第一部 天主の教会と教会の教え
初対面
青年 
神父様、今晩は。
神父 
今晩は、さあ、どうぞ、何か御用ですか?
青年 
私はジャックソンというものですが、おひまでしたら、カトりックという宗教を教えていただきたいと思って参りました。
神父 
ええ、ひまです。そうでなくても、ひまをつくるようにします。教えるということは私の大事な仕事の一つですから。打明けて私が御説明申しあげ、あなたも同じように疑問などを打明けて下さいますと、私達の話は、面白いものになると思います。では、初めに二三お尋ねしますが洗礼を授かっていられますか?
青年 
いいえ。
神父 
宗教教育をお受けになったことがありますか。
青年 
いいえ。
神父 
カトリックの女の方とでも御友達ですか?
青年 
いいえ、全然。実は私はカトリック教会の古くて大きなことや、信者間の宗教上の一致に非常に感銘しているのです。
神父 
そうですか、それではあなたは多くの人が抱いているような偏見をお持ちではありませんね、よくわかります。
青年 
私は、先生、努めて心を白紙にするようにしています。失礼しました。本当の御呼び方をするのを忘れまして。私はどうも聖職の方々とお話しすることになれていないものですから。
神父 
ごもっともです。カトリックで司祭のことを「神父(ファーザ)」というわけをあなたはご存知ですか?
青年 
いいえ、知りません。ですが、私の或るカトリックの友達が、非カトリックの人に立派な返事をしているのを開いたことがあります。この相手の人は、司祭にはそういう名前で呼ばれる資格はない、と言い張ったのです。
神父 
お友達はどんな返事をしたのですか?
青年 
そうですね。そのカトリックでない人が「如何なる人も父と呼ぶ勿れ」というキリストの御言葉を引用しましたところ、その信者の人は「君は自分の父親のことをどういうのか」と言いました。
神父 
それはあげあし取りではありませんね。司祭を「神父」と呼ぶ根本的な理由は、聖パウロが示しています。「その福音を以て汝等をキリスト・イエズスに生みたるは我なればなり」(コリント前四ノ一五)司祭のつとめは聖パウロのつとめに似ています。司祭は、霊魂に新しい種類の生命、超自然の生命を与える、天主の御手の中にある一つの道具で、それは丁度、あなた方が父と呼んでいられる親が、あなた方に自然の生命を与えるための天主の道具であるのとかわりません。天主はこの二つの場合の第一原因でありまして、これがキリストのおっしゃいました「汝等の父は天に在す一箇(ひとり)のみなればなり」(マテオ二三ノ九)の意味です。この世における司祭の本当の目的は受持教区の霊魂の世話をする事でありまして、父親が家庭の世俗的世話をするのと同じです。ですから、「神父」という肩者は当然の事です。
青年 
神父さん、この問題に触れました序(ついで)に、なぜ教会が司祭に独身でいるように命じているかその理由を説明していただけませんか? 実はどうして皆さんは御結婚なさらないのですかとお聞きしますと、恐らく「あなたに関係ないことだ」とおっしゃることと思います。カトリックの司祭が結婚なさらないわけをお尋ねしても失礼でないと思いますが。カトリックでない人達にはあなた方の教会のこの掟がわかりません。
神父 
喜んでお話します。教会のこの掟は、天主の教会と司祭のつとめとの本当の性質に精通されてからでないと本当にわからないでしょう。司祭は福音の単なる説教者ではありません、司祭は特別の祝福(叙品)によりまして天主に献げられています。それ以外のものには決してなれません。自分は世俗的な、そして人間的なつながりから特別に天主の御召出を受けていると考えています。聖パウロの言葉を借りますと、「蓋し総て大司祭は人の中より選まれ、神に関する事に就きて人々の為に供物と贖罪の犠牲とを献ぐるの任を受け」(ヘプレオ五ノ一)ているのです。人々の為に叙品されています。ですから、その時間と才能と生涯は、その人達の意のままにあらねばなりません。一切の世俗的な覊絆(きはん)がないということは、天主の御為に専心に仕事をするということにとりまして、実に欠くべからぎることであります。聖パウロは結婚しませんでした。聖ペトロは結婚していましたがキリストに随う為に妻と「一切のもの」を捨てました。この人達が結婚していましたら、その仕事の成功はずっと望み薄かったことでしょう。聖パウロ自身がこのことを「妻なき人は如何にして主を喜ばしめんかと主の事を思い煩うに、妻と共に居る人は如何にして妻を喜ばしめんかと、世の事を思い煩いて心分かるるなり」(コリント前七ノ三二−三三)と言っています。疑いもなく、既婚の司祭よりも家族的なつながりを持たず結婚しておらない司祭の方が、遥かにキリストにならって、伝染病で苦しんでいる人々の助けになることができますし、経済的な出費も少くて暮して行くことができます。
青年 
なるほど、そういうわけで聖職者は結婚しないのですか。しかし、恐らく大多数のカトリックの人達はこれを重視しはしないでしよう。
神父 
純潔な独身生活などできはしない、と思っている人も中にはあります。司祭職の性格と義務を知っているカトリック信者は、司祭の独身生活を心から信じています。毎日二時聞以上もかかる司祭のミサ、黙想、その他のお祈りによりまして、司祭はどうしても天主の御傍にいなければなりません。酒の味を知った人はこれ無しで済ますということは、なかなか困難だと思っていますが、酒の味を全然知らぬ人はそうではありません。すっと独身でいまして、その上純潔の誓を立てている人の場合もこれと同じことです。
青年 
でも、司祭や修道女の悪徳を書き立てた本が沢山ありますね。
神父 
それはそうです。しかし、それはカトリック教会の公然の敵とか、カトリック教会を攻撃すると時々金銭的な利益があるような人々がそう云うのです。
この本をお渡ししますからその始めの方をじっくりお読みになって、今週中に第一回の講義のために夕方またいらっしゃい。本の終りに祈祷文がのっていますが、その中の幾つかを暗記して下さい。
今直ぐ暗記するには及びませんが、毎晩夜のお祈りに読んで下さい。そうしますと、大した勉強をしなくても直ぐにおぼえられます。
真の信仰は天主の賜物で、これは祈祷によつて天主にお願いしなければならないものですから、勉強しながらお祈りをするということは大事なことです。
主祷文と天使祝詞と使徒信経は事実天から授かった祈りです。ですから、カトリック信者はこれを暗記することが望まれます。主祷文はキリスト御自らがお作りになって弟子達に教えられました。天使祝詞の初めの部分は、主の御使の天使がマリアに述べた言葉と、従姉のエリザべットが聖霊に感じてマリアに申しあげた言葉を含んでいます。使徒信経は初代キリスト信者の信仰告白で、教会を通して主が教えられたおもな真理の要約です。ですから、私達はこの三つのお祈りを改めることはできません。これと一緒に、信徳誦、望徳誦、愛徳誦を知っていただきたいと思います。
青年 
司祭のいわれる殆どすべてのお祈りに信者が「アーメン」とあわせていますが、あれはどういう意味ですか?
神父 
あの言葉は「しかあらしめ給え」という意味で、お祈りの是認とか確信を表わしています。しかし、人がひとりで祈る場合でも普通この言葉で結びます。研究中の疑問はなんでも必ず尋ねて下さい。隠さねばならないものは何もありませんし、又、あなたが完全に信じられたということが確かめられませんと、私達はあなたを正式に教会にお迎えしません。
青年 
それでは、神父様、今晩は御教示をいただきまして誠に有難うございました。第一回の講義を楽しみにしています。
神父 
木曜日の晩お出で下さい。勉強しながら祈って下さい。聖寵によりましてあなたが天主に心を向けるようになられましたように、天主があなたを更に御導きならんことを祈っています。
《ページ移動のためのリンクはにあります》
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ