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甲山事件

[ 山田悦子が裁判で無罪確定になるまで ]
1974.3.19 園児2人の遺体発見
4. 逮捕
1975.9.23 不起訴
10. 男児の遺族が検察審査会に不服申し立て
1978.2.27 再逮捕
3. 起訴
3.24 保釈
6. 神戸地裁で初公判
1985.4.18 神戸地検が懲役13年を求刑
10.17 神戸地裁で無罪判決
10.29 検察側が控訴
1988.10.12 大阪高裁で控訴審初公判
1990.3.23 大阪高裁の控訴審で神戸地裁へ差戻し判決/弁護側が上告
1992.4. 最高裁で上告棄却で神戸地裁への差戻しが決定
1993.2.19 神戸地裁で差戻し審初公判
1998.3.24 神戸地裁の差戻し審で2度目の無罪判決
4. 検察側が再び控訴
1999.1.22 大阪高裁で第2次控訴審初公判
9.29 大阪高裁の第2次控訴審で控訴棄却で3度目の無罪判決
10. 検察側が上訴権を放棄し無罪確定

1974年(昭和49年)3月17日夕方、兵庫県西宮市、六甲山系甲山(かぶとやま)の山麓にある知的障害児施設の社会福祉法人甲山福祉センター「甲山学園」(現・廃園)で園児の溝畑光子ちゃん(12歳)が突然、行方不明になった。

3月19日夕方、同じく園児の藤原悟君(12歳)が行方不明になった。同日夜、園内の浄化槽から2人とも水死体となって発見された。

事件当時は、学園には中・軽度障害児の青葉寮47人(男31人、女16人)と重度障害児の若葉寮32人の計79人の子どもたちが2つの寮で生活し、30人の職員が世話をしていた。彼らの年齢は6才から24才までで、兵庫県の各地から家族のもとを離れ、生活指導と学校教育を受けるために入園していた。学園には、地域の小・中学校から教師が派遣され、園内の学習棟で授業が行われていた。

3月20日、死体が発見されたとき浄化槽のふた(17キログラム)が閉まっていたことなどから「殺人事件」と断定して捜査が開始された。外部からの侵入の形跡がないことから「内部犯行説」を採り、園内にいた青葉寮職員の犯行と決め付けられた。それは知恵遅れの子どもは犯行を犯すはずがないとして、事故の可能性も含めて子どもたちの関わりはないとされた。

学園内に「取調室」が設けられ、園児、職員からの事情聴取が連日行われた。アリバイと殺害の動機を中心に人権を無視した個人のプライバシーに立ち入った取り調べが進められ、警察は「職場の中の誰かが犯人だ」と脅した。こうしたことが、同僚への猜疑へと発展し、学園の職員も父兄も疑心暗鬼の中で分断させられていった。

4月7日、甲山学園の保母の山田悦子(旧姓・沢崎/入籍により「山田」姓に改姓するのは翌年7月ですが、都合上ここでは全て「山田」で統一/当時22歳)が3月19日に藤原悟君を便槽の中に突き落として殺害した容疑で逮捕された。

保母・・・1999年(平成11年)4月1日に施行された改正児童福祉法により、現在、求人誌などの募集欄では「保母」「保父」などの偏った性別の表現ができなくなり、「保育士」という名称に変更されている。

逮捕の理由は次の通りであった。

(1)山田は17日と19日の両日ともに学園内にいた。

(2)19日の午後8時前後の「犯行時間帯」に山田のアリバイがない。

(3)園児の遺体が見つかったときや葬儀のときに山田が激しく泣いて取り乱した。

このとき、新聞記者の間で「彼女(山田)が(わざとらしく激しく泣いているように感じられるので)怪しいんじゃないか」という話が出たという。1993年(平成5年)の甲府信金女子職員誘拐殺人事件のときも被害者の父親が殺された娘の棺の前で激しく泣いたために、地元住民の間で「犯人は父親ではないか」というデマが広がることがあった。

(4)4月4日、女子園児のA子(当時11歳)が「山田先生が(藤原)悟君を連れて行くのを見た」と証言した。この証言はそれまで親や職員が訊いても出てこなかった「目撃供述」がこの日、警察官の前で初めて出てきた。

また、『月経と犯罪 女性犯罪論の真偽を問う』(批評社/田中ひかる/2006)には、<「女は生理のときにカッして頭にきて、何をするかわからへん」という考えから、女性職員全員に事件前後1ヵ月間の月経日を申告させ、それをひとつの根拠としてS(山田)さんを逮捕したのである。>という記述がある。

『月経と犯罪 女性犯罪論の真偽を問う』(批評社/田中ひかる/2006)

山田は連日10時間に及ぶ執拗な取り調べを受けた。まず、「犯行時間帯」とされる3月19日の午後8時前後のアリバイ追及から始まった。

「やっていないのなら、アリバイを証明しろ。言えなければおまえが犯人だ、説明できたら釈放してやる」

山田は本当のことを言えば必ず分かってもらえると信じ、必死にアリバイを思い出そうとした。だが、1ヶ月も前のある日の夕方の自分の行動を詳細に思い出すことなどできるはずもない。それにもかかわらず、取り調べの警察官は3月19日の事件当日の夜8時前後の行動に1分1秒の説明を要求した。

4月17日、取り調べを始めてから10日後、精神的にも肉体的にも疲れ果てた山田は断片的に「自白」した。「私がやりました。あとは明日話します」と言って留置場の房に戻り、ストッキングで自分の首を締め、自殺を図ったが、未遂に終わった。

山田はその日以降は一貫して無実を主張した。

4月28日、神戸地検尼崎支部は処分保留のまま山田を釈放した。

7月30日、山田は学園の職員らと共に逮捕は不当な人権侵害であると、国と兵庫県を相手取り、神戸地裁尼崎支部に国家賠償請求訴訟を起こした。請求の趣旨は3大新聞など合わせて5紙に謝罪広告を掲載することや600万円の損害賠償を支払うことなどであった。

9月9日、遺体で発見された溝畑光子ちゃんと藤原悟君の両親が社会福祉法人甲山福祉センターを相手取って、子どもの死亡による精神的苦痛に対する慰謝料など合計3367万円の支払いを求める損害賠償請求訴訟を神戸地裁尼崎支部に提訴したが、この訴えは後に1審で勝訴し、甲山福祉センターは2人の両親に対し合計1133万円を支払うという判決が下った。この裁判の中でセンター側が「2人の死で両親は苦労を免れたのだから損害賠償は筋違いだ」と主張したため、日本脳性マヒ者協会、関西青い芝の会連合会などが身障者への露骨な差別としてセンターに座り込むという事件も発生した。

11月22日、神戸地裁尼崎支部で山田が国と兵庫県を相手取った国賠訴訟の第1回口頭弁論が開かれる。

1975年(昭和50年)9月23日、神戸地検尼崎支部は処分保留となっていた山田に対し、証拠不充分として不起訴処分にした。

10月3日、男子園児の遺族が検察審査会に不服申し立てを行った。

検察審査会・・・検察官の不起訴処分の妥当性を一般国民の目でチェックして、捜査の適正化を図る目的で設けられた独立機関。地域の衆院選の選挙人名簿搭載者の中からクジで選ばれた11人の審査員で構成される。審査は非公開で、議決には不起訴を疑問とする「不起訴不当」と、さらに強い意味の「起訴相当」、逆に妥当とする「不起訴相当」がある。検察審査会法は、「不起訴不当」か「起訴相当」の議決が出た場合は事件処理を再考するよう検察に求められるが、法的拘束力はなく、起訴は義務付けられない。過去には、不起訴になったひき逃げ事件の容疑者が「不起訴不当」の議決のあとに改めて起訴され、実刑になった例もある。

1976年(昭和51年)1月16日、神戸地裁尼崎支部で山田が国と兵庫県を相手取った国賠訴訟の第9回口頭弁論で、元園長の荒木潔が山田のアリバイを証言した。

10月28日、神戸地検尼崎支部が前年の9月に山田を証拠不充分で不起訴処分にしたことに対し、神戸検察審査会が不起訴不当の決議を採択した。

12月10日、神戸地検が検察審査会の決議を機に再捜査に乗り出した。

1978年(昭和53年)2月27日、神戸地検により、園児の「被告人が死んだ2人を寮から連れ出すのを見た」という目撃証言が得られたとして山田が再逮捕された。荒木元園長と若葉寮の元指導員の多田いう子も国賠訴訟で山田のアリバイを「偽証」した容疑で逮捕された。

ここでいう「指導員」とは「保母(保育士)」の資格をもっていない者を言い、ここでの仕事の内容に違いがあるというわけではない。

山田の再逮捕の直前に、清水一行が小説『捜査一課長』(集英社)を刊行した。この小説は甲山事件をモデルにした小説で、捜査する側から描き、山田を犯人扱いする内容であった。約5万部刊行され、その後、山田や救援会の再三の抗議にもかかわらず、祥伝社刊、発行元・小学館、2万部)、文庫(集英社刊、10万部)と刊行され続けた。

『捜査一課長』

3月9日、神戸地検により山田が殺人罪で起訴される。

3月17日、神戸地裁尼崎支部で山田が国と兵庫県を相手取った国賠訴訟の第28回口頭弁論が開かれ、審理が中断された。

3月24日、山田が保釈される。

6月5日、神戸地裁で山田の殺人容疑の初公判が開かれる。

1980年(昭和55年)1月14日、神戸地裁で非公開で5人の園児の証人調べが始められたが、その回数は17回を数えた。

1審の神戸地裁での公判では被告人の自白調書の信憑性と知能発育遅滞の園児の証言に対する信用性が争点となった。

1981年(昭和56年)7月31日、甲山学園が廃園になる。

1985年(昭和60年)4月18日、神戸地検は山田に対し懲役13年を求刑した。

10月17日、神戸地裁は山田に対し、「被告人の当初の自白は断片的、概括的で、到底信用できない」として無罪を言い渡した。

10月29日、検察側が「審理不充分で事実を誤認しており承服できない」として控訴した。

1986年(昭和61年)2月25日、山田が人権回復のため、小説『捜査一課長』の著者の清水一行、出版社の集英社、祥伝社、小学館に2200万円の損害賠償と謝罪を求めて大阪地裁に提訴した。

1987年(昭和62年)11月17日、神戸地裁は荒木元園長と多田元指導員に対し、無罪を言い渡した。

11月27日、検察側が控訴した。

1988年(昭和63年)10月12日、大阪高裁で控訴審が始まる。

1990年(平成2年)3月23日、大阪高裁は山田の1審での無罪判決を破棄し、審理を神戸地裁に差し戻した。弁護側は上告し、「捜査段階での被告人の自白は任意性がなく、2審判決は証拠の評価を誤っている」などと主張、最高裁に職権で事実調べをして、2審判決を破棄するように求めた。

1992年(平成4年)4月7日、最高裁は2審判決には憲法や判例に違反する点はないとして、弁護側の上告を棄却する決定をした。

1993年(平成5年)1月22日、大阪高裁は荒木元園長と多田元指導員の1審での無罪判決を破棄し、審理を神戸地裁に差し戻した。

2月19日、神戸地裁で差戻し審が始まる。差戻し審では高裁判決に従って、主に次の4点を巡って証拠調べが行われた。

(1)園児らの目撃証言が事件から3、4年後と遅れたことと学園の職員らによる口止め工作との関連。

(2)園児らが「連れ出し」の事実を初めて供述したときの取り調べ状況。

(3)事件当夜の山田の行動を巡るアリバイ工作の有無。

(4)山田のコートと死亡した園児のセーターの両方に「酷似する」繊維が付着する可能性の有無。

検察側は山田と犯行を結び付ける証拠としているのは、園児5人の目撃証言と捜査段階での山田の自白調書、それと繊維関係の3つである。

1995年(平成7年)12月19日、大阪地裁で小説『捜査一課長』で、山田が犯人扱いされ名誉を傷付けられたとして、著者の清水一行と集英社、祥伝社、小学館に2200万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決があった。裁判長は「甲山事件の諸事実をそのまま用いた設定で、読者に原告をモデルとした人物が犯人との印象を与え、名誉を侵害した」として清水一行と出版した集英社、祥伝社に計176万円の支払いを命じた。小学館については「販売に関与しただけ」と請求を棄却した。裁判長はまず実在事件を題材に「モデルが容易に想像できる」ようなモデル小説では、内容が事件関係者がみだりに公開されたくない私生活上の事実ならプライバシーの侵害になり、社会的評価を低下させれば名誉の侵害になると判断。そして「モデルとされた人物は多かれ少なかれ名誉などが侵害され、この犠牲の上に作家と出版社は利益を得るので名誉を棄損する内容のものの執筆出版は違法」とした。その後、清水一行、集英社、祥伝社が大阪地裁での判決を不服として控訴した。

1997年(平成9年)10月8日、大阪高裁で小説『捜査一課長』で、山田が犯人扱いされ名誉を傷付けられたとして、著者の清水一行と集英社、祥伝社、小学館に損害賠償などを求めた訴訟で、「名誉を侵害した」として清水一行と出版した集英社、祥伝社に計176万円の支払いを命じた1審判決を支持し、清水一行、集英社、祥伝社の控訴を棄却した。その後、清水一行、集英社、祥伝社が大阪高裁での判決を不服として上告した。

1998年(平成10年)3月24日、神戸地裁は山田と荒木元園長に対し、2度目の無罪を言い渡した。

3月30日、神戸地裁は多田元指導員に対し、2度目の無罪を言い渡した。

4月6日、検察側が再び控訴した。

1999年(平成11年)1月22日、大阪高裁で第2次控訴審が始まる。

2月4日、最高裁第1小法廷は、小説『捜査一課長』で、山田が犯人扱いされ名誉を傷つけられたとして、著者の清水一行、集英社、祥伝社に損害賠償を求めた訴訟の上告審判決で、計176万円の賠償を命じた2審判決を支持し、清水一行、集英社、祥伝社の上告を棄却した。これによって、清水らの敗訴が決定した。

2月19日、大阪高裁は検察側が申請した園児の証言テープの証拠採用を却下した。

9月29日、大阪高裁は被告人・山田に対する検察側の控訴を棄却した。裁判長は「園児の証言や状況証拠からまったく犯人と認めることはできず、アリバイが成立する可能性が高い。捜査段階での自白には全体の信用性に疑問を生じさせるほどの動機に関する事実誤認があり、捜査の見直しを迫られるほどだ」などと述べた。

10月8日、大阪高検は明確な上告理由を見出せないことや高裁レベルで1審の無罪判決が支持されたことを重く受け止め、上訴権を放棄した。これで山田の3度目の無罪が確定した。

10月22日、大阪高裁は被告人・荒木元園長に対する検察側の控訴を棄却した。

10月29日、大阪高裁は被告人・多田元指導員に対する検察側の控訴を棄却した。

11月4日、大阪高検が荒木元園長、多田元指導員に対する上告を断念した。これで荒木、多田の3度目の無罪が確定した。

無罪が確定するのに、事件発生から25年、起訴から21年もの長い歳月が費やされた。山田は事件発生当時22歳だったが、48歳になっていた。

殺人事件のようなケースで最長だった裁判は元死刑囚の永山則夫の20年だったが、甲山事件が記録を塗り替えた。しかも、甲山事件の場合、一度も有罪判決になっていないという点でも極めて珍しい裁判だった。このように長くなった理由のひとつに、検察側の上訴権の濫用があった。アメリカの陪審制度では1審で無罪の評決が出れば、検察側は控訴できないことになっている。検察官が努力して集めた有罪の証拠が裁判で認められずに無罪判決となったことに対し謙虚であるべきというのがその理由である。永山則夫連続射殺魔事件

山田が「犯人」として扱われ続けた理由を簡単にまとめると次のようになる。

(1)山田の「自白」。多くの冤罪事件と同様に、山田も一旦は犯行を「自白」したこと。ほとんどの冤罪事件では、本人の「自白」が得られている。「自白」を取り消した後も山田を犯人と考えていた関係者は多かった。

(2)検察の強引な手法。検察は山田のアリバイを証言した荒木元園長と多田元指導員に対し、「偽証罪」を適用して逮捕・起訴した。また、1985年(昭和60年)10月の神戸地裁と1998年(平成10年)3月の差戻し神戸地裁の2度の無罪判決に対し、「メンツ」のみで控訴したこと。

(3)マスコミの報道姿勢。マスコミが警察の発表を疑わず、山田を「犯人」として報道したこと。

(4)被害者感情。1975年(昭和50年)に不起訴になったとき、被害者遺族は検察審査会に訴え、その結果、「不起訴不当」の決定がされたこと。

2000年(平成12年)3月3日、山田が国と兵庫県を相手に起こした国賠訴訟は審理が中断されていたが、この日、訴訟を取り下げることを決定する声明を出した。

2001年(平成13年)2月27日、神戸地裁は裁判費用や勾留などの補償として、山田に計約2090万円支払うことを決定した。

甲山学園は現在、廃園になっているが、建物は病院として利用されているらしい。

参考文献など・・・
『記憶の闇 甲山事件[1974→1984]』(河出書房新社/松下竜一/1985)
『学校の中の事件と犯罪T』(批評社/柿沼昌芳+永野恒雄/2002)
『事件 1999−2000』(葦書房/佐木隆三+永守良孝/2000)
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『月経と犯罪 女性犯罪論の真偽を問う』(批評社/田中ひかる/2006)
『甲山事件 えん罪のつくられ方』(現代人文社/上野勝&山田悦子[編著]/2008)
『証言台の子どもたち 甲山事件 園児供述の構造』(日本評論社/浜田寿美雄/1986)
『英雄から爆弾犯にされて アトランタ五輪爆弾・松本サリン・甲山事件』(三一書房/浅野健一[編]/1998)
『毎日新聞』(1995年12月20日付/1999年2月5日付)

関連サイト・・・
冤罪甲山事件

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