11.救いの泉から水をくみ上げなさい。

 もう一度、モンティキアリでの “くすしきバラの聖母” の出現の発端に戻ってみましょう。聖母は、み胸に3本の恐ろしいつるぎをつけて出現されました。

 ここで一つの疑問がわいてきます。なぜ、このような重大な事態が起ったのでしょうか? 堕落した司祭や修道者たち、つまり大罪を犯しながら生活している人たち、また信仰を失っただけでなく、教会の敵になってしまった人たちの大部分は、たいへん善良なカトリックの家庭の出身なのです。

 この人たちは以前は理想に燃えていて熱心に働き、大きな犠牲をささげていました。数年間は、そうやって幸福のうちに働いていたのです。

 以前司祭だったある人が、この疑問に対して次のような感動的な答えを出しました、「特に2つのことがわたしの司祭としての召し出しを滅ぼしました。わたしの祈りはあまりにも少なすぎました。そして後に全く祈らなくなりました………最初のうちは、わたしはたまに告解をしていましたが、後で全くやめてしまったのです。わたしは霊的に飢え始めました。そして悪魔はわたしが大罪から逃れようとするのを妨げました。わたしの最初の大きな罪と汚聖を犯しながらミサをたてることによって、悪魔はわたしの上にひとつのおそろしい罪の鎖をつくりました。そしてこの一つの鎖は、どんどん増えていきました。なぜなら、悪魔は、多くの鎖は一つの鎖よりも壊しにくいということをよく知っていたからです」。

 くいあらための信心業は、ゆるしの秘跡にはなりません。

 召し出しを打ち砕いたり、キリストの群に重大な影響を及ぼす大きな危険の一つは、いわゆるくいあらために信心業です。それら自体が悪いというわけではありません。それどころか、くいあらための善行は、すべての恵みに満ちています。もしそれが、ほんとうに、自責の念、注意深い道義心、改心へのしっかりした目的を伴っているなら、それは大変価値のあるものになります。しかし、それが念入に行なわれた時でさえ、なおそれは単なるひとつの信心業にすぎないのです。現代、たいへん尊敬すべきある修道者は、次のような正しい判断をしています、「くいあらための行ないは、よい告解がなされてはじめて価値があるものとなります。それは単なる信心業の行ないになるか、大罪のゆるしのための本質的な行ないになるかどちらかなのです」。

 教会には、常にくいあらための信心業がありました。それらは、公会議によって新しく取り入れられたものではありません。これらの信心業の中で最もすばらしく実りあるもののひとつは、キリストの受難を黙想する十字架の道ゆきです。もう一つは、ロザリオの苦しみの奥義をとなえることです。

 現代のくいあらための信心業が第一歩目だとすれば、二歩目には告解が続くべきです。そうすれば、その信心業は大変すばらしいものになります。小罪のゆるしを得るために秘跡的な告解はもちろんたいへん有益ですが、かならずしも義務ではありません。「天にまします」の主の祈り、あるいは、ロザリオ、聖体訪問などをすれば、小罪のゆるしが得られます。しかし、大罪を犯した場合には、教会の教えに従ってそのゆるしの秘跡を受けるために、告解、つまり罪のゆるしの秘跡を受けなければなりません。そしてそのときには、大罪の回数と、その重大さを示す事情も言わなければなりません。これは、つらい、あるいは恥ずかしいことだと悪魔は考えさせたいのです。それで告解しても、大罪をいいあらわさないで、かくしてしまう人がいます。そうすれば、罪がゆるされないだけではなく、その上に他の大罪をおかすことになります。

 大罪を告解するのは恥ずかしいと考える人に対して、教会博士聖アウグスティヌスは、あの昔言っていました、「罪をおかすことを恥ずかしく思わなかったのなら、こんど罪のゆるしを受けるために、それをいいあらわすのを、なぜ恥ずかしく思うのですか?」 それで告解は、いやな義務と思わないで、ありがたい恵みだと考えなければなりません。心をいやす “くすり” ですから。しかし、“くすり” に、“にがみ” はつきものです。

 聖なる秘跡の中では “小羊のおん血でわたしたちの服を洗うこと” ができるのです。よい告解は、悪魔のどれい制度の最もひどい状態からの解放令状なのです。小罪によって作られているどれい的束縛は、それほど危険ではありません。しかし、悪魔はそれをふやし、強めるために戦い、それを壊すことのできない鎖にするのです。

 わたしたちはよい告解をして、神のおんあわれみによって、わたしたちをしばっている束縛をすべて──それが軽かろうと重たかろうと──壊して投げ捨てるのです。わたしたちはよい告解をするとき、多くのいやしと成聖の恩恵を授かります。わたしたちは自分たちの罪を取りのぞいてくださる神の小羊と共に、ゴルゴタを体験するだけでなく、キリストの復活と復活祭のときの「あなたたちに平和」というみことばも体験するのです。それと同時に聖霊降臨も体験します。

 この秘跡が定められたとき、主は使徒たちに、「聖霊を受けよ」とおっしゃいました。この聖なる霊の力によってわたしたちの罪はゆるされるのです。わたしたちはみずから聖霊の清い神殿になるのです。この聖なる秘跡、そしてその他の秘跡──洗礼、堅信、叙階、婚姻、そして誓願──特別の恩恵を授かり、新しいいのちを得るのです。

 教皇ピオ12世は将来を見通して、1943年6月29日のキリストの神秘体についての回章に次のようにお書きになりました、「あやまった教えは、信徒の霊的成長を促さないどころが、それはかえって信徒の霊的成長を滅ぼしているのです。小罪のために、たびたび告解をすることは重要ではないと主張する人たちはまちがっています。つまり、この人たちは、毎日祭壇のもとで司祭と信者がいっしょに回心の祈りをとなえるだけで十分であって、告解の秘跡をしばしば受ける必要はないといっています。

 もちろん小罪は多くの方法によってつぐなうことができます。しかし日々徳の道を熱心に進むためには、たびたびの告解という敬けんな習慣が勧められねばならないということは確かです。この習慣が、教会にとり入れられたのは聖霊の力によってです。こうしてわたしたちは、聖霊にみちびかれて、自己認識が増し、キリスト者の謙そんが深められ、道徳上の欠点が根絶され、霊的無関心と不熱心がとがめられ、良心が清められ、意志が強められ、ためになる霊的指導を受けれるようになり、その秘跡の力によっておん恵みが増すのです。

 それでわたしは、たびたびの告解の価値を下げようとしている若い司祭たちが皆、自分たちがキリストの霊と異なる方向に歩んでいること、そしてわたしたちの救い主の神秘体を傷つけているということに気づくように望んでいます」。

 この教皇の予言的な見通し──今日、教会を脅びやかしている大きな危険の1つ。つまり、大変多くの司祭や修道者を危険にさらし、あるいはすでにかれらを滅ぼしてしまったものが何であるかを知っておどろいたことでしょうが、それをしっかりと把握していることが必要です。

 聖母は何をお望みになっているのでしょうか?

 聖母はモンティキアリがそのすべての子どもたち──肉体的病気をわずらっている人たちと、それ以上に精神的苦悩をわずらっている人たち──のためのおん恵みの源になることを望んでおられます。

 最も重要なおん恵みの源は、よい告解と、聖体拝領です。その溢れるようなおん源の仲介者は、聖マリアなのです。

 たいへん多くの司祭や男女の修道者たち──10万人をはるかに越える人たち──が召し出しを捨ててしまいました。しかしもしかれらがたびたび告解をしていたら、こういうことが起こったでしょうか? もちろん答えは、「いいえ」です。かれらは信仰への疑い、誘惑、召し出しに従うための困難など、いろいろなことを経験したでしょう。しかしよい告解よりすばらしい薬はないのです。それは明晰、安全、力、喜びと平和をもたらすのです。

 今日、司祭と修道者は、悪魔の攻撃のおもな標的です。今日世界は霊魂に影響を及ぼすひどい伝染病や有毒なウィルスと細菌でいっぱいです。これらの最も危険な伝染病に対する最もすばらしく効果的な免疫は、特に、ご聖体のうちにわたしたちにもたらされる高貴なキリストのおん血なのです。信仰において強く忠実になることを望む人たち、神学校や修道院に入っていて司祭や修道者としての生活を熱望している人たち、召し出しのうちに幸福であり、満足してよい実を結ぶことを望んでいる司祭や修道者たちは、皆今まで以上に告解の秘跡を尊重し、利用しなければなりません。

 同様に不熱心、不満足な人たち、平信者になった人たち、弱くなり犠牲を捧げることを恐れ、あら捜しをしている人たち皆にとっても、告解が最もすばらしい治療になるのです。

 かれらはたとえ自分たちの罪がどんなに重いものであっても、また海岸の砂のように数えきれないほど多くても、決して希望を失ったり落胆してはいけません。よい告解は常におん恵みの源なのです。あわれみのおん母は、わたしたちをそこに導くことを望んでおられます。

 スイスのリッパーシュアンドの聖なるニコラウス・ウォルフ神父と17人の人たちがいる前で行なわれた有名な “悪魔の説教” の中で悪魔は、次のことを白状させられました、「告解は、われわれにとって最も恐ろしいものだ。なぜなら、せっかくわれわれのつめの中に獲得した霊魂が告解によって奪い取られるからだ。告解は他のどんなものよりもわれわれに打撃を与えるのだ」。管理人注1

 教会とマリアと共に。

 キリストの神秘体に関する回章の中で教皇ピオ12世は、次のようにお書きになりました、「わたしたちは、光の天使の衣を着た、闇の天使にだまされないように注意しなければなりません。わたしたちの最も高貴なおきては、愛です。キリストの花よめ(その聖なる教会)をキリストが愛し、ご自身のおん血で清められたように愛することです。それで、秘跡はわたしたちにとって尊ぶべきものです。教会は秘跡によってわたしたちを強めてくださるからです。そしてまた、いわゆる “準秘跡” と教会が信者の心をキリストの愛に高めるためにすすめてきた各種の信心業も大切にしましょう」。

 キリストを通しての救いのみわざは、かつて一度だけ起きました。しかしそれは、キリストの神秘体によって教会の中で今もなお続いています。

 聖マリアはキリストの生と、ゴルゴタの死に共にあずかった「救いのみわざの協力者」だけではありません。おん母は今もなお教会の中での「救いのみわざの協力者」なのです。

 聖母は昔も今もキリストの母、教会の母なのです。

 「あわれみ深いおん父は、おん恵みを星のように吊されず、真珠のように海の中にお隠しになりませんでした。おん父は、それを主のおん母のやさしいみ手の中に置かれました、いつでも配られる準備が整っているように」(フォルハーベル枢機卿)。

 「神はたやすく人間を見捨てず、人間にご自身のいのちとおん血をお与えくださいます。もし人間が自分自身を捨てることができなくても、神は決して人間をあきらめになられることはありません」(レジナ・モスト、ドミニコ会)。

 聖母よ、あなたといっしょにわたしを連れていってください!

 「わたしは恐れることなく、あなたのみ手の中に自分自身をゆだねます。あなたといっしょにわたしを連れていってください!

 あなたは、主が進まれた道をご存知です。あなたのおん子に対してのみ心は、他のどんな人の心よりも燃えておられます。そして主の愛についてあなたより良く知っている人はいません。主の限りない痛みを、あなたのように感じとることができる人はいません。

 あなたは、み心の奥底で主のすべての傷に耐えていらっしゃいます。あなたはとてもつない悲しみと共に十字架のそばにお立ちになっています。あなたが喜びのうちにご体内で育まれたお方は、今、痛ましい嘆きと共に切りきざまれ血に染まり、裸にされてあなたのおん腕の中に横たえられていらっしゃいます。

 そして今、わたしは恐れることなくあなたの愛のみ手の中に自分をゆだねます。わたしをあなたといっしょに連れていってください。あなたは、おん子が進まれた道をご存知です」(レジナ・モスト、ドミニコ会)。

 聖マリア、恵みにみちたお方よ。

 「聖マリア、主のおん母、主のはしためよ。わたしたちのすべての悲しみがあなたのみもとに届きますように。

 あなたは恵みにみちたお方です。わたしたちのためにあなたの愛するおん子にとりなす方、重すぎる大きな荷を持って、彼の玉座にひざまずいているわたしたちにおん目を留めてください。わたしたちは、原罪と、わたしたち自身の罪の重荷をかかえ、耐えることができません。

 地上の、意志の弱い巡礼者であるわたしたちは、あなたのおん助けをいただくほどの価値もないものです。しかし、あなたはそれでもなお助けて下さいます。あなたはわたしたち全員にたいへんやさしく、たいへんあわれみ深いお方です。

 わたしたちのために主に願ってください。主はあなたをたいへん愛しておられ、あなたのおっしゃることを喜んで聞いてくださるでしょう。主はいつでも喜んであなたにお会いになります。主のお望みは、豊かな愛と祝福をあなたにお分けになることです。

 あなたは、地上のほこりにまみれた小道の上にはどれほど厳しい人生と、どれほど苦しい精神的重圧と、どれほど激しい争いがあるかを知っておられます。

 聖マリア、主のおん母、主のはしためよ、わたしたちのすべての悲しみがあなたのみもとに届きますように。あなたは恵みにみちたお方です」(F.W.ウェベル)。

 わたしたちは世界同盟を結成し、共同戦線を張っています。わたしたち一人一人への呼びかけ!

 現代、わたしたちは信仰や崇敬の衝撃的な喪失、最も聖なるご聖体への冒とく、聖なる教会に対するあざけり、聖母に対する信心業の故意的な現象とその排除を経験しています。 

 わたしたちは主と聖マリアの忠実な子どもとして、今もこれから先も、このようなことを続けさせてはならないのです。それでわたしたちは、つぐないの聖体拝領とマリアの信心業のための、世界同盟を結成しているのです。わたしたちは、イエズスとマリアの最も聖なるみ心をなぐさめること、そして、聖なるご聖体、いとしい聖母マリア、聖なる教会と教皇に対して向けられた全てのぶじょくのつぐないをすることを望んでいます。わたしたちは全世界の信者に呼びかけています。

 これは、宇宙同盟になるでしょう、聖母のお望みは、まさにこのことなのです。

 その会員たちは概して次のことを約束します。

 1.キリスト者として正しい模範となるような生活をすること。

 2.熱心な祈りのある生活をすること。

 3.何よりもまず、聖なるミサを重んじて、可能な時はいつでもミサにあずかること。

 4.特に聖体拝領と告解を愛し、それらを受けること。

 5.忠実に熱心にロザリオをとなえること。

 すべての会員は、特に次のことを約束します。

 1.犠牲とつぐない(聖マリアを通して、毎日の祈り、犠牲と十字架を主に捧げること)への燃えるような望み。

 2.特別の祈り、犠牲とつぐないによって毎月13日を聖なる日とすること。つまり、ご聖体のうちにおられる主とその聖なる母に対する多くのぶじょくをつぐなうこと。

 3.たびたび聖体拝領をして、心からつぐないをすること。特に聖なるイエズスと聖マリアのみ心に奉献されている毎金曜日と土曜日にこれを捧げること。できる時はいつでも、そして少なくとも月に一度はよい告解をすること。

 告解は、多くすればするほどよいのです。それは誰にとっても犠牲を捧げることになりますが、そのわけで自分自身のための偉大なつぐないの業になります。そして同様に自分が助けたいと思っている人たちのためのつぐないにもなるのです。

 4.そして特に毎年10月13日をつぐないの聖体拝領の世界的一致の特別な日として祝うこと。

[管理人注1]  リッパーシュアンドのニコラウス・ウォルフ = Niklaus(あるいは Nikolaus)Wolf von Rippertschwand.

悪魔の説教 = Teufelspredigt, Teufels Predigt.

しかし「ニコラウス・ウォルフ神父」というのは誤訳だろう。彼はスイス人で、スイスのドイツ語圏の人たちから「Vater Wolf」と呼ばれている。しかし、この「Vater(= father)」というのは「神父」を意味せず、ただ親しみをこめた言い方だろう(私たち日本人には、いくら親しみを感じるからと云って、誰か赤の他人を「◯◯お父さん」みたいに呼ぶ習慣はないわけだが)。彼は農民、しかし一時期、町議員を務めた人で、また信仰の面でも顕著な働きがあった人で、列福運動まであるようだが、しかしとにかく、司祭ではなく信徒だろう。

そして、9人の子供の父親であるだろう。
以下、或る神父様が編んだ『Married Saints and Blesseds: Through the Centuries』という本から。拙訳。

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リッパーシュヴァントのニクラウス・ヴォルフとバーバラ・ミュラー

生誕: 1756年5月1日、ノイエンキルヒ(ルツェルン州)
死亡: 1832年9月18日、聖ウルバン修道院(ルツェルン州)

9人の子供の父親

リッパーシュヴァントのニクラウス・ヴォルフは、フランス革命後の激動の時代に生きた。彼はルツェルンの農民で、町議員にもなった。リッパーシュヴァントのニクラウス・ヴォルフはバーバラ・ミュラーと結婚し、バーバラ・ミュラーは彼に9人の子供を与えた。3人の娘が修道院に入ったことは、かつて「修道院は信仰の要塞である」と言った父親を大いに喜ばせた。彼は毎夜、彼の家族のために家庭内の祈りの式を指揮した。また彼は祈りのグループも組織した。ある日、彼は病人を癒すカリスマを受けた。「私はイエズスの御名によって助けを求めていました。そして、与えられたのです。しかし、それが与えられるまで、私はしばしば祈り求めました」。リッパーシュヴァントのニクラウス・ヴォルフは、彼と同じ名を持つ Nicholas von Flüe のように、単純な人々の間で人気のある聖なる人になった。彼のための列福運動は1955年以来進行中であり、結論に近づいている。教皇ヨハネ・パウロ二世は、ニクラウス・ヴォルフ・フォン・リッペルシュヴァントは間もなく列福されるかも知れない、と、自身の願いを表明した。そのため、私たちはこの家族の父親を簡単に紹介した。

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