項王の最期
-項羽本紀第七より-
I think; therefore I am!




本文(白文・書き下し文)
於是項王乃欲東渡烏江。
烏江亭長、檥船待。
謂項王曰、
「江東雖小、地方千里、
衆数十万人、亦足王也。
願大王急渡。
今独臣有船。
漢軍至、無以渡。」
項王笑曰、
「天之亡我、我何渡為。
且籍与江東子弟八千人、渡江而西。
今無一人還。
縦江東父兄憐而王我、
我何面目見之。
縦彼不言、籍独不愧於心乎。」
乃謂亭長曰、
「吾知公長者。
吾騎此馬五歳、所当無敵。
嘗一日行千里。
不忍殺之。
以賜公。」

乃令騎皆下馬歩行、持短兵接戦。
独籍所殺漢軍数百人。
項王身亦被十余創。
顧見漢騎司馬呂馬童。
曰、
「若非吾故人乎。」
馬童面之、指王翳曰、
「此項王也。」
項王乃曰、
「吾聞漢購我頭千金・邑万戸。
吾為若徳。」
乃自刎而死。
是に於いて項王乃ち東のかた烏江を渡らんと欲す。
烏江の亭長、船を檥して待つ。
項王に謂ひて曰はく、
「江東小なりと雖も、地は方千里、
衆は数十万人、亦た王たるに足るなり。
願はくは大王急ぎ渡れ。
今独り臣のみ船有り。
漢軍至るも、以て渡る無し。」と。
項王笑ひて曰はく、
「天の我を亡ぼすに、我何ぞ渡ることを為さん。
且つ籍江東の子弟八千人と、江を渡りて西す。
今一人の還るもの無し。
縦ひ江東の父兄憐れみて我を王とすとも、
我何の面目ありて之に見えん。
縦ひ彼言はずとも、籍独り心に愧ぢざらんや。」と。
乃ち亭長に謂ひて曰はく、
「吾公の長者たるを知る。
吾此の馬に騎すること五歳、当たる所敵無し。
嘗て一日に行くこと千里なり。
之を殺すに忍びず。
以て公に賜はん。」と。

乃ち騎をして皆馬を下りて歩行せしめ、短兵を持して接戦す。
独り籍の殺す所の漢軍、数百人なり。
項王の身も亦十余創を被る。
顧みるに漢の騎司馬呂馬童を見たり。
曰はく、
「若は吾が故人に非ずや。」と。
馬童之に面し、王翳に指して曰はく、
「此れ項王なり。」と。
項王乃ち曰はく、
「吾聞く、漢我が頭を千金・邑万戸に購ふ、と。
吾若の為に徳せしめん。」と。
乃ち自刎して死す。
参考文献:改訂版古典I漢文編 第一学習社 史記 明治書院

現代語訳/日本語訳

そうして、項王は東へ烏江を渡ろうとした。
烏江の亭長は、船を出す用意をして待っていた。
項王にこう言った、
「江東は小さくはありますが、地は千里四方、人口は数十万人、
王となるには十分の大きさです。
大王は急いで渡られてください。
今はわたくし一人だけが船を持っています。
漢軍は、ここに至っても、渡ることができません。」
項王は笑ってこう言った、
「天が私を滅ぼそうとしているのに、どうして渡河しようか、いやしまい。
しかも、私は江東の子弟8千人と渡河して西進し、
今一人の帰る者も無い。
たとえ江東の父兄が私を憐れんで王にしたとしても、
私は何の面目があって彼らに会えようか、いや、全く面目なく、会えない。
たとえ彼らが何も言わなかったとしても、
私が心に恥じないことがあろうか、いや恥じる。」
そして、亭長にこう言った、
「私はあなたが高徳の人であることを知っている。
私はこの馬に5年間乗ってきたが、当たる所敵無しであった。
かつて、一日に千里走ったこともあった。
とても殺すには忍びない。
あなたに与えよう。」

そして、配下の騎兵を下馬させ、白兵戦を挑んだ。
項王は一人で数百人の漢兵を殺した。
項王の身も十余創の傷を受けた。
項王が振り返ると、そこには漢の騎司馬呂馬童がいた。
項王は言った、
「お前は私の旧友ではないか。」
呂馬童は顔を背け、王翳に指し示して言った、
「項王はここにいるぞ。」
項王は言った、
「私は聞いている、漢は私の首に千金・一万個の邑を掛けていると。
私はお前に恩恵を施してやろう。」
そうして、項王は自ら首をはねて死んだ。


解説

於是項王乃欲東渡烏江。烏江亭長、檥船待。
ここにおいてかうわうすなはちひがしのかたうかうをわたらんとほつす。うかうのていちやう、ふねをぎしてまつ。

項羽は"四面楚歌"の垓下から漢軍の包囲を突破して南方へ逃げてきていた。

「亭」は"宿場"であり、秦代には警備の役も担った。
「檥」は"船を出す用意をする"。


謂項王曰、「江東雖小、地方千里、衆数十万人、亦足王也。
かうわうにいひていはく、「かうとうせうなりといへども、ちははうせんり、しゆうはすうじふまんにん、またわうたるにたるなり。

「江東」は江南に同じ。


願大王急渡。今独臣有船。漢軍至、無以渡。」
ねがはくはだいわういそぎわたれ。いまひとりしんのみふねあり。かんぐんいたるも、もつてわたるなし。」と。

「独」は「のみ」と呼応する。


項王笑曰、「天之亡我、我何渡為。且籍与江東子弟八千人、渡江而西。今無一人還。
かうわうわらひていはく、「てんのわれをほろぼすに、われなんぞわたることをなさん。かつせきかうとうのしていはつせんにんと、かうをわたりてにしす。いまひとりのかへるものなし。

「且」は"そのうえ・また"。


縦江東父兄憐而王我、我何面目見之。縦彼不言、籍独不愧於心乎。」
たとひかうとうのふけいあはれみてわれをわうとすとも、われなんのめんぼくありてこれにまみえん。たとひかれいはずとも、せきひとりこころにはぢざらんや。」と。

「縦(たと-ヒ)」は"たとえ〜であっても"。
「見(まみ-ユ)」は"会う・お目にかかる"。
ここにおける「独」は反語を表す。
「愧」は"恥じる"。

「籍」は項羽の名前である。「羽」は字。


乃謂亭長曰、「吾知公長者。吾騎此馬五歳、所当無敵。
すなはちていちやうにいひていはく、「われこうのちやうしやたるをしる。われこのうまにきすることごさい、あたるところてきなし。

「公」は尊敬をこめた呼びかけの語で"あなた"のような意味。
「長者(ちょうしゃ)」は"徳の高い人"。
「歳」は「年」に通じる。


嘗一日行千里。不忍殺之。以賜公。」
かつていちにちにゆくことせんりなり。これをころすにしのびず。もつてこうにたまはん。」と。

「不忍」は"耐えられない・我慢できない・見逃せない"。
「賜」は"お与えになる"、尊敬表現である。
従ってここは、自尊表現になっている。


乃令騎皆下馬歩行、持短兵接戦。独籍所殺漢軍数百人。項王身亦被十余創。
すなはちきをしてみなうまをくだりてほかうせしめ、たいぺいをじしてせつせんす。ひとりせきのころすところのかんぐん、すうひやくにんなり。かうわうのみもまたじふよさうをかうむる。

「令」は使役。
「兵」は戦争関連の事柄を表すが、ここでは"武器"の意である。
「創」は傷を表す。


顧見漢騎司馬呂馬童。曰、「若非吾故人乎。」馬童面之、指王翳曰、「此項王也。」
かへりみるにかんのきしばりよばどうをみたり。いはく、「なんぢはわがこじんにあらずや。」と。ばどうこれにめんし、わうえいにしめしていはく、「これかうわうなり。」と。

「騎司馬」は"騎兵隊長"。
「若(なんぢ)」は"おまえ"。
「故人」は"旧友"、死んだ人ではない。
「非〜」は"〜でない"。
「面」は"顔を背ける"。


項王乃曰、「吾聞漢購我頭千金・邑万戸。吾為若徳。」乃自刎而死。
かうわうすなはちいはく、「われきく、かんわがかうべをせんきん・いふばんこにあがなふ、と。われなんぢのためにとくせしめん。」と。乃ち自刎して死す。

「購」は"懸賞を掛けて求める"。
「邑」は城壁で囲まれた町を表す。
中国古代の町はほとんどこれだった。
ちなみに城壁の外を「郊」という。
「徳」は"恩恵を施す・手柄を立てさせてやる"。
「自刎」は"自殺"。


総括

垓下から漢の大群を少数精鋭で破りながら烏江まで逃げてきた項羽だったが、
やはり故郷に至り、ともに出発した8千人が皆死んでしまったことに思うところがあったのだろう。
ここで項羽は逃亡をあきらめた。
もともと項羽は敗れたことがなかった。
劉邦が何度も敗れ、逃亡してはまた復活を繰り返したのとは対照的である。



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