四面楚歌
-項羽本紀第七より-
I think; therefore I am!




本文(白文・書き下し文)
項王軍壁垓下。
兵少食尽。
漢軍及諸侯兵囲之数重。
夜聞漢軍四面皆楚歌、
項王乃大驚曰、
「漢皆已得楚乎。
是何楚人之多也。」
項王則夜起飲帳中。
有美人、名虞。
常幸従。
駿馬、名騅。
常騎之。
於是項王乃悲歌忼慨、
自為詩曰、

力抜山兮気蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何

歌数闋、美人和之。
項王泣数行下。
左右皆泣、莫能仰視。
項王の軍垓下に壁す。
兵少なく食尽く。
漢軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重。
夜漢軍の四面皆楚歌するを聞き、
項王乃ち大いに驚きて曰はく、
「漢皆已に楚を得たるか。
是れ何ぞ楚人の多きや。」と。
項王則ち夜起ちて帳中に飲む。
美人有り、名は虞。
常に幸せられて従ふ。
駿馬あり、名は騅。
常に之に騎す。
是に於いて項王乃ち悲歌忼慨し、
自ら詩を為りて曰はく、

「力山を抜き気世を蓋ふ
時利あらず騅逝かず
騅の逝かざる奈何すべき
虞や虞や若を奈何せん。」と。

歌ふこと数闋、美人之に和す。
項王泣数行下る。
左右皆泣き、能く仰ぎ視るもの莫し。
参考文献:改訂版古典I漢文編 第一学習社

現代語訳/日本語訳

項王の軍は垓下に籠城していた。
兵は少なく、食料は底を尽いていた。
漢軍及び諸侯の兵は、項王の軍を幾重にか包囲していた。
夜、漢軍が、四面、皆楚の歌を歌っているのを聞き、項王は驚愕して言った。
「漢は、すでに楚の全土を制圧したのだろうか。
なんと楚人の多いことか。」
そこで、項王は夜起きて幕営の中で酒を飲んだ。
虞という名の美人がいた。
いつも項王に寵愛され、付き従っていた。
また、騅という名の駿馬がいた
項王はいつもこの馬に騎乗していた。
ここに至り、項王は悲しげに歌って嘆き憤り、自らこのような詩を作った。
力は山を抜き 気は世を覆った
時に利無く 騅は進もうとしない
騅が進もうとしないのを どうすればよいのか いやどうしようもない
虞よ虞よお前をどうすればよいのか いやどうしようもない

数回歌い、美人もこの詩に応じた。
項王は幾筋かの涙を流した。
側近たちも皆泣き、仰ぎ見ることのできるものはいなかった。


解説

項王軍壁垓下。兵少食尽。漢軍及諸侯兵囲之数重。
かうわうのぐんがいかにへきす。へいすくなくしよくつく。かんぐんおよびしよこうのへいこれをかこむことすうちよう。

「壁」は"城壁の中に立てこもる"意。

このとき、韓信・彭越・劉賈と、楚に叛いた楚の大司馬周殷が続々と垓下に集まっていた。


夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰、「漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。」
よるかんぐんのしめんみなそかするをきき、かうわうすなはちおおいにおどろきていはく、「かんみなすでにそをえたるか。これなんぞそひとのおほきや。」と。

「楚歌」は"楚の歌を歌う"。
「何〜也(なんゾ〜や)」は"何と〜なことだなあ"という、詠嘆の意。


項王則夜起飲帳中。有美人、名虞。常幸従。
かうわうすなはちようたちてちようちう(ちょうちゅう)にのむ。びじんあり、なはぐ。つねにかうせられてしたがふ。

「帳」は"とばり"。
「幸」は"寵愛する"だが、ここでは意味的に受身でとるべきである。


駿馬、名騅。常騎之。於是項王乃悲歌忼慨、自為詩曰、
しゆんばあり、なはすゐ。つねにこれにきす。ここにおいてかうわうすなはちひかかうがいし、みずからしをつくりていはく、

「悲歌忼慨」は"悲しげに歌い、憤り嘆く"。
「為」は(つく-ル)と読み、その意でとる。


力抜山兮気蓋世 時不利兮騅不逝 騅不逝兮可奈何 虞兮虞兮奈若何
「ちからやまをぬききよをおほふ ときりあらずゆゐゆかず すゐのゆかざるいかんすべき ぐやぐやなんぢをいかんせん。」と。

「抜」は訳しにくいが、城を落とす時にも「抜」を使うので、まあそんな感じのイメージだろう。
「兮」は音調を整え声を伸ばす時に用いられる助字で、主に南方で用いられた。
「奈何」は"どうしたらよいか"と手段や対策を問う。
"〜を"と目的語を入れる場合には、それを「奈」と「何」の間に入れる。


歌数闋、美人和之。項王泣数行下。左右皆泣、莫能仰視。
うたふことすうけつ、びじんこれにわす。かうわうなみだすうかうくだる。さいうみななき、よくあふぎみるものなし。

「闋」は歌を一回歌い終えること。
「和」は"応じる・こたえる"。
「左右」は"左右にいる者"であり、"側近"である。
「莫」は「無」に通じる。
「能」は可能の意の副詞である。


総括

項羽は秦を撃破した勇将にして大量殺戮者でもあり、
一方、秦を乗っ取るような形で漢王となった劉邦は意図的に残虐性を軽減した。
項羽はむかしの斉でも大量殺戮を行っていたので、
秦と斉の人は生き残るために劉邦と斉を制圧した韓信に頼るしかなかった。
紀元前203年11月、項羽は機動戦力の相当多数を司馬龍且に率いさせて韓信を攻めたが、
韓信がこれを大破すると天下の形勢が一気に傾き、
楚(項羽)の大司馬周殷すらが背き、韓信・彭越・劉賈と、続々と垓下に集まっていた。
四面楚歌はこのときの項羽の圧倒的敗勢を象徴するものであった。
この後、出身地の会稽方面に敗走した項羽がついに最期を迎えることになる。



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