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袴田事件

1966年(昭和41年)6月30日未明、静岡県清水市(現・静岡市清水区)の「こがねミソ」製造会社専務である橋本藤雄(41歳)の自宅が放火され、焼け跡から藤雄、妻のちえ子(38歳)、長男の雅一郎(まさいちろう/14歳)、次女の扶次子(17歳)の一家4人が刺殺された姿で発見された。長女の昌子(当時19歳)は祖父母の家にいたため難を逃れていた。遺体はいずれも何者かに突き刺されるなどの致命傷を負ったのち、油を浴びて焼かれたものと判明した。静岡県警と清水署はただちに合同捜査本部を設置し、調査にあたった。そこで、橋本宅から集金袋1個が所在不明と分かった。また、現場には、雨ガッパと小刀用の木鞘(きざや)が焼けずに落ちており、屋内では黒く焦げた、くり小刀の刃体が見つかったが、捜査本部はこれを犯人の遺留品と見ていた。

翌日の7月1日には早くも元プロボクサー(20代の当時、日本フェザー級6位のプロボクサーだった)で「こがねミソ」従業員の袴田巌(はかまだいわお/当時30歳)が警察によりマークされていた。事件当日が給料日であったことで橋本宅に現金が置かれていたことから、内部事情に詳しい者が給料を狙っての犯行とみていたが、その中でも袴田が疑われた理由を挙げると次のようになる(<>内)。

<被害者である橋本の自宅から東海道線をはさんで向かい側にミソ工場があり、その工場内の寮に事件当時、4人の男子従業員が宿泊していた。そのうち2人は相部屋で火災発生と同時に現場に駆けつけていた。ひとりは近くの社長宅に留守番に行っていた。残るひとりが袴田で、パジャマ姿で消火活動に加わる袴田を見た者がいたが、約20分ほどアリバイに空白があった。>

殺害された藤雄は柔道2段の巨漢。犯人はほかに3人殺害しているにもかかわらず、30センチしか離れていない隣家では悲鳴や物音を聞いていない。これだけの犯行ができるのは袴田以外にいない、という予断があった。その予断を正当化するための捜査が続けられたが、この時点で確たる証拠はなにもない状態であった。

7月4日、工場の家宅捜査が行われた袴田の部屋から極微量の血痕と油が付着したパジャマが押収され、<従業員の血染めのパジャマ発見>などと大々的に報道された。捜査員は袴田に任意同行を求め、清水署での事情聴取に袴田は橋本宅の消火活動中に誤って屋根から転落し、左手中指を切ったと包帯に巻かれたその指を見せて説明した。捜査当局はいったん袴田を釈放したものの、犯人として内偵し、裏付け捜査を開始した。

7月24日、捜査本部は放火に使われた油はガソリンとオイルの混合油と発表。

8月18日、袴田が逮捕され、以後連日に渡り厳しい取り調べが続いた。その取り調べは一日平均12時間、最高16時間にも及んだ。その間、水一杯与えなかったことがあった。その上、アル中患者を同房に入れ、夜中まで大騒ぎさせて袴田の睡眠を妨げ、疲労困憊させた。

9月6日、袴田はついに犯行を認めさせられた。自白後、強奪されたとされる金銭のうち5万円余りが「タイミングよく」発見される。清水郵便局で差出人不明の封筒が見つかり、その中からナンバー部分を焼いた紙幣が出てきた。袴田の供述調書には、<五万円を知り合いの女性に預けた>とあり、警察はこの5万円こそ、その袴田が奪った金に間違いないと主張した。

9月9日、袴田が静岡地検により強盗殺人および放火罪で起訴され、10月18日に静岡拘置所に身柄を送られるまで、清水署で45通の自白調書が作成された。調書の内容は激しく変転、犯行の動機も変われば、犯行の態様も変わった。捜査官に誘導されるままに調書が作成されているので、調書45通のうち、どれが真実であるのかが分からなかった。のちの法廷で裁判官も疑問を抱き、調書45通のうち44通は信用性・任意性ともにないとして証拠採用を却下。残る1通の検察官が作成した調書を証拠として採用した。その調書によると、袴田の犯行は次のようになる(<>内)。

<事件当日の夜、午前1時20分に袴田は目が覚め、専務宅へ行って4人を次々に殺害、現金を奪っていったん工場に戻り、現金を隠したあと混合油をもって現場へ引き返し放火した。>

煙が窓から入り、午前1時45分ころ隣家で火事に気付いていた。ということで、最大でも25分(袴田が目覚める午前1時20分から隣家が火事に気付くまでの午前1時45分まで)の間に袴田がこれだけのことをしたことになる。

「血染め」と報道されたパジャマには警察庁科学警察研究所の鑑定によると、「人血と認めるが血液型不明」というほどの微量の血痕しか付いていなかった。また、現場で発見された凶器の、くり小刀は袴田のものと断定する根拠はなく、ほかに登山ナイフも発見されているし、応接間のテーブルにはアイスクリームのふたが8つあった。これは複数の客がいたことを想定させ、登山ナイフも凶器と想定すれば、2人以上の犯人がいたとも考えられた。奪われた現金の行方は不明。自白での殺害方法と被害者の死亡状況が合致せず、出入りした裏木戸には鍵がかけられていた。

袴田は4人殺害後、この裏木戸の下部の留め金と中央部の閂(かんぬき)をはずして上部の留め金はかけたまま扉の下方を押し開いていったん脱出し、工場にあった混合油入りのポリ容器をもって被害者宅に戻り放火したことになっている。県警は裏木戸の実物大模型を作って実験し、上部の留め金をかけたままでも人の出入りは可能と結論付けていた。弁護団は東洋大学工学部建築学科の教授に鑑定を依頼。教授が実物大の木戸の模型を作って実験した結果は、上部の留め金をかけたままでは最低部で最大32センチしか開かず、人の出入りは不可能であると結論付けた。その後、東海大学工学部教授に鑑定を依頼した。教授は静岡県警の実験写真をコンピューターで解析した結果、袴田がもぐり抜ける状態を再現した裏木戸の開き方では上部の留め金がはずれてしまうことが分かった。

11月15日、静岡地裁で第1回公判開始。袴田は自白は強要させられたもので、警察・検察官によって作られたストーリーであると主張。「取り調べの苦痛から逃れるため、署名指印した」と述べた。

1967年(昭和42年)8月31日、静岡地裁での1審公判中、大きなミソの貯蔵タンクの中から血に染まったブリーフ、ステテコ、ズボン、白半袖シャツ、スポーツシャツの5点の衣類が入った南京袋が出てきた。ズボンのポケットにはマッチと絆創膏が入っていた。終始、尾行されていた袴田にはこれらを隠すのは不可能であった。

9月12日、警察が袴田の実家のタンスから鉄紺色のズボンの共布を「発見」して押収。押収した警官はまっさらな共布を見て即座に8月31日に「発見」されたミソ漬けになったズボンの共布と判ったという。

9月13日、検察が冒頭陳述の「犯行時の着衣を従来のパジャマ」から8月31日に「発見」された「5点の衣類」に変更。

1968年(昭和43年)9月11日、静岡地裁は袴田巌に死刑を言い渡した。袴田は無罪を主張し、ただちに控訴。判決では「5点の衣類」を着て殺害し、その後パジャマに着替えて再度侵入して放火したと認定される。

1969年(昭和44年)5月29日、東京高裁で第1回控訴審開始。

1971年(昭和46年)11月20日、東京高裁での控訴審の法廷で、犯人が着衣していたズボンの装着実験が行われたが、袴田には小さくてはけなかった。検察側はミソ漬けになっていたので縮んだ、とか袴田が太ったのだと主張した。装着実験は控訴審で計3回実施されたが、いずれもズボンがはけなかった。

1976年(昭和51年)5月18日、東京高裁で控訴を棄却。

翌19日、上告。

1980年(昭和55年)9月22日、最高裁で第1回公判開始。

11月19日、最高裁で上告棄却で死刑確定。

同日、社会評論家の高杉晋吾(現・退会)が代表となり、ボクシング評論家の郡司信夫、寺山修司、日本ボクシング協会会長の金平正紀、元東洋ジュニアミドル級チャンピオンの川上林成、『月刊ボクシングマガジン』(ベースボール・マガジン社)編集部の松永喜久を世話人に、「無実のプロボクサー袴田巌を救う会」を設置。のちに「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会」と名称を変更。

1981年(昭和56年)4月20日、弁護側が静岡地裁に再審請求。

11月13日、日本弁護士連合会が人権擁護委員会内に「袴田事件委員会」を設置して再審支援を開始。

1991年(平成3年)3月11日、日本プロボクシング協会の会長の原田政彦(ファイティング原田)が、後楽園ホールのリング上から再審開始を訴え、正式に袴田を支援することを表明。

1993年(平成5年)12月15日、弁護側が静岡地裁に「最終意見書」を提出。

1994年(平成6年)8月8日、静岡地裁が再審請求を棄却。

8月12日、弁護側が東京高裁に即時抗告。

1998年(平成10年)2月23日、東京高裁は「5点の衣類」についてDNA鑑定を決定。警察庁科学警察研究所と岡山大学が鑑定を委嘱される。

2000年(平成12年)7月13日、警察庁科学警察研究所と岡山大学が「5点の衣類」のDNA鑑定について<鑑定不能>と報告。

2001年(平成13年)8月3日、弁護側が東京高裁に「最終意見書」を提出。

2004年(平成16年)2月、袴田の姉の秀子が遺産分割協議のため静岡家裁浜松支部に袴田の成年後見人選任の審判を申し立て。

3月、静岡家裁浜松支部が袴田の成年後見人選任の審判を申し立ての件を東京家裁に移送。

8月26日、東京高裁が即時抗告を棄却。

9月1日、弁護側が最高裁に特別抗告。

2006年(平成18年)5月、東日本ボクシング協会が「袴田巌再審支援委員会」を設立。協会長の輪島功一が委員長、新田渉世協会理事が実行委員長になる。委員会は後楽園ホールなどのボクシングの試合会場で袴田の親族、弁護士、救援会関係者らとともにリング上から再審開始を訴えているほか、東京拘置所に対し、面会要請やボクシング雑誌の差し入れなどを行っている。現在、袴田は東京拘置所に収監されているが、死刑確定後は精神に異常をきたし、拘禁反応から肉親や弁護団との面会も困難になっている。

11月20日、元ボクシング世界チャンピオンの輪島功一、渡嘉敷勝男、レパード玉熊、飯田覚士、戸高秀樹の5人が最高裁へ結集し、袴田の再審開始を訴え、全国から寄せられた約500通の要請書を提出した。

2007年(平成19年)3月2日、袴田の支援団体は静岡地裁の判決文を起案したとされる元裁判官が「無罪の心証を持っていた」と再審支援に協力を申し出ていることを公表した。裁判官には判決に至る議論の過程や内容を明かしてはならない「評議の秘密」が裁判所法で規定されている。「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」によると、元裁判官と名乗り出たのは熊本典道。事件の第2回公判から陪席裁判官を務め、1968年(昭和43年)の地裁判決で、3人の合議で主任裁判官として判決文を起案したという。翌1969年(昭和44年)4月に退官した後、弁護士活動を続けていた。

裁判所法75条(評議の秘密)・・・合議体でする裁判の評議は、これを公行しない。但し、司法修習生の傍聴を許すことができる。2 評議は、裁判長が、これを開き、且つこれを整理する。その評議の経過並びに各裁判官の意見及びその多少の数については、この法律に特別の定がない限り、秘密を守らなければならない(罰則規定はない)。

3月9日、元裁判官の熊本典道が東京都内で開かれた支援団体の集会に参加し、「自分は無罪の心証だったが、裁判長ともう1人の裁判官を説得できず、2対1の多数決で死刑判決を出してしまった」と明かした。熊本が、「評議の内容」を公の場で話したのは初めてで、再審支援に協力する意向も示した。裁判官が、判決に至るまでの議論の内容など評議の中身を明かすのは裁判所法に違反するが、熊本は「高裁や最高裁が間違いに気づいてくれることを願っていたが、かなわなかった。人の命を救うための緊急避難的な措置」と話した。

5月8日、プロボクシング元世界チャンピオンの輪島功一、大橋秀行両氏ら元ボクサー12人と支援者らが最高裁を訪れ、185人分の要請書を提出した。弁護側も同日、再審請求を退けた東京高裁決定に対する特別抗告の理由補充書を出し、高裁決定は袴田の自白を虚偽と判断した弁護側要請の鑑定結果を無視していると主張した。

6月25日、1審を担当した元裁判官の熊本典道が再審開始を求める上申書を支援者を通じて最高裁に提出した。熊本は記者会見し、「一人の青年が一生を棒に振ったことになる。(袴田死刑囚に会えれば)涙を流して頭を下げ、黙っていることしかできない」と話した。

12月17日、再審弁護団は最高裁に特別抗告の理由補充書を提出した。弁護団は「最終書面」としており、翌2008年(平成20年)前半の決定を期待している。補充書は3通目。確定判決が「犯行時に着用」と認定したズボンの鑑定から、太もも部分が小さすぎて袴田は履けず、犯人ではないと主張している。再審請求は静岡地裁と東京高裁に退けられ、最高裁に特別抗告している。

2008年(平成20年)3月24日、最高裁第2小法廷(今井功裁判長)は弁護側の特別抗告を棄却する決定をした。1981年(昭和56年)の請求から約27年を経て、再審を開かないことが確定した。最高裁は「無罪を言い渡すべき明らかな証拠はなく、袴田死刑囚を犯人とした確定判決の認定に合理的な疑いが生じる余地はない」とした。裁判官4人全員一致の意見だった。

4月25日、弁護団は第2次再審請求を静岡地裁に申し立てた。袴田は長期間の拘置による拘禁症状で心神喪失状態だとして、姉の秀子(当時75歳)が再審請求申立人となった。秀子は記者会見し、「第1次再審請求は結論まで27年かかったが、今度は早く決着を付けてほしい」と話した。西嶋勝彦弁護団長は「無罪判決が出るまで戦い続けたい」と決意を語った。

6月27日、東京家裁(上原裕之裁判長)は袴田の姉の秀子が袴田の成年後見人を選任するよう求めた申し立てを却下した。弁護団によると、家裁は医師の鑑定に基づき、袴田が長期間の拘置による拘禁反応で精神障害状態に陥っていると認定したが、「日常的に必要な買い物はできる状態にある」として、後見人が必要ではないとした。袴田の精神障害を裁判所が認めたのは初めて。

7月10日、袴田の姉の秀子が袴田の成年後見人を選任するよう求めた申し立てが却下されたことを受け、弁護団は東京高裁に即時抗告した。

12月19日、東京高裁(園部秀穂裁判長)は袴田の姉の秀子が袴田の成年後見人を選任するよう求めた申し立てを却下した1審・東京家裁決定を破棄し、審理を差し戻した。

2009年(平成21年)3月2日、東京家裁は袴田の姉の秀子を保佐人とする決定を下した。保佐人は再審請求の権利を持つことから、第2次再審請求の障害となっていた法的問題が解消される見通しとなり、弁護団は「実体審理に入っていけるので喜ばしい」と評価している。弁護団は、袴田が常時判断能力を欠くとして、成年後見制度における「後見開始」を申し立てていたが、同家裁は判断能力の欠落にまでは至らず、著しく不十分な状態にあるとして「保佐開始」の決定に止めた形だ。2004年(平成16年)の申し立て開始後、高裁差し戻しを経て、5年目の決定となった。

12月14日、第2次再審請求をめぐる静岡地裁、静岡地検、弁護団による3者協議が静岡地裁で開かれた。弁護団は事件から1年2ヶ月後、みそ樽から見つかった袴田の犯行時の着衣とされる「5点」について、同種の衣類をみそ漬けにした実験結果を「新証拠」として提出。「衣類は捜査機関によるねつ造の可能性がある」と主張し再審を求めた。3者協議は2回目。弁護団の実験は2008年(平成20年)6月下旬から1年2ヶ月かけて実施。白い半袖シャツやズボンなどサイズや素材が類似した衣類5点に人の血を付着させて麻袋に入れ、当時と同じ赤みそに漬け、発見当時の衣類の様子と比べた。弁護団の説明によると、発見当時の衣類の写真では血液の赤い色が認識できたが、実験結果では血液だと分からないほど濃い焦げ茶色に変色したという。弁護団は「1年余りもみそに漬かったことが明らかと認定した最高裁の決定を覆す結果。短期間のうちに第三者が手を加えたと推定できる」と述べた。

2010年(平成22年)4月22日、袴田巌死刑囚救援議員連盟 設立総会。

2011年(平成23年)1月27日、日弁連が弁護団の人権救済申し立てに基づき、袴田に強い精神疾患がみられ心神喪失状態だとして刑の執行を停止し、適切な治療を受けさせるよう法務省に勧告した。日弁連は再審請求や後見開始の審判に伴う精神鑑定などから、深刻な妄想性障害と判断している。

3月10日、英ギネスワールドレコーズの日本法人は独自調査に基づき、袴田の75歳の誕生日であるこの日付けで「世界で最も長く収監されている死刑囚」としてギネス世界記録であることを認めた。認定の対象は、1審・静岡地裁で死刑判決を受けた1968年(昭和43年)9月11日から2010年(平成22年)1月1日の「42年間」。死刑確定後の拘束期間は名張毒ぶどう酒事件の元死刑囚の奥西勝(2015年[平成27年]10月4日、病気のため死亡)らの方が長いが、1審判決以降「死刑囚としての拘束」が続いているとして、袴田が最長と判断した。

11月16日、第2次再審請求審で静岡地検が袴田の供述を録音したテープが存在すると静岡地裁に回答したことが分かった。袴田の弁護団が明らかにした。地検はテープの開示を拒否している。弁護団の小川秀世弁護士は「自白の任意性が争われている中での重要な証拠。裁判所には開示の勧告を強く求めたい」としている。

11月30日、第2次再審請求で静岡地検がこれまで開示されていない袴田の供述調書が34通存在することを認める意見書を静岡地裁に提出した。このうち10通は11月21日の地裁、地検、弁護団による3者協議で、同地検が存在を明らかにしていた。弁護団によると、34通のうち、袴田が犯行を否認した調書が14通、犯行を認めた自白調書が20通あるとみられる。これまでの裁判で存在が明らかになっている約45通の自白調書と合わせ、約80通の調書が存在することになる。弁護団の小川秀世事務局長は「自白調書だけで60通以上あり、拷問的な取り調べで自白の供述をさせられた可能性がある」と指摘している。

12月12日、第2次再審請求で静岡地検は袴田の取り調べ録音テープや供述調書、現場検証写真のネガなど計176点の証拠を開示した。裁判所の勧告に基づく開示は袴田事件で初めて。

2012年(平成24年)1月23日、第2次再審請求の3者協議が静岡地裁で開かれ、証拠衣類の血痕が袴田巌のものかどうかを調べる新たなDNA型鑑定を行う方針が決定した。

4月13日、第2次再審請求で袴田のDNA型と犯行時の着衣とされたシャツに付着する血痕のDNA型が一致するかどうか調べていた弁護側推薦の鑑定人は「完全に一致するDNAは認められなかった」との鑑定結果を出した。

4月16日、第2次再審請求で袴田のDNA型と犯行時の着衣とされたシャツに付着する血痕のDNA型が一致するかどうか調べていた検察側推薦の鑑定人は「完全に一致するDNAは認められなかった」との鑑定結果を出した。ただ、今回の検察側の鑑定では、5点の衣類のうち「緑色パンツ」から検出されたDNA型については「袴田死刑囚に由来するものとして排除できない」とした。

4月25日、袴田の姉の秀子は東京家裁に成年後見制度に基づく後見開始の申し立てを行った。2009年(平成21年)に袴田の保佐人に選任された秀子は「認知症の病状が年々悪化している」と説明。弁護団は「後見開始で心神喪失状態と認められれば、死刑執行の停止につながる」としている。

6月28日、2次再審請求中の袴田に対して東京家裁が精神鑑定を実施することがわかった。成年後見制度に基づき、姉の秀子が申請している成年後見人就任の可否を判断する。秀子は既に袴田の保佐人を務めているが、財産管理などでより権限の強い成年後見人になることを求めている。岡島弁護士は「後見人は、本人が心神喪失状態にないと就任できない。認められれば、刑事訴訟法に基づき、死刑執行が停止される可能性がある」と話した。

11月2日、第2次再審請求審で静岡地裁(村山浩昭裁判長)は袴田巌が犯行時に着ていたとされる5点の衣類のDNA型鑑定をした弁護側推薦の鑑定人の証人尋問を行った。弁護団によると、鑑定人は弁護側の質問に「試料からいろいろな型を出したが、袴田死刑囚に由来するものはなかった」と述べ、「犯行時の着衣なのか疑問」などと証言した。

2013年(平成25年)3月29日、静岡地検と第2次再審請求弁護団の双方がDNA型鑑定に関する意見書を静岡地裁に提出した。袴田のものとされた証拠衣類の血痕が判決と矛盾し本人のものとは違うなどとしたDNA型鑑定結果について、弁護側は「再審を開始すべき新規明白な証拠」と主張。検察側は衣類が古いことなどを理由に「信用性が低い」と証拠能力はないとした。

5月21日、東京家裁(小西洋家事審判官)は袴田の姉・秀子による成年後見の開始申し立てについて却下した。小西審判官は「必要な鑑定ができず、後見開始の審判ができない」とした。弁護団が即時抗告。弁護団によると、同死刑囚は2011年時点で認知症の疑いがあったという。 

5月24日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)で事件発生から1年2ヶ月後にみそタンクで見つかり、犯行着衣とされた「5点の衣類」に関する変色実験を実施した支援者への証人尋問が非公開で行われた。支援者は「5点の衣類と同じものを短時間で作り出せる」と証言した。弁護側証人として出廷したのは「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹事務局長で、過去3回、同種の衣類をみそに漬け、衣類や付着した血液の変色具合を実験。「5点の衣類は1年以上もみそ漬けになってはいない」と結論付け、袴田の無実を裏付ける新証拠の一つとしている。弁護団は尋問後の会見で「犯行着衣に重大な疑問があると突き付けることができた」とし、捜査機関による証拠品捏造の可能性をあらためて主張した。弁護団によると、検察側は生地やみその成分の違いなど実験方法について主に尋ねたという。これまでに地裁に提出した意見書で、検察側は「いずれの実験も、5点の衣類が漬かっていた状態を正確に再現したものではない」と反論している。

7月10日、東京高裁は袴田の姉・秀子が静岡地裁に第2次再審請求中の袴田の後見人就任を求めた申し立ての即時抗告で「精神鑑定ができていない」との理由を示し、申し立てを棄却した。秀子は決定を不服として最高裁へ特別抗告した。

7月26日、第2次再審請求で静岡地検は当時の関係者の供述調書など130通を新たに開示した。弁護団は袴田の否認調書を裏付ける可能性もあるとみており、新証拠となるかが焦点となる。開示されたのは一家4人が殺害されたみそ製造会社専務宅の放火時、駆け付けた消防団員ら20人の供述調書と捜査報告書。

9月9日、この供述調書・捜査報告書130通の中に事件発生時に「袴田が従業員寮で寝ていた」という供述を裏付ける可能性がある書面が含まれていたことが弁護団などへの取材で分かった。弁護団や支援者によると、7月に開示された証拠を弁護団が分析したところ、袴田の同僚が寮から専務宅の消火活動に向かう際、袴田が自分の後を付いてきた、という趣旨の供述をしている事件当日付の書面があったという。弁護団はこの書面を「検察が意図的に隠していたのではないか」としている。

9月30日、最高裁第1小法廷(横田尤孝裁判長)は袴田の姉・秀子が袴田の成年後見人への就任を求めた申し立ての特別抗告で棄却する決定を出した。袴田の弁護団が明らかにした。裁判官5人が全員一致で「単なる法令違反の主張で特別抗告の事由に該当しない」と判断した。

12月2日、第2次再審請求で弁護団と静岡地検が最終意見書を静岡地裁に提出した。

2014年(平成26年)2月25日、袴田の支援者が静岡地裁に再審を求める請願書を出した。1審で死刑判決に関与した熊本典道元判事も立ち会い、無罪の心証を持っていたとする上申書を提出した。

3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は第2次再審請求審で再審開始を認める決定をした。夕方、袴田巌(当時78歳)が48年ぶりに東京拘置所から釈放された。死刑囚に対する拘置停止決定と釈放は初めて。同日、静岡地検が拘置停止を取り消すよう、東京高裁に通常抗告した。

3月28日、東京高裁(三好幹夫裁判長)が拘置の停止を認めた静岡地裁の判断を支持する決定をした。

袴田は都内の病院で検査を受けた。その結果、拘禁症と認知症の疑いがあるという診断により都内の病院に入院にすることになった。

同日午後6時過ぎ、この袴田事件が発生した当時、祖父母の家にいたため、唯一助かった長女の昌子(67歳/事件当時19歳)が自宅で死亡しているのが発見された。

3月31日、静岡地検は袴田に対する静岡地裁の再審開始を認める決定を不服として裁判をやり直さないよう求めて即時抗告した。

4月6日、世界ボクシング評議会(WBC)は20代の当時、日本フェザー級6位のプロボクサーだったに袴田に「名誉王者」と認定し、ベルトを授与した。WBCは歴代王者が再審開始を求める署名活動に協力するなど袴田の支援を続けてきた。WBCのスライマン会長は「正義が認められ、袴田さんが解放されたことをうれしく思う」と語った。

4月10日、弁護団は東京高裁を訪れ、静岡地検の即時抗告を速やかに棄却するよう求める意見書を提出した。

7月17日、第2次再審請求の即時抗告審で静岡地検が静岡地裁の再審開始に当たり、採用した弁護側のDNA型鑑定には科学的根拠がないなどと主張する即時抗告理由の補充書を東京高裁に提出した。

8月5日、弁護団の会見で犯人の犯行時の着衣とされていた「5点の衣類」の発見直後のカラー写真のネガについて、検察側がこれまで「ない」としてきた主張を撤回し、今後開示することが分かった。

9月10日、第2次再審請求の即時抗告審で東京高検が「弁護側鑑定は信用できない」とする書面を提出した。弁護側の鑑定人は独自の手法で血液のDNAを抽出していたが、検察側が依頼した専門機関が同様の方法で数十年前のサンプルを使って試したところ抽出できなかった。

12月20日、東京都内で差別や抑圧に抗して人権擁護などに尽力した個人や団体に贈られる「多田謡子反権力人権賞」の第26回発表会があり、死刑判決確定後に再審開始が決定し釈放された袴田巌らが受賞した。

受賞したのは他に、鹿児島県の川内原発の再稼働反対運動などを続けてきた「川内原発建設反対連絡協議会」と、2009年(平成21年)に起きた京都府の朝鮮学校への街宣活動をめぐり、一連の裁判を支援してきた「在特会らによる朝鮮学校に対する襲撃事件裁判を支援する会」(こるむ)の2団体。

2016年(平成28年)10月26日、第2次再審請求の即時抗告審で検察側が「長期間みそ漬けされた衣服に付いた血痕のDNA型鑑定は困難」とする意見書を東京高裁に提出したことが弁護団への取材で分かった。意見書によると、東京高検の依頼を受けた中西宏明・順天堂大医学部准教授が、みそに漬け込んだTシャツに付着した血痕からDNAを抽出する実験を実施。1年2ヶ月間みそに漬かった血痕のDNAは酵素によって分解が進み、抽出量は実験前の約1%になることが判明したという。再審請求審で弁護側は、異物が混じった可能性のある試料から血液中のDNAを抽出できるとされる「選択的抽出方法」で、みそ工場のタンクから発見され犯行時の着衣とされた「5点の衣類」を鑑定。着衣の血痕と袴田のDNA型が一致しないとの結果を示し、静岡地裁が再審開始を決定する決め手になった。即時抗告審で東京高裁はこの鑑定の再現実験を行うことを決め、検察側が推薦した大学教授が実験を進めている。弁護団事務局長の小川秀世弁護士は「発見された衣類自体が警察の捏造であり、今回の実験には意味がない」と話した。

2017年(平成29年)6月6日、第2次再審請求の即時抗告審で、地裁決定の決め手となったDNA型鑑定の手法を検証した大阪医科大の鈴木広一教授が「鑑定手法は再現できない」とする最終報告書を東京高裁(大島隆明裁判長)に提出したことが関係者への取材で分かった。

2018年(平成30年)6月11日、第2次再審請求で東京高裁は再審を認めない決定を出した。大島隆明裁判長は、4年前に再審開始を認めた静岡地裁決定の最大の根拠となったDNA型鑑定について「手法に疑問があり、結果も信用できない」と判断。「証拠の評価を誤った」として地裁決定を取り消した。静岡地裁は決定で袴田の死刑の執行停止と釈放も認めていた。東京高裁はこの点について「年齢や健康状態などに照らすと再審請求棄却の確定前に取り消すのは相当とは言い難い」と述べ、取り消さなかった。これにより、袴田の異例の釈放は当面、維持される見通し。

6月18日、再審開始を取り消した東京高裁の決定を不服として最高裁に特別抗告した。

2020年(令和2年)11月9日、第2次再審請求で弁護団は9通目となる理由補充書を提出した。補充書はみそタンクから見つかった犯行時の着衣とされる「5点の衣類」について。補充書では「(高裁の)判断は非科学的、非論理的、非常識的といえ、明白に誤っている」と主張。東京高裁が指摘する光や圧力、気温といった条件によらず血痕の黒色化が進むことや新しいみそを加えても色が薄まらないことを有識者の意見や弁護団の実験報告として訴えた。

12月22日、最高裁が東京高裁に審理を差し戻す決定をした。

2021年(令和3年)8月30日、東京高裁で第2次再審請求審の審理があった。弁護側が証拠の捏造を疑う衣類の血痕について検察側が提出した意見書に対し、弁護側がさらに説明を求めた。袴田の犯行着衣とされた衣類は逮捕から1年後にみそタンクから見つかり、血痕の赤みが残っていた。しかし、弁護側の実験では血痕はみそに漬けて1ヶ月で黒褐色に変わり、弁護側は発見直前に別人が投入した捏造証拠だと主張した。最高裁は昨2020年、血痕が変色する化学反応に絞って審理のやり直しを命じた。検察側は7月末に意見書を出した際、食品衛生学などの専門家2人が「タンクのみそが淡い色だったため、化学反応はあまり進行しなかったと考えられる」などとの見解を示した報告書を提出。みそによっては長期間漬けても赤みが残りうると反論した。弁護側はこの日、検察側が以前に行った実験でも血痕は1ヶ月で黒くなった点との矛盾を指摘し、さらなる説明を求めた。

11月1日、事件から1年2ヶ月後に現場のみそタンクから見つかった犯行時の着衣とされる5点の衣類の血痕について、「みその塩分などで血液中の成分が変化し、赤みが残ることはない」とする鑑定書を弁護団は東京高裁に提出したと明らかにした。弁護団は「再審開始を確実にする決定的な証拠だ」としている。確定判決で有力な有罪の証拠となった5点の衣類は、袴田が事件直後に麻袋に入れてみそタンク内に隠したとされ、赤みの残る血痕があった。弁護団によると、弱酸性で塩分濃度約10%となるみそ漬けの環境下では、血液中の赤血球に含まれるヘモグロビンが漏れ出して分解などの化学反応が起き、数日から数週間で赤みが消えることが新たに分かったという。弁護団は「衣類が1年以上みそ漬けされていたのであれば、赤みは消えるはずだ」と指摘。「発見直前に袴田さん以外の何者かが入れたことは明らかだ」とし、捏造された証拠だと改めて主張した。

2022年(令和4年)11月9日、弁護団は焦点になっているみそ漬けの衣類に付着した血痕の変色について、「検察側が実施した実験でも赤みが確認できなかった」と明らかにした。事件では、袴田の逮捕から約1年後にみそタンクから赤みのある血痕のついた衣類が見つかり、「犯行時の衣類」とされた。弁護側は「みそに長時間漬けた場合、赤みは残らない」とし、証拠は捏造だと主張。一方、検察側は「赤みが残る可能性はある」とし、約1年2ヶ月にわたり、実際に血痕の色の変化を見る実験を行っていた。この結果を受け、9日、袴田の支援者は東京高検に対し再審開始決定への即時抗告を取り下げるよう求める要請書を提出した。

2023年(令和5年)3月13日、東京高裁(大善文男裁判長)は検察側の即時抗告を棄却し、再審開始を認める決定を出した。決定では、5点の衣類が見つかった経緯についても言及。「袴田以外の第三者がタンクに隠匿して、みそ漬けにした可能性が否定できず、この第三者とは、事実上、捜査機関の者による可能性が高い」と指摘。捜査機関による証拠のねつ造にまで踏み込んだ。この決定について東京高検は最高裁に特別抗告することを断念した。

10月27日、静岡地裁で再審の初公判が開かれた。静岡地裁は事前に袴田(当時87歳)が心神喪失の状態にあるとして出廷免除を決めたため、代わりに姉・秀子(当時90歳)が被告側の席に座った。裁判長から起訴内容の認否を問われ、秀子は「巌に代わって無実を主張します」と述べた。

11月10日、静岡地裁で再審第2回公判が開かれた。検察側の主張に対する弁護側の反論が行われ、採用された証拠として、法廷に凶器とされてきた「くり小刀」の実物が出された。弁護側は殺害された4人の傷について合わせて40ヶ所の傷には複数の深さの傷があり、そのうち、1人の左胸を刺された傷は「くり小刀」では、長さが足りないことや別の1人はろっ骨が折れているほどの傷があるものの、傷の長さや刺した時の圧力が「くり小刀」では足りないとした。その上で、専門家による鑑定結果では、想定される刃渡りが17.8センチ以上の刃物による傷だという結果が出ていることから、より長い刃物が凶器として使われたと反論した。放火の際に使われたとされる遺体の周辺から検出された油に関しては、検察はみそ工場にあった油のうち、一部を犯人が持ち出し、線路向かいの現場に運んだとしている。しかし、弁護側はポリタンクにわざわざ移して、線路を渡って工場から犯行現場まで運んだのであれば、油を移す際に油の缶のふたや底に血痕がついているはずだと主張した。また、弁護側は検察側の主張に疑惑を向けた。検察は事件発生から20日以上経った後、現場の「くぐり戸」から血液が検出されていたと主張した。弁護側はこの主張の根拠となる血液の存在を発光で知らせる「ルミノール反応」自体に不自然な点が残るとし、その信ぴょう性について、争う意向を示した。さらに、事件当日の夜、袴田が履いていたと思われるゴム草履も法廷に出された。ゴム草履には血も油も検出されていなかったことを主張した。

11月20日、静岡地裁で再審第3回公判が開かれた。事件から1年2ヶ月後に現場のみそタンクから発見された血痕のついた衣類=「5点の衣類」について、検察側は一貫して、「5点の衣類は袴田の犯行着衣であり、事件後にみそタンクに隠されたもの」と主張した。

12月11日、静岡地裁で再審第4回公判が開かれた。弁護側の要求で犯行着衣の証拠品とされた「5点の衣類」の一部が法廷で公開された。「5点の衣類は袴田のものでない」と証明する目的で、犯行着衣のひとつとされる鉄紺色のズボンとステテコ、さらに5点の衣類を入れていた麻袋を示した。

12月20日、静岡地裁で再審第5回公判が開かれた。

検察は袴田が犯人であることを裏付ける4項目の根拠を挙げた。
(1)袴田は被害者から借金があり、金の余裕がなく金品を目的とした犯行に及ぶ動機があったこと
(2)事件の凶器とされる「くり小刀」と同じものを販売していた刃物店の店員の「袴田さんを見た」という証言があること
(3)袴田の左手中指には鋭利なもので切ったとみられる傷があり、犯行時に抵抗された際のけがであること
(4)袴田のパジャマから、犯人が放火する際に使ったとされる混合油と複数の血液型の血痕が検出されていて、犯行後に着替えたものであること。また、付着する血痕からは、袴田の血液型(B型)以外も検出されていて、鑑定結果にも示されていること、などを主張した。

検察は、これまでに「犯人がみそ工場関係者であり、袴田さんは犯人の行動をとることができたこと」「5点の衣類が袴田の犯行着衣であること」を主張している。この2つの立証だけで、十分に犯人性を裏付けているが、これ以外の根拠が4項目だとした。

一方、弁護団は、検察が根拠とした4項目の反論に加え、袴田のアリバイについて証言があると主張した。

弁護団が挙げたのは合わせて5項目で、それぞれ反論を始めました。
(1)袴田の左手中指の傷は、消火活動中に負ったものであること
(2)パジャマについての検察側の鑑定結果は、信用できないこと
(3)刃物店の店員の証言は、捜査機関により歪められ悪用されたものであること
(4)売上げ金の所在を袴田さんが知っているのは、犯人性を裏付けるとは言えないこと
(5)袴田に「アリバイがある」と証言する人がいること

この反論の中では、袴田のパジャマが証拠として法廷で公開された。袴田の姉・ひで子も間近でパジャマを確認した。

検察が主張する血痕については、肉眼で確認できないほどの微量で、血液型を判定する鑑定はできないはずだとして、検察の鑑定結果を「信用できない」とした。

2024年(令和6年)1月16日、静岡地裁で再審第6回公判が開かれた。弁護側は犯行着衣とされる「5点の衣類」の損傷の位置関係が不自然だと主張。「衣類は袴田の傷に合わせて捏造された」と指摘した。

翌17日、静岡地裁再審第7回公判があり、前日の第6回に引き続き弁護団が反証した。事件から1年2ヶ月後に見つかり、犯行着衣とされた「5点の衣類」の色に関する実験や鑑定に基づき「衣類は捏造だと示している。袴田は無罪」と強調。

袴田の取り調べ状況を踏まえ、「捜査機関が犯人に仕立てた」とも主張。取り調べの録音テープを一部再生した。犯人と決め込む警察官や検事が自白や謝罪を迫り、袴田が「関係ないものはない」と否認する音声が法廷に流れた。

「被害者4人は縄などで縛られ、身動きが取れない状態で刺された」とする新たな論点についても立証。

5点の衣類は現場近くのみそタンクで見つかり、血痕が付着していた。弁護団は、発見当時に警察官は血痕の色を「赤紫色」と記しているほか、第2次再審請求審で開示されたカラー写真を見ると赤みが鮮明に残っていると説明した。弁護団と検察側の合わせて九つの実験は、1年以上みそ漬けにすれば衣類のみその色は濃くなり、血痕の赤みは消えることを指し示すと指摘。専門家の鑑定で血痕の赤みが消失するメカニズムも明らかになったとした。

2月14日、静岡地裁再審第8回公判があり、午前中、弁護側が袴田が通ったとされる裏木戸や事件後に郵便局で見つかった焼けた紙幣について主張を展開した。弁護側はこれらの証拠が袴田の自白に基づいて作られたねつ造証拠だとし、現場の図面などを示しながら、検察側の主張に真っ向から反証。

午後から始まった検察の立証で検察側は、弁護側が複数犯の犯行だとした点について、あくまで袴田ひとりによる犯行と主張。弁護側が「遺体は縄で縛られていた」と主張する点については、「焼けた損傷部分を『縄で縛られた』と勘違いしているだけだ」と縄の存在自体を否定した。また、検察側は凶器とされるくり小刀について、取り調べの際、袴田は購入先について「富士か?」と問われ、「沼津」と反する供述をし、値段や対応した店員の服装などについても話し、実際にその店で確認したところ、値段が一致したほか、同様の店員がいたことなどが確認されているとし、袴田が購入したことを裏付ける供述だとした。さらに、「被告人の自白から被告人の無実が証明される」との弁護側の主張は誤っているとし、「真犯人が自白後も、虚実入り混じった供述を続けることは、決して珍しいことではない」と主張、弁護側から「根拠がない」と異議が出ると「経験則から」と再反論する一幕もあった。

2月15日、静岡地裁再審第9回公判が開かれ、再審開始の決め手となった「5点の衣類」に関する本格的な審理が始まった。検察側は「衣類が犯行着衣」と主張したのに対し、弁護側は「(捜査機関の)捏造を示している」と指摘した。

3月25日、静岡地裁再審第10回公判があり、検察側が請求した証人の尋問が行われた。犯行着衣とされる「5点の衣類」に付着した血痕の色調変化を巡り、再審開始の根拠となった弁護団の鑑定について、検察側証人の池田典昭九州大名誉教授は「血痕が黒くなるのは正しいと思う。法医学的に結論について特段問題があるとは思われない」と述べた。一方で「実験結果から(その結論を)導くのは難しいのではないか。黒色化を阻害する要因が考察されていない」と主張した。

池田は尋問で、衣類の生地が1年以上みそに漬かっていたにしては「白すぎる」と感じたことを明らかにした。みそ漬けの血痕を放置すれば黒色化するとして「ほぼ全ての法医学者は『赤みは残らない』と思うだろう。常識中の常識だ」とも断言した。ただ、衣類はみそタンク内という「特殊な環境下」で見つかり、黒色化の阻害要因として乾燥の程度やみそタンク内の酸素濃度などが考えられると説明。弁護団の清水恵子旭川医科大教授らの鑑定については、こうした検討が不十分との見解を示した。

3月26日、静岡地裁再審第11回公判が開かれた。午前中は前日に続き、検察側の証人尋問が行なわれ、検察側の共同鑑定書をまとめた久留米大学の神田芳郎教授は、5点の衣類の血痕が黒くなることを阻害し、赤みが残る要因として考えられる酸素濃度の低下について、みその酵母による影響だけでなく、麹によって酸素消費が早くなる可能性があることを証言として加えた。午後は、弁護団の請求した証人に対する質問が行われ、法医学者で旭川医科大学の清水惠子教授は、検察側の共同鑑定書に反論する形で、酸素濃度の低下はほとんど影響を与えないとして、酸化には十分な酸素量があり、5点の衣類が入れられた麻袋の繊維にも十分な酸素が存在すると証言した。また、5点の衣類に染みた血痕は十分な酸素に触れてからみそタンクに入れられ、空気中の酸素ですでに黒ずんだ後にみその原材料が入れられたのではとした。その上で、みその原材料にも酸素が含まれていることから、最初から完成したみそが5点の衣類にのせられたかのような説明は不自然、不合理と強調した。

3月27日、静岡地裁再審第12回公判が開かれた。26日に続き、物理化学が専門の石森浩一郎北海道大学教授に対する証人尋問が行われた。最大の争点となっている事件発生から1年2ヶ月後に現場のみそタンクから発見され、犯行着衣とされた「5点の衣類」の血痕に赤みが残るか、化学反応で黒く変化するのかという点をめぐり、尋問が続いた。検察が行ったみそ漬け実験について、旭川医科大学の清水恵子教授が26日の尋問で「脱酸素剤を使って酸素濃度を0.1%にするなど、赤みが残りやすい条件の実験だった」と指摘したことについて、検察が反論すると、石森教授は「みそは固体で酸素の拡散は遅く、(酸素濃度が)0.1%以下になることはない」と述べた。また、石森教授は5点の衣類が見つかったみそタンクの状況について、「(現場)写真を見た限り、(5点の衣類が)8トンもの湿ったみその下にあれば、1年もあれば、水分は到達する」とし、その水分により酸化が進むことで血痕が黒くなるとの見解を示した。

4月17日、静岡地裁で再審第13回公判が開かれた。犯行着衣とされる「5点の衣類」のうち、白色半袖シャツに付着した血痕と袴田のDNA型は「一致しない」と結論づけた鑑定について、弁護団は高い信頼性があるとして「無罪を証明すると同時に、衣類が捏造されたことを強く示唆する」と主張。一方、検察側は「鑑定結果は信用できず、犯行着衣ではないことを示す証拠とはなり得ない」と対立した。

DNA型鑑定を手がけたのは、弁護団が推薦した本田克也筑波大教授(当時、現名誉教授)。弁護団は冒頭陳述で、本田鑑定について「多くの事実や証拠との総合評価により、衣類が捏造証拠であることを動揺の余地なく裏づけている」と指摘。その上で、信頼性が担保された機器や検査キットをマニュアルに従って使用したことなどを強調した。再審請求審で検察側がとりわけ批判した血液由来のDNAを抽出するための「細胞選択的抽出法」については、「裁判所からの鑑定事項にできる限り誠実に応えようと考案した」と経緯を説明。「真に科学的な批判か否かが、慎重に見極められなければならない」と訴えかけた。

検察側は、5点の衣類は古く、みそにも漬かっていたとして「血液由来のDNAは劣化が甚だしく、そもそも鑑定困難」と述べた。さらに、捜査や裁判の過程で唾液といった血液以外の生体試料が付着する機会が多くあったと問題視。細胞選択的抽出法は血液由来のDNAを「効果的に抽出する手法とは言えない」と批判し、鑑定が由来不明のDNAなどを評価した可能性が「極めて高い」とした。

4月24日、静岡地裁で再審第14回公判が開かれ、確定判決で犯行着衣とされた「5点の衣類」のシャツに付着した血痕のDNA型に関する審理が行われた。検察側は、DNA型が「袴田のものと一致しない」とした弁護側鑑定について「鑑定対象がごく微量で、他人のDNA型が混入した可能性が高い」などとして「信用できない」と反論した。一方、弁護側は、袴田が収容先の東京拘置所で作成した「血染めの衣類は私のものではない」などとする意見書を読み上げた。

実質的な審理はこの日の公判でほぼ終了した。

5月22日、静岡地裁で再審第15回公判が開かれた。今回の再審公判で初めて、検察側が被害者夫婦の孫の意見陳述を読み上げた。「母は事件を忘れられず、精神的な苦痛を受けました。本来は何不自由ない人生を送るはずでした。母を犯人視する書き込みもありました。1度に4人の家族を失った被害者の恐怖や悲しみがどれほどのものか、人様にわかるでしょうか。当時の証拠を再度調べて真実を明らかにしてほしい」

その後、検察側は論告で「犯人は被告人で、金品を得る目的で犯行に及んだ」「5点の衣類は犯行着衣であり、いずれも被告のもの」と主張した。

これに対し、弁護側は「5点の衣類は捜査機関が捏造した証拠」などと検察側を強く非難した。

主任弁護人の小川弁護士は最終弁論で「再審公判が始まって7ヶ月間、巌さんの無罪が明確になった。 巌さんが無罪であるという事実は誰も動かせない。袴田巌さんは無罪です」と述べた。

姉・ひで子は袴田が獄中から家族に宛てた手紙を抜粋して、意見陳述を行った。「立ち上がっても投獄されればもはや帰れない。もはや正義もない。声の限りに叫びたい衝動にかられてならない。そして胸いっぱいになった真の怒りをぶちまけたい。お母さん、とおからず無実を立証して帰りますからね」

9月26日、静岡地裁で再審の判決公判が開かれ、国井恒志裁判長は無罪(求刑死刑)を言い渡した。判決は捜査機関による証拠の捏造を認定し、袴田について「犯人とは認められない」と結論付けた。

10月9日、検察が無罪判決に対する上訴権を放棄。これで袴田巌の無罪が確定した。被疑者として逮捕されてから58年の歳月を経て無罪となった。逮捕時30歳だったが、88歳になっていた。

10月19日、袴田巌を追ったドキュメンタリー映画『拳と祈り 袴田巌の生涯』(監督・笠井千晶)が公開された。

袴田事件のように死刑が確定した後、再審によって無罪となった冤罪事件に免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件があり、袴田事件は5例目となった。

死刑確定後再審無罪事件

袴田事件を元に制作された映画に『BOX 袴田事件 命とは』(DVD/監督・高橋伴明/出演・萩原聖人&新井浩文&石橋凌・・・/2010) がある。

参考文献など・・・
『袴田事件 冤罪・強盗殺人放火事件』(新風舎/山本徹美/2004)
『主よ、いつまでですか 無実の死刑囚・袴田巌獄中書簡』(新教出版社/袴田巌&袴田巌さんを救う会[編]/1992)
『自白が無実を証明する 袴田事件、その自白の心理学的供述分析』(北大路書房/浜田寿美男/2006)
『はけないズボンで死刑判決 検証・袴田事件』(現代人文社/袴田事件弁護団/2003)
『地獄のゴングが鳴った』(三一書房/高杉晋吾/1981)

『美談の男 冤罪袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密』(鉄人社/単行本/尾形誠規/2010)
『裁かれるのは我なり 袴田事件主任裁判官三十九年目の真実』(双葉社/山平重樹/2010)
『袴田巌は無実だ』(花伝社/矢澤昇治[編]/2010)
『袴田事件 これでも死刑なのか』(現代人文社/小石勝朗/2018)
『デコちゃんが行く 袴田ひで子物語』(静岡新聞社/単行本/いのまちこ[編]&たたらなおき[漫]/2020)

『袴田事件 神になるしかなかった男の58年』(文春新書/青柳雄介/2024)
『毎日新聞』(2006年11月20日付/2007年5月8日付/2007年12月17日付/2008年4月25日付/2008年12月27日付/2009年12月15日付/2011年12月22日付/2012年1月24日付/2013年4月9日付/2013年7月18日付/2013年7月26日付/2013年9月10日付/2013年10月4日付/2014年3月27日付/2014年3月28日付/2014年3月31日付/2014年7月17日付/2016年10月26日付/2017年6月6日付/2018年6月11日付/2018年6月19日付/2023年3月13日付)
『読売新聞』(2007年3月2日付/2007年3月10日付/2007年6月25日付/2008年3月25日付/2008年7月7日付/2008年7月10日付/2011年12月1日付/2011年12月12日付/2012年6月28日付/2013年3月30日付/2014年4月10日付/2023年10月27日付)
『産経新聞』(2009年3月5日付/2012年4月14日付/2012年4月16日付/2013年9月13日付/2013年12月2日付/2014年3月29日付/2021年11月5日付/2021年4月24日付)
『静岡新聞』(2013年5月25日付/2014年9月24日付/2024年1月18日付/2024年3月25日付/2024年4月18日付)
『朝日新聞』(2014年4月6日付/2014年8月5日付/2014年12月20日付/2021年8月30日付/2022年11月10日付)
『共同通信』(2011年1月27日付/2011年11月17日付/2011年12月22日付/2023年10月13日付/2024年1月16日付/2024年10月19日付)
『時事通信』(2012年4月25日付/2012年11月2日付/2013年5月24日付/2014年2月25日付/2020年12月23日付/2024年9月26日付/2024年10月8日付)
『中日新聞』(2020年11月10日付)
『静岡放送』(2023年3月20日付/2023年12月20日付/2024年3月26日付/2024年3月27日付)
『TBS NEWS』(2023年11月10日付)
『SBS NEWS』(2023年11月20日付/2023年12月11日付)
『静岡朝日テレビ』(2024年2月14日付/2024年5月22日付/2024年10月9日付)
『静岡放送』(2024年2月14日付)
『静岡第一テレビ』(2024年2月15日付)
『テレビ静岡』(2024年9月26日付)

関連・参考サイト・・・
袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会

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