10. 自由と云う言葉
然らばその自由と云う事が一概に悪い事であるかと云うならば、決して自由というものが全部悪いのではないのであります。けれどもそれをよく分析して、善悪を判別して行かなければならない。
総て昔から「われに自由を与えよ、然らずんば死を与えよ」とか、また「板垣死すとも自由は死せず」と云うような言葉を使って、自由と云いさえすれば、もうこれが人間の最後のものであるとし、これがためには何をやってもいいと云う風に、この自由が讃美されつつあります。然るに「自由とは何ぞや」と云う問題を出して研究してみますと、本場のフランスに於いても随分色々な階段があります。
私は、上は大統領に近い人達から、幼年労働者に至るまで、種々な階級の人々に色々質問して、「君の国には、至る所に自由、平等、等と書いてあるが、自由、平等とはどんな意味か、自分にはわからんから知らせてくれ」と、先ず無智識階級の者に尋ねてみた。すると「自由とは総て自分の欲するところをなす事が出来るのが自由である」、即ち「自分の意志に対する最高の権利を持っているんだ」と解釈している。これは自由でも放埒に近いのであります(笑)。即ち彼等の称する自由とは、何ら自分の意志を掣肘するものではないのであります。
ところがもう一つ上の人に訊いてみると、「それはちょっと酷すぎる。自由とは禁ぜられざる事はすべて為す事が出来ることである」と申します。そこでもう一つ進んだものに聞いてみると、「許されたる凡てのことを為し得ることである。人間には自然にやって善い事は決まっているのである」と云う答えだ。今度は一番進んだ上の人に聞きますと、「許されたることの中にもなお選択すべきことがある。人間には道徳と云うものがあるから、道徳によって行動するのが自由である」と言うのでありました。
これはわかり易く物にたとえて申しますと、第一のは人の屋敷であろうが人の畑であろうが、そんな事は構わない。向うにまっすぐ行こうと思えば、何処でも構わず通って行ってしまうと云うのが、一番ひどい自由であります。
その次の自由は、禁ぜられて居る事はいけないけれどもその他は全部自由だと云うのでありますから、物にたとえれば、人の畑である事は判っているが「無用の者入るべからず」と禁ぜられて無いから通り抜けるのであると云うのである。如何なる方法で金を儲けようと、またこれを如何なる方法で散らそうと、法律に違わなければ差支えないとするのであります(笑)。
その次の許されたる事を為すと云うのは、例えば道路と云うものは、人間の通るように出来ていますから、中を通っても右を通っても左を通っても、一向差支えないと云うのであります。
最後のは、同じ道路の通行でも自分の自由ばかり考える訳には行かぬ、人様にも自由があるからこれを尊重するのであります。即ち道の中でも最も道徳的に克明に道路規則を守って通って行こうと云うのであります。
ただ自由と云ってもこれだけの相違があるのであります。これを全部混同してしまって、玉も石も自由と云う名をつけたら、実に迷惑千万で、他の自由が泣きます(笑)。こう云う風に自由と云うものは、皆いいんだとしてしまったのが間違いであり、非常に弊害が起きて来るのであります。
フランス革命の時に、マダム・ローランと云う婦人がありまして、女だてらに革命党に入りまして、幾多の人を断頭台に送りましたが、因果はめぐる小車の如く、おのれ自らまた他人のために讒誣を受けて、投獄される番が回って来ました。そして遂に死刑に処せられる日が参りまして、パリの革命広場にあった断頭台を上って行きました。最後の一段を登りつめて、ギロチンの前に立った時、処刑官が「マダム・ローラン、何か言い残す事がありましたら、この際でありますぞ」と申しました所、マダム・ローランは、やおら身を起こしまして、側にある所の自由の女神の銅像を指して、実によい事を申しました。「おゝ自由よ、汝の名に於いて、如何なる罪悪が行なわれつつあるか!」。斯く叫んで死んだ。マダム・ローランの言葉を、今日そのまま日本に持って来ても、尚その通り通用します。
京都大学の瀧川教授〔〕、これを支援する心なき同大学法学部教授があって、「学問の自由だ」とか「研究の自由」だとか、やれ何々の自由と、自由々々と囀って、自由を盛り沢山にしまして「大学には自由があるから、政府も監督者も嘴を入れる事まかりならぬ」と言うておりますが、国家あっての大学か、大学あっての国家か、さっぱり訳がわからない。そこらあたりの本末を顛倒した、学者先生方の頭は少々どうかしていると思います(笑)。
あれ等の人達は、速やかに辞表を提出し、国籍を返却して、アインスタイン博士の主宰しているバレスタインのユダヤ人の大学に学ぶなりと教授に雇ってもらうなりとしたらよい。彼等ならいくらでも自由々々と言ってくれるのですから(笑)。
長野県に教員の赤化問題が起こっておりますことは皆さん御承知と存じます。警察の道場は、剣道も柔道も、出来ない。検挙された赤い教員達がギッシリ詰まっているそうです。それは一体どういう訳であるかと云うと、或る人は純然たる物質的の解釈をしている。と云うのは「あすこは生糸が盛んで、蚕業は既に農民の副業ではなくなって、本業になっている。それが繭価の暴落で行き詰まってしまって、あすこに暴動が起らなかったのはむしろ不思議だ」と大新聞の社長が言っておった。そうすると共産党騒ぎが起こった位は当り前だと言うことになります。しかし私がこの前その地に行って調べてみますと、そう云う物質的の事柄は、その極く小部分を占めていて、その根本に於いて非常に誤れる自由教育が──放縦即自由という思想によって教育が行なわれ、これがそもそもの事の起こりの因をなしているのであります。そして第一回検挙の時その地方で赤い青年11名が挙げられたのですが、この11名の赤化青年は全部、往年その地方で行なった極端な自由教育を受けたものばかりでありました。そこで一体自由教育ってどんな事をしたかと云うて調べてみると、それはなかなか振るった事をやっているのであります。
先ず学校の先生の教授の自由でもって、「教科書と云うものは持って来なくてもよい。その時々の気分でもって教えれば良いんだ」と言うのです。
次に生徒が席につくにもまた、自分の気分本位で、先生の方を向いても、後を向いても、窓を眺めても、窓を背にしてもどこでも善い、まるで動物の集まりであった(笑)。
こう云う随分思い切った自由、履き違えの放縦なやり方をやったのであります。
或る時学務部長が余り酷いと云うので、見回りに来た所が、受持先生とても怒ってしまって、教授の自由を束縛すると云うので──授業中に他人なんか入って来たんでは、折角の気分をぶちこわしてしまうと云うので、校庭に飛び出してしまい、学務部長が出て行ってから、また帰って来て、教え出したと云う事を聞きましたが、これが即ち「自由は即ち放縦、放縦は即ち自由なり」でありまして、これで初めて先刻申しました、ユダヤ人が「他の民族は人間に非ずして獣類なり」になってしまった訳であります(笑)。
十数年前でありましたか、理想団と云う無政府主義系の団体がありました。その憲法なるものを見せてもらいましたが、その中にこう云う事が書いてありました。「我等同人は、如何なる場所と、如何なる場合とを問わず、生理衛生上自然的に起こる行為は、これを遠慮する必要を認めず。例えば欠伸、伸び、放屁、放尿等々」とわざわざ但し書きをして書いてありましたが(笑)、実にこれで初めて獣類の仲間入りをするのであります(笑)。
これは要するに、フリーメーソン秘密結社がたくらんだ事であって、斯かる放縦極まる誤れる自由観念を鼓吹して、人類の道徳程度を低下せしめて、人間を獣類たらしめんとする彼等の手段であります。これは決して私が客観的に見て、斯く批判するのではなくて、彼等の書物の中にチャンと書いてあるのであります。
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