな悪魔の心をもつ女、宮崎がいる。私は殺人もしていなければ誘拐の話も全く知らない。こんなうそつきの女に振り回されたのではたまったものではありません」と宮崎を罵った。
1988年(昭和63年)2月9日、富山地裁は宮崎知子に死刑判決、北野宏に無罪の判決を言い渡した。
「金銭欲にかられた宮崎被告が誘拐殺人を計画、わずか2週間(2.23〜3.6)足らずの間に連続して女性を誘拐、殺害した事実はまれにみる凶悪、重大犯罪。情状酌量の余地はない。よって、宮崎被告に対しては極刑をもって臨むほかない」というものであり、2人の共謀共同正犯から一転して犯罪の計画と実行は宮崎知子が一人で行い、北野宏は関与していないと認定された。
宮崎は判決を不服として即日控訴。北野は閉廷後に釈放となった。
2月23日、富山地検が北野の無罪判決を不服として控訴。
7月、宮崎は今市4人殺傷事件(1981.3)で死刑確定(1993.9.9 最高裁)となり死刑執行(2006.12.25)になった藤波芳夫と養子縁組しており、宮崎は「藤波」姓に変わっている。養子縁組した当時、藤波は最高裁に上告中だった。死刑囚同士の養子縁組は過去にこの一例しかない。その後、宮崎は別の支援者との養子縁組で「迫」姓になり、現在は元の「宮崎」姓に戻っている。
1989年(平成元年)11月28日、名古屋高裁金沢支部で控訴審初公判が開かれ、1991年(平成3年)11月12日、第28回公判で結審した。
1992年(平成4年)3月31日、名古屋高裁金沢支部は原判決を支持し、検察側と宮崎被告の控訴を棄却。名古屋高検は上告せず、北野宏の無罪が確定した。
weblio国語辞典で「富山長野連続女性誘拐殺人事件」で検索すると「無罪確定後の北野」という項目があり、次のような記述があった。(<>内/一部、改変)
< 北野宏は1審で無罪を言い渡されて釈放された後、友人の紹介を受け、1988年(昭和63年)9月から運送会社に就職したが、地元の人々の先入観や偏見は消えず、1年半で退社。その後、新たな就職先を探したが、100社以上から就職を断られるなど、2次被害に苦しめられ、偽名で働いた時期もあった。・・・(中略)・・・北野の無罪確定後、北野の弁護団は富山地裁に刑事補償を求める手続きを行った。これを受け、富山地裁(下山保男裁判長)は国に対し、北野からの請求全額2700万6200円を支払うよう命じる決定を出した。この決定は、北野が働き盛りの28歳〜36歳(逮捕〜1審で無罪判決になり釈放されるまでの8年間)にかけて身体拘束と「社会の多大な関心を集めた重大事件の嫌疑」を受けたことや釈放後も4年間(1審で無罪判決になり釈放〜2審で控訴棄却で無罪が確定するまでの4年間)に渡って被告人としての立場に置かれ、再就職に苦しむなど社会的不利益を受けたことを考慮したもので、死刑判決を受けた後に無罪が確定した元被告人(死刑確定後再審無罪事件)を除けば、法定最高額が支払われた事例は国内で初めてだった。また、富山地裁は北野と弁護団からの裁判費用の補償請求を受け、刑事訴訟法188条の2に基づき、国に対し、北野と弁護団(団長:浦崎威)へ合計2179万4080円を支払うよう命じる決定を出した。その内訳は、公判(第1審・控訴審を併せて222回)や準備手続、公判準備を含めた計63回のために費やした旅費・日当・宿泊費・弁護報酬で、弁護団は弁護費用・報酬などの分配後に解散した。 >
刑事訴訟法188条の2 費用の補償・・・無罪の判決が確定したときは、国は、当該事件の被告人であつた者に対し、その裁判に要した費用の補償をする。ただし、被告人であつた者の責めに帰すべき事由によつて生じた費用については、補償をしないことができる。
名古屋地裁金沢支部での控訴審判決後、宮崎被告は上告した。
1998年(平成10年)9月4日、最高裁で上告棄却で宮崎知子の死刑が確定した。
戦後では7人目の女性死刑確定囚となった。
現在、宮崎は再審請求を計4回行っている。
この事件をモデルにした小説に『迷路』(光文社文庫/清水一行/2003) / 『富山・長野連続誘拐殺人事件 脅迫する女』(ケイブンシャノベルス/新書/井口泰子/1987)がある。
テレビドラマでは日本テレビ系列の「金曜ドラマシアター」枠で『実録犯罪史シリーズ “最期のドライブ” 富山長野女子高生・OL連続誘拐殺人事件』(監督&演出・長崎俊一/宮崎知子役・室井滋/北野宏役.・玉置浩二/1992年6月26日21:02 〜 22:52)がある。
参考文献など・・・
『女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間文庫/佐木隆三/1991)
『誘拐殺人事件』(同朋舎出版/斎藤充功/1995)
『女性死刑囚 十三人の黒い履歴書』(鹿砦社/深笛義也/2011)
参考サイト・・・
weblio国語辞典
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