10.わたしたちは何ができ、何をすべきでしょうか。

 アルスの主任司祭聖ヨハネ・ヴィアンネイは、かつて次のようにいいました。

 「もし、司祭がこの地上で、自分の召し出しの偉大さと輝かしさを理解する恵みが与えられたら、すぐに死んでしまうでしょう、恐れだけでなく、愛によって!」と。

 このことは、司祭だけでなく、奉献されたすべての人にも当てはまります。

 司祭や奉献されたすべての人が、ふたたび召し出しの偉大さと輝かしさを、もっとはっきりと理解でき、そのために神に感謝して、召し出しをより価値あるものにする態度をとって生活することができるように祈りをささげましょう。

 特にかれらには、主の次のみことばが当てはまります。

 「わたしは、多くの人々の中から、あなたたちを選んだ。これからはもう、わたしはあなたたちをしもべとは言わない、あなたたちを友人と呼ぶ。すべてを捨てて、わたしについて来るあなたたちは、わたしから、その百倍のものと永遠のいのちを受けるだろう。わたしは自ら、あなたたちの、あふれるほどのほうびとなるだろう。聖なる父よ、あなたが与えてくださった人々を、あなたのみ名においてお守りください」と。

 わたしたち全員、司祭も修道者も奉献された者も、今のような物質主義の世の中では、この世の悪魔たちと、7つの頭と10の角があるバビロンの大淫婦がこの世の多くの快楽と輝きを見〔せ〕ていざなっていることを知らねばなりません。もしわたしたちが信仰を失って悪魔を崇拝するなら、酔いやすく、感覚をまひされるような、罪深い快楽のぶどう酒を飲ませられるのです。

 特に司祭や修道者たち、そして他のすべての信者たちはキリストとともに断固として、次のように言わなければなりません、「サタン、退け、“神なる主を礼拝し、ただ神にだけ仕えねばならない” と書かれてある」と。

 大きな犠牲をささげて、この試みに抵抗する人は誰でも、この世では得られないような平和を見つけるでしょう。

 悪魔とバビロンの大淫婦は、特に今の時代には、にせのバラと人をあざむく快楽で、人間をそそのかしています。その後ろには、底のない永遠の恐ろしい地獄があるのです。

 しかし、光であり、真理であり、いのちであるキリストは、十字架と困難がある険しい道を指し示しています。この道の向こうには、天国と永遠のいのちがあるのです。

 現代のソドマとゴモラの中では、わたしたちは、自分たちの力だけで、救いの険しい道を進むことはできません。なぜなら、地獄そのものが解放されて悪魔が今日の世界を支配しているからです。

 悪魔の軍団には、多くの人間がいます。さいわい、このときに天は、わたしたちを助けてくださいます。わたしたちがしなければならないことは、ただ信じることだけです。悪魔とその軍団が初めて天に戦争をいどんだとき、聖ミカエルと大天使と忠実だった天使たちが反対しました。「天で大きな戦争がありました」と聖書に書いてあります。悪魔の傲慢とずうずうしさに対して聖ミカエルは、神のみ旨に対する完全な従順の、もっとも強力な武器で勝利を得たのです。

 すると、前に美しい光の天使だったルチフェルは、見る見るうちに、へび、恐ろしい竜、闇の悪魔、殺人犯に変わり、けらいたちといっしょに永遠の地獄に投げ込まれました。

 聖なる天使たちは、わたしたちの守り手。1868年、南フランスのアングレードで「マリアの侍女」修道会の創立者ルイ・エドアード・セスタク神父が亡くなりました。かれはたびたび偉大なカリスマ的恵みを授かりました。

 ある日、聖母がかれにお現われになり、「この困難な時代には、人々は特に助けてくれる天使をこの世に送っていただくように聖母に願いなさい」といわれたのです。

 かれが「人間が願わなくても、聖母ご自身、天使を送るだけのじゅう分な力をお持ちになっていらっしゃるのでは」と申したところ、聖母は、次のようにお答えになりました、「祈りは、神がお望みになっていらっしゃる条件です」と管理人注1つまり、願えば願うほど、聖母は天使たちとともに、ますます力強くなってゆくのです。聖母は、「わたしは、天使たちの全軍団をつれて教会を助けに来て、教会を救います」と約束なさいました。

 神のようになりたい悪魔の攻撃から

 聖母はみずから、次の祈りを要求なさいました。管理人注2

 「天のとうといきさき、天使たちの元后よ、あなたは、悪魔の頭を押しつぶす権限を神から委託されているお方です。それで、わたしたちを助けるために、天の軍団をお送りくださるように嘆願致します。そうすれば、天使たちはあなたの指揮のもとで、あなたのおん力によって地獄の霊を追跡し、あらゆる所でそれらと闘い、その厚かましい攻撃を防御して、地獄に投げ返してくれます。

 聖なる天使と大天使よ、神のようになりたい悪魔の攻撃から、わたしたちをお守りください。

 善良でやさしいみ母よ、あなたはいつでもわたしたちの愛と希望です。神の母よ、わたしたちを悪魔から守り、悪魔がわたしたちに近づいてこれないように、わたしたちに聖なる天使をお送りください。アーメン」。

 そのとき聖母は、この祈りがいたる所でとなえられるようにと要求されました。奇妙なことですが、この祈りが最初に印刷されたとき、印刷機が3回も破裂してしまいました。1908年、教皇ピオ10世は、この祈りをとなえる人に免償を与えました。

 今日わたしたちは、ひどく悪魔に支配される世界に生きていて、その力は日増しに強くなりつつあります。

 悪魔は、みるみるうちに、世界と教会の中に入りこみました。しかし神は、わたしたちにおん助けを送ってくださいました。このおん助けは、天使たちに支援されて悪魔を踏みつぶす偉大なお方聖マリアです。

 教皇レオ13世は、地獄の力の総攻撃が近づいていることを察して、大天使聖ミカエルへのすばらしい祈りと、他の多くの祈りを作り出しました。

 とりわけ教皇は、キリスト信者に、聖なるロザリオを祈るように要求なさいました。なぜなら、ロザリオは、今までたびたび教会を大変な苦難から救ってくれた武器だからです。

 現代、聖マリアは、みずから出現されています。

 多くの聖母の出現が報告されています。それらはすべて本物でしょうか? すべて、にせものでしょうか? 確かにどちらにも当てはまりません。

 敵は本物の中に、多くの種をまいてしまいました。確かに教会は、このことに対して、慎重になっており、すぐに信じることがないように注意しています。

 しかし聖母は、いつも「祈りなさい、ロザリオをとなえなさい」。とおおせられています。これらはすべて悪魔に対する武器なのです。悪魔が、これらのことを自分から求めているのではないということは、はっきりしています。そしてもし何よりも先に、聖母の “祈り、苦行をしなさい” という要求が、かなえられていたなら、もし皆がさがし求めたことが、おもに大騒ぎ、好奇心を満足させることや、お金もうけの機会を得ることでなかったら、これらの巡礼地は、もうすでに、おん恵みがさずけられた場所だと認めてもよいのです。

 ここでもう一度、モンティキアリのことについて書くことにします。聖母は単に教会の最も危険な傷──それらは出血して死に至る危険を含んでいます──を示しただけではありません。聖母はまた、助けと救いの方法を示してくださいます。

 これが悪魔のしわざだと思えるでしょうか?

 (1)聖母は毎月13日を特別にマリアの日として祝うようにとおおせられました。それまでの12日間は、特別の祈りをして苦行とつぐないを捧げねばならないのです。これが悪魔のしわざだと思えるでしょうか?

 (2)聖母は、信仰を失った司祭や修道者のために、そして修道院が聖なる創立者の精神に立ち返り、刷新するために、祈りと苦行を要求されました。たくさんのよい召し出しのために与えられるように〔?〕祈ること。これが悪魔のしわざだと思えるでしょうか?

 (3)聖母は毎年7月13日をくすしきバラの聖母をたたえる特別な日にするように要求されました。教会の苦難の時代に教会の母のおん助けを願い求めるために。これが悪魔のしわざだと思えるでしょうか?

 (4)聖母は毎年10月13日をすべての恩知らず、冷淡、不熱心のため、司祭や修道者のあやまちのため、そしてすべての罪人のための世界的なつぐないの聖体拝領の日とするように要求されました。これが悪魔のしわざだと思えるでしょうか?

 (5)聖母は12月8日の正午から1時間を、ご聖体の前か家でこのあわれな世のための、多くの力強い恵みを願う特別な時間にするように要求されました。これが悪魔のしわざだと思えるでしょうか?

 (6)聖母は、世界は、はびこってきた多くの不潔の大罪のために昔の大洪水のような、たくさんの天罰を受けようとしています。それで、聖母はこれらの罪のつぐないとして祈りと苦行を求め、司祭たちがすべての人に罪をさけて、そのつぐないをするように呼びかけなさい、と要求されるとき、これが悪魔のしわざだと思えるでしょうか?

 聖母は、涙ながらに、切に願っておられると同時に、助けと救いも約束してくださいました。

 聖母は、いつも3つのバラを身につけて出現されます。これは次のような意味です。

 “わたしは三位一体の全能と共にここに来ます。つまり、おん父の白いバラ、この光、この純潔、この正直、この真理は、地獄のくらやみ、堕落、腐敗、いつわりに打ち勝つでしょう”。

 おん子の血のような赤いバラ。この、キリストの最も聖なるおん血、このあわれみは、罪を一掃して、悪魔の冷酷などれいから救ってくれるでしょう。

 聖霊の黄金のバラ。ご聖体の中で生きておられる愛と忠実と、平和のこの純金は、悪者の正体を暴露して、すべての、罪に染まった愛、不信仰、苦難、深い失望、激しい憎しみと、すべての貧困、痛みに打ち勝つでしょう。

 天の母は最も明白な奇跡として、罪深い心、とりわけ堕落した司祭と修道者の偉大な改心を約束してくださいました。しかし聖母は、教会内部のまことの刷新だけでなく、信仰と平和において全世界が一致することも約束してくださいました。

 これは、キリストを信じるすべての教会、また全人類が望んでいることではないでしょうか? 不安、恐怖、そして時々失望にさいなまれる現在、聖母のおん約束以上のなぐさめ、希望があるでしょうか?

 「わたしの愛は全人類を包みます」。

 イエズスのみ心とマリアのみ心は、救いの泉。

 教皇ピオ12世は、人類を聖マリアのみ心に奉献したとき、次のように述べられました、「わたしたちの前任者である教皇レオ13世は、世紀の変わりめに、人類をイエズスの最も聖なるみ心に奉献しました。そしてわたしは、大きな喜びと共に、すべての人間を聖マリアの汚れのないみ心に奉献します。この2つの最も聖なるみ心は、現代の救いの豊かな約束のしるしです」。

 昔コンスタンティヌス皇帝は、敵のマクセンシウス皇帝とローマのシルビウス橋での決定的な闘いをする前に、空に輝いている十字架のしるしを見ました。そして、同時に次のようなことばが聞こえてきました、「このしるしによってあなたは勝利を得るでしょう」と。

 かれは直ちにローマの軍旗の上に十字架を付け、これによって決定的な勝利を得たのです。この勝利によってキリスト教は、ローマの市民権を得るようになりました。その時代の十字架のしるしと同様に、イエズスの最も聖なるみ心と、聖マリアの母としての汚れのないみ心は、今の困難な時代の救いのしるしなのです。これらのしるしによって教会は勝利を得ることでしょう!

 聖ドン・ボスコの予言的なまぼろし。

 1862年5月26日の夜、聖ヨハネ・ボスコは、有名な予言的なまぼろしを見ました。それは現代の世界にとって大変意味深いので、簡単にここで紹介してみることにします。

 「わたしは海の真中にある小さな岩礁にいました。そのとき激しい嵐が起きました。すると、嵐の中で、激しく揺れている一そうの強大な船があらわれました。その船には教皇、枢機卿、司教、司祭、修道者たちや、多くの人々が乗っていました。それは、聖なるカトリック教会を意味しているのに違いないと思われました。

 その教会の司令艦のまわりには、他の多くの強大な船がありました。しかしそれらのほとんどは、敵の艦隊であって、教会の司令艦を激しく攻撃し、大きな損傷を与えていました。ある、特に激しい猛攻撃のときに、わたしは、教皇がひどい傷を負って出血し、死んでいくのを見ました。しかし、教会の司令艦の枢機卿たちは、すぐに新しい教皇を選びました。もとの教皇の死とその後継者の選出のニュースは、すぐに世界中に広まりました。この新しい教皇はたいへん困難な仕事を引き継ぎました。

 教会の司令艦は、ひどい損傷を受け、敵の猛威に直面して滅びたかのように思えました。つまり、確かに敵が勝利を得てしまったかのように思えたのです。しかし、わたしはそのとき、突然、暗闇と嵐で荒れ狂った海から、二本の垂直な光の柱が出てくるのを見ました。

 一本の大きな柱の上には、大きな白いホスティアがあり、その下に “信じる者の救い” と書かれていました。もう一本のいく分細い柱の上には、無原罪のおんやどりの聖母のご像があって、その下に、“キリスト信者の助け” と書かれていました。

 嵐と暗闇、危険、困難の真っただ中でこのすばらしい光の柱があらわれたとき、教会の司令艦に乗っていた人々は再び新しい希望に満たされました。そして、新しく選ばれた教皇は、司令艦をこれらの2本の光の柱のほうに進ませるように命令しました。そして教皇は、司令艦をその柱につないで、しっかりと固定させました。

 するととつぜん嵐がやみ、暗闇は消え、美しく晴れ渡った空に変わりました。わたしはそのとき、敵の船が大混乱に落ちいり、その一部は互いに衝突して穴があき、難破したのを見ました。他の船はあちこちに散らばり、視界から消えていきました。難破した船の多くの生存者たちは、難破船の破片につかまり、教会の司令艦のところまで泳いで行きました。そして、そこで親切に船に乗せてもらいました」。

 聖ヨハネ・ボスコが見たまぼろしは、ここで終わります。かれは、この預言的なまぼろしのことを、次のように説明しました、「教会は大変激しい嵐に会い、重い損傷を負うでしょう。しかし天がみずから教会を救うために干渉するでしょう。その結果、困難な時代は終わり、平和が訪れるでしょう。教会にとって新しくすばらしい春が訪れるでしょう」と。

 この1世紀以上も前のまぼろし以来、ずっと教会は困難な時代を通り抜けてきています。しかし神のおん助けのおかげで教会は生き残って来ました。そしてこれからも教会は、現在あばれ回わっている地獄のすべての攻撃にもかかわらず、生き残ってゆくでしょう。

 これまでの教会の歴史の中でそうであったように、救いは二本の柱の上にかがやいているご聖体と聖母にあります。

 “くすしきバラの聖母” は、救いの二つの方法をはっきりと示してくださいました。聖母は単に他人のための祈り、苦行、犠牲、つぐないを求めておられるのではなく、まずはじめに自分自身の罪に対しての “くいあらため” を求めておられるのです。

 このことは、よい告解を意味しています。罪の病、傷、汚れはまず最初にいやされて、それから洗い流されるはずです。そしてどんな肉体的ないやしよりも、はるかに偉大な神の愛とおんあわれみの奇跡であり、たまものであるこのいやしをいただいたことを、ご聖体のうちにおられる主イエズスに感謝しなければなりません。

 それで、本当によい告解をして、主のおんあわれみと愛のこの最もすばらしい奇跡に感謝をささげながら、聖体拝領をするように。そうすれば、心が清められ、キリストとともに十字架に耐える力が得られるでしょう。

 聖ドン・ボスコのこの予言的なまぼろしと他の予言について、デルコル神父著「天の母の警告」28-33ページを参照。

[管理人注1]  有徳な司祭も、時にそう考えてしまうものなのか。私たち凡人は、なおさら、しばしばこう考えるだろう:「神は『愛』なんだし、そして『全能』なんだから、人間の方で何もしなくたって救ってくれればいいじゃないか」。しかし、「祈りが条件」(prayer is a condition)だそうである。

[管理人注2]  話は上の続きである。すなわち、続く祈りはセスタク神父様が受けた。「August Queen Prayer」と呼ばれるらしい。「august」はこの意味

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