驪山への行程で囚人を解放す
I think; therefore I am!


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本文(白文・書き下し文)
高祖以亭長、為県送徒驪山。
徒多道亡。
自度、比至皆亡之。
至豊西澤中、止飲。
夜乃解縦所送徒曰、
「公等皆去、吾亦従此逝矣。」
徒中壮士願従者十余人。
高祖亭長を以て、県の為に徒を驪山に送る。
徒多く道より亡ぐ。
自ら度るに、至る比ほひ皆之を亡はん、と。
豊西の澤中に至り、止まりて飲む。
夜乃ち送る所の徒を解き縦ちて曰はく、
「公等皆去れ、吾も亦た此より逝かん。」と。
徒中の壮士に従はんと願ふ者十余人あり。
参考文献:史記二 明治書院

現代語訳/日本語訳

高祖は亭長だったので、県の命令で労役に服している囚人たちを驪山に送ることになった。
囚人たちは多くが途中で脱走した。
高祖は、自分で考えたところ、驪山に着くころには全員がいなくなっているだろうという結論に達した。
豊県西部の沢中に着いた時、移動を中断して酒を飲んだ。
夜になって、そこで、驪山へ送っている囚人たちを解放して、こう言った、
「君ら全員逃げろ。私もまたここから逃げる。」
囚人の中の壮士で、高祖に付き従いたいと願う者が十何人かいた。

解説

高祖以亭長、為県送徒驪山。
こうそていちょうをもって、けんのためにとをりざんにおくる。

ここでの「」は[理由]を表す。

「徒」は労役に服している囚人。
秦の法律では儒者の詩書について論じるものは死刑にして遺体をさらし、
古代の例を引いて現代を非難すれば一族皆殺し、
諸子百家の書を焚(や)かずにもっているものは黥刑(いれずみ)にして労役に服さねばならなかった。
特に最後の諸子百家の書を焼かせる政策は、焚書と呼ばれ、
儒者など秦の役人たちが、民衆を惑わす妖しい学説を唱えていると判断した学者たちを
生き埋めにした坑儒とあわせて、焚書坑儒と言われている。

驪山は、秦都咸陽の東南にあり、始皇帝が、秦王政として即位してまもないころから
そこに囚人を集めて陵墓を建築させていた。
最大時には、全国より70万人もの囚人が集められて建築に使われたといわれる。
この中に、後に九江王となった黥布もいた。


徒多道亡。自度、比至皆亡之。
とおほくみちよりにぐ。みずからはかるに、いたるころほひみなこれをうしなはん、と。

始めの「亡」は"逃げる"の意であり、後の「亡」は"なくす"の意である。
「度」は"推測する"の意である。


至豊西澤中、止飲。夜乃解縦所送徒曰、「公等皆去、吾亦従此逝矣。」
ほうせいのたくちゅうにいたり、とまりてのむ。よるすなはちおくるところのとをときはなちていはく、「こうらみなされ、われもまたここよりゆかん。」と。

「豊」は県名。
「飲」には、それだけで酒を飲むと言うニュアンスがある。
「乃」は、この場合は、有る条件がそろって初めて出現したことを示す。"そこで・やっと"
「縦(はな-ツ)」は、"釈放する"。
「公」は、年長者か同輩への尊称。


徒中壮士願従者十余人。
とちゅうのそうしにしたがはんとねがふものじゅうよにんあり。

その十余人は高祖の人情味に感激し、
どうせあても無いので、付き従うことに決めたのだろう。


総括

この事件をきっかけに、劉邦とその一団は放浪の生活に入ることになる。



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