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瀬戸内シージャック事件

1949年(昭和24年)、川藤展久(かわふじのぶひさ)は岡山県児島市下津井(しもつい)町(現・倉敷市下津井)に生まれた。父親は船員、母親は新興宗教信者で、家は留守がちだった。

小学校の卒業時の学籍簿には<放浪、エスケープ、無銭旅行、盗みなどの傾向あり。自己統率力弱く、外部の誘惑に動かされやすく、正悪の判断つかず。顔色を見て機嫌をとる。自分の気に入ったことしかせず、不良化の素質充分>とある。

川藤は中学に進んだが、半年ほどで姿を見せなくなった。その後、東は千葉から西は福岡まで、そば屋、パチンコ屋の店員、零細工場の工員、ヤクザの使い走りなどをやりながら生活していた。その間、施設、少年院などへ出入りもした。

1970年(昭和45年)5月10日、20歳になった川藤は、少年A、Bと共に、福岡市内で盗んだ乗用車で国道2号線を東へ向かっていた。豪雨の中、11日午前0時過ぎ、山口県下に入ったとき、パトカーの検問を受けた。

川藤は盗みがバレるのをおそれ、所持していた猟銃で警官を威嚇した。もみ合いになり、川藤を助けようとして、Bがナイフで警官を刺した。Bはその場で逮捕され、川藤とAはそのまま車で逃走した。

山口県警は、すぐに非常線を張ったが、2人は途中で盗んだ軽四輪車に乗り換えていたので、うまく検問をすり抜け、早朝、宇部市に着いた。テレビアンテナを買って、その箱に猟銃を入れた。

宇部新川駅で食事をしながら、今後のことを話し合った。20歳まで成り行き任せに生きてきた川藤には将来の展望などあるわけがなかった。ただ、漠然と大阪に行こうと思っていた。そのためには金が要る。土地鑑のある広島でひと稼ぎしよう。川藤が、駅前の中央郵便局を襲うのはどうか、と言うとAはそれに頷いた。

山陽本線の列車に乗った。警戒網を避けるため、広島のひとつ手前の横川駅で降り、タクシーで広島市内に入った。駅前で夕刊を買った。自分たちのことが大きく載っている。気のせいか、警官の姿がやたら目につく。2人は強盗を諦め、その夜は二葉山の仏舎利塔で仮眠をとった。

12日午後2時ごろ、2人組が広島市郊外岩鼻(いわはな)踏切近くの山中にいる、という通報が警備本部に入り、パトカーが急行した。現地は道が狭かったため、警察は車を降りて、手分けして捜索を始めた。

そのうちの1人の警官が川藤らを見つけた。通りかかった軽四輪に便乗して追跡した。追いついた警官は拳銃を構えたが、川藤の動きの方が一瞬、早かった。運転手に銃口を突きつけていた。警官が拳銃を捨てると、Aは脱兎のごとく逃げ去った。

川藤は軽四輪に飛び乗り、立町電停に行くように命じた。県庁、県警本部のある中心地へ向かうという無謀さが、捜査陣の目を眩ませる結果となった。ここで、以前から知っていた銃砲店に押し入り、ライフル2丁、猟銃1丁、実弾380発を奪った。店を飛び出すと、タクシーで宇品(うじな)港に乗り付けた。料金は余分に払っていた。銃で脅かしながら桟橋を駆け抜け、停泊中の観光船「ぷりんす号」を乗っ取った。中向文人船長ら乗組員9人、乗客37人を人質にして、午後5時15分出港した。川藤は出港直前に広島南署の警備艇にライフルを乱射し、警官1人に1ヶ月の重傷を負わせた他、待合室にいた乗客も耳に1週間のケガをした。夜、松山港に入った。

川藤は途中、父親や姉の説得に銃弾でお返しした。警察との電話での会話では「ライフルはなあ、絶対、民間人に向けとらん。冗談言い合っているぐらいや」と余裕のあるところを見せた。給油後、乗客を全員降ろした「ぷりんす号」は再び、出港。13日午前9時前、宇品港に戻った。

川藤はここでもライフルを乱射し、デッキに出て、Bの釈放を訴えた。だが、そこには、大阪府警のライフル隊が待ち構えていた。午前9時52分、C巡査部長(当時41歳)が放ったライフル弾が川藤の左胸を撃ち抜き、ゆっくりと倒れていく川藤の姿がテレビで全国中継された。傍らにいた中向船長は川藤の「死んでたまるか、もう一遍・・・」という最後の微かな呟きを聞いた。その後、病院に収容されたが、午前11時25分、死亡した。人質事件で、犯人狙撃によって解決した初のケースとなった。

5月15日、自由人権協会北海道支部加盟の下坂浩介、入江五郎の2人の弁護士は川藤を射殺した大阪府警のC巡査部長と狙撃を命じた須藤博忠広島県警本部長を特別公務員暴行陵虐致死、殺人、同教唆で広島地検に告発した。殺すことよりも手足を撃って逮捕することができたのに、いきなり射殺したのは人道上も許せない行為などの理由をあげている。

これに対し、広島地検はC巡査部長の行為が犯罪にならないという結論を出し不起訴処分とした。射殺までの状況、100発近くも無差別に乱射、警官など数人が重軽傷を負い、父親や姉の説得に銃弾を発砲。さらに銃と実弾を多く持っていたこと、船には乗組員が人質になっており、このまま再出港させると重大な事態を引き起こす危険性があったことことを考え、C巡査部長の行為は刑法36条の正当防衛に当たり、刑法35条により、警官としての正当な職務行為に該当して罪にならないと判断した。

刑法35条(正当行為)・・・法令又は正当の業務に因り為したる行為は之を罰せず。

刑法36条(正当防衛)・・・(1)急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。(2)防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

弁護士側はこの処分を不服として広島地裁に準起訴手続きを取ったが、棄却され、さらに最高裁でも支持され、確定した。

日弁連人権擁護委員会(当時・後藤信夫委員長)も「シージャック事件調査特別委員会」を作って、C巡査部長の射殺が妥当かどうか調査したが、7月18日、C巡査部長の射殺は妥当であると結論した。

調査は警察、海上保安庁、瀬戸内海汽船、船員、病院などを対象として行われ、「狙撃して死亡させた射手の認識」「海上から見た緊急状態の程度」などから正当防衛になるかどうかを検討した。その結果、捜査の不手際や狙撃後の救護措置などにおいて適切な対応とは言えないとしながらも、C巡査部長、狙撃を命令した須藤博忠広島県警本部長、畑谷房雄捜査第1課長の行為は「刑法36条、警察官職務執行法7条に該当するものと認める」という結論した。同時に「今後、こうした非常手段をとる場合は絶対に行き過ぎにならないように万全の考慮を払うことを願う」と付記している。

警察官職務執行法7条(武器の使用)・・・警察官は、犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。但し、刑法(明治40年法律第45号)第36条(正当防衛)若しくは同法第37条(緊急避難)に該当する場合又は左の各号の一に該当する場合を除いては、人に危害を与えてはならない。(1、2項 省略)

同年3月31日に、赤軍派による「よど号」ハイジャック事件が起きたばかりだったため、この事件が川藤に影響を与えたとも言われている。

瀬戸内シージャック事件を元にしたノンフィクション・ノベルに『凶弾』(講談社文庫/福田洋/2000)があるが、この作品は同じタイトルで映画化された。『凶弾』(DVD/監督・村川透/主演・石原良純/2009)

その後の乗っ取り事件で、犯人が射殺された事件に「長崎バスジャック事件」がある。

[ 長崎バスジャック事件 ]

1977年(昭和52年)10月15日午前、長崎県平戸発長崎行きの西肥バスが、国道206号線の大村市付近で「阿蘇連合赤軍」と名乗る2人組に乗っ取られた。

昼過ぎ、バスは給油のため、国道沿いのガソリンスタンドに乗り付けられたが、スタンド従業員から急報を受けた長崎県警は、午後1時半には後部エンジンのコードを切断して完全に包囲した。

その後、犯人は水や食糧と引き換えに5人の乗客を解放したが、それ以降は銃や爆弾のようなものをちらつかせ十数人の人質を取って立て篭もり、ブラインドを下して長期戦の構えを見せた。

2組の犯人は「瀬戸山法相、新自由クラブ代表、細川隆元を連れてこなければ交渉には応じない」というのも「赤軍」にしては変であった。

17日前の9月28日には日本赤軍(奥平純三、日高敏彦、和光晴生、丸山修、山田義昭と思われる5人)による日航機ハイジャック事件(ダッカ事件)が発生、政府は身代金として600万ドル(当時で約16億円)を払い、収監中の6人(日本赤軍の奥平純三、東アジア反日武装戦線の大道寺あや子と浴田由紀子、赤軍派の城崎勉と一般刑事犯で無期懲役刑中の強盗殺人犯の泉水[せんすい]博、同じく一般刑事犯で懲役10年の判決を受け、控訴中の殺人犯の仁平映)を釈放させたばかりであった。詳しくは日本赤軍と東アジア反日武装戦線

また、わずか2日前の10月13日には西ドイツ赤軍とパレスチナ・ゲリラ(男2人と女2人の計4人)による西ドイツのルフトハンザ機のハイジャック事件が発生、長崎バスジャック事件はその事態収拾の真っ最中に起こった事件だった。この事件はマジョルカ発フランクフルト行きの便が奪われローマに着陸。要求は同志13人の釈放と1500万ドルだった。キプロス、バーレーン、ドバイ、UAEを経由し、17日にソマリアのモガジシオに着陸。この間に機長が射殺され、18日にGSG9(ドイツの対テロ特殊部隊)が突入して犯人3人を射殺、女1人を逮捕した。女はソマリア・ローマで懲役50年の判決だった。

こうした事件があったことから県警はあくまで「説得」を建前としていたが、犯人射殺もやむを得ないという強気の方針の元に同じ型のバスを用意して何度も突入の訓練を実施した。

事件発生から18時間後の16日午前4時25分、一斉射撃とともに突入して主犯の川崎久之(31歳)を射殺、共犯の山本洋(仮名/当時39歳)は血まみれの状態で逮捕され、乗客は全員無事救出された。この事件で山本はその後、懲役6年の刑が確定した。

乗っ取り事件以外での犯人が射殺された事件に、1979年(昭和54年)1月26日から3日間、大阪の三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)北畠支店に人質を取って立て篭もり、猟銃で警察官2人と銀行員2人合わせて4人を射殺した三菱銀行猟銃強盗殺人事件がある。28日の朝、犯人の梅川昭美(あきよし)は警察の特殊部隊によって射殺された。

参考文献・・・
『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)

『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『戦後ハイジャック全史』(グリーンアロー出版/稲坂硬一/1997)
『別所汪太郎 鬼検事覚書』(読売新聞社/読売新聞大阪社会部[編]/1983)

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