神父
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「祈祷」について講義した時に、主キリストが御みずから私達にお教えになった祈祷文は、私達の唱うべき祈祷の完全な模範であるということを、お話しようと申しあげましたね。この祈りは、完全無欠な愛、己のためを計らない愛のお祈りです。
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青年
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どういうわけですか?
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神父
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この祈祷は、完全に己を天主にお捧げし、そして天主に自分自身のためばかりではなく人のためにも、最上の御恵みをお顧いします。このお祈りは短いものではありますが、その中に天主への礼拝と、全能の天主の御事業の促進と私達に必要な霊的、物質的御恵みに対するお願いが含まれています。その初めの「天にまします我等の父よ」という言葉は、信頼の気持を抱かせます。これは、キリストとキリストの神秘体のすべての信者といっしょに祈るということを意味しています。
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青年
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たしかにうるわしい感情ですね。天主は、天にましましながら、地上の頼りない子らの幸福に深く心を寄せていらっしゃる、この全能至愛の天主に、地上の追放者である子らが自分の心と霊魂を捧げている気持を表していますね。
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神父
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それから、又、これは「願くは、御名の尊まれんことを、御国の来らんことを」などと、天にまします御父の御名と御光栄を深く思う子らを表わしています。
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青年
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「尊まれんことを」という言葉はどういう意味ですか?
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神父
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このお願いを言いかえますと、「主の聖なる御名が主の創造物によって敬われんことを」ということになります。
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青年
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神を汚し冒涜する今の時代は、たしかにそういうお願いは必要ですね。
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神父
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ええ、それで、このお祈りは同時にお願いと償いのお祈りになります。
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青年
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「御国の来らんことを」というお願いの意味は、私にはっきりわかりませんが・・・
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神父
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地上における天主の御国とは、主の教会、即ち聖寵の御国のことです。地上の人々がいつかは天の御国を永遠に所有することができるように、地上にも御国が全世界の人々のもとに来らんことを、天主は希望していられるのです。天上の御国に行く道は、地上のこの御国を通って行かなければなりませんから。
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青年
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何と深い意味がこもっているのでしょう! その僅かな言葉の中に、天主と人の最高の問題に関する祈りが含まれているのですね。
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神父
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「御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを」。この言葉の中には実に深い愛が含まれています。これは、天国の天使や聖人が天主を愛し天主に仕えていると同じく、地上の私達も心から天主を愛し天主に仕え奉るようにという祈願をするのです。
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青年
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人は自分で勝手にお祈りをしますと、天主の御事業の促進をお願いするということには恐らくめったに思い及びませんね。
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神父
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そうです。私達のちっぽけな利害はどんなに大きなものに見えても、全能の天主がこの世に抱いていられる大きな御関心に比較すれば、考えるだけの値打もありません。ですから、お祈りは天主の御事が真先に来なければなりませんよ。
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青年
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主祷文は祈祷の模範である、という神父さんのお話の意味がよくわかりました。
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神父
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そこで「我等の日用の糧を今日我等に与え給え。我等が人に赦す如く、我等の罪を赦し給え。我等を試みに引き給わざれ、我等を悪より救い給え」という私達自身のためにするお願いが、このお祈りの第二の部分として唱えられるのです。
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青年
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これらのお願いは全部言葉が短いのに、「我等の日用の糧を我等に与え給え」というところで、なぜ特に「今日」という言葉をわざわざ入れているのですか。「今日」と云わなくても気分は良く現われていると思いますが?
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神父
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いや違います。「今日」という言葉があるなしでは、気持は違います。「今日」という語は考えがあって使われているのです。キリストは、日々の祈祷が必要であると強調しておられます。私達は、今日の必要なものをお願いしてお祈りをします。天主の御恵みが明日も欲しければ、明日、もう一度お願いすればよいでしょう。
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青年
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成るほど、そうでしたか。
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神父
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申しあげるまでもないことですが、この場合の「糧」(パン)という言葉は、文字通りの狭い意味にとるべきではありません。これは、霊と肉とが必要とするもの、「我等のすべての必要なもの」ということを意味します。もちろんキリストの御心から見れば霊のために必要なものが真先になりますが・・。
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青年
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その次のお願いの中にある「罪」という言葉の意味は?
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神父
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これは、天主に対する「負債」を意味しています。他人が私達に対して犯した罪(負債)を私達は赦すから、という条件の下に、私達の犯した罪を赦して下さい、と天主にお願いするのです。ですからこのお祈りの中には、隣人に対する愛が入っています。これは、天主の愛と御恵みをかち得る一番確かな方法です。
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青年
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どういうわけで、「我等を試みに引き給わざれ、我等を悪より救い給え」というのですか?
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神父
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罪にさそう誘惑に私達が打ち勝つために必要な聖寵をいつも賜うように祈り、そして害悪、殊に霊魂に対する害悪から私達を常にお守り下さるように、天主にお祈りするのです。
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青年
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このお祈りにそれほどたくさんの意味があるとは、全然思いませんでした。今後は心をこめて祈るようにしましょう。
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神父
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そうなさいますと、あなたのお祈りは、暗雲をはらい、この世のことはなんでもなくなります。健康とかもっと金のもうかる仕事などを求めてお祈りする人は非常にたくさんいますが、罪人の回心や教会の発展のことは一言も祈りません。なにかこの世の不幸が自分の子供の上に振りかかりますと、非常に嘆き悲しむ立派な親達でも、その子がミサ聖祭にあずからなかったり、幾月も秘蹟から遠ざかっていても、何とも思わない例が多くあります。私達は天主の御恵みを望みますが、天主の御喜びになることを一つでもせよといわれる天主の御命令は忘れがちです。天主に対して善き人であれば、天主も「我を愛する人を我は愛す」と申される通り、その人によくして下さいます。
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神父
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主祷文はキリスト御自らお作りになった祈りですから、天から授けられたものと云えます。それと同じように、「天使祝詞」の前半も天から授けられたものです。
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青年
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どうも私にはわかりません。
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神父
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「めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ」という言葉は、大天使ガブリエルがマリアに御挨拶申しあげた言葉です。このことは聖書の中に「天使ガブリエル・・童貞女に遣わされしが」(ルカ一ノ二六〜二七)と、天主の御使として天使がマリアに申しあげたということがはっきりのっています。それから、又、エリザべトが聖霊に満たされてマリアに挨拶した「汝は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う」という言葉もはっきりのっています。
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青年
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そういうわけで、「天使祝詞」を私達が唱えますと、とりも直さず、天主の御心に適う言葉を申しあげていることになるのですね。
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神父
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教会がこの二つの挨拶を一つの祈祷の中に取り入れていますのは、そういうわけです。教会は信者が毎日この祈りを用いることを希望しています。
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青年
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カトリック信者は殆どいつでも「主祷文」の直ぐ後で「天使祝詞」を誦えていますね。大抵の人はこの二つはいっしょになっているのだと思っているくらいです。
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神父
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これには密接な関係があります。私達は、天にまします御父に御挨拶して、私達を助けて下さるようにお願いし、それから、天にまします御母に御挨拶して、私達のためにその力あるお祈りを捧げて下さるようにお頼みするのです。
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青年
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本当に美しい考えですね。十字架上でお亡くなりになる時、マリアを私達の母として仰ぐように御依頼になったキリストの御心をお喜ばせすることは、間違いありませんね。
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神父
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言うまでもありません。
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青年
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「天使祝詞」の中の「天主の御母聖マリア、罪人なる我等のために、今も臨終の時も祈り給え」という祈願は、これも聖書の中の言葉ですか?
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神父
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いいえ、教会の附け加えた言葉です。教会は、信者が毎日このお祈りを聖母に申しあげて、今日の必要なもの、更に天主が与え給う最大の御恵みである幸福な臨終という賜物を、お願いさせようとしているのです。信者はこの最も尊い「善き死」を遂げるよう本来祈らなければならないのですが、放っておけば、個々そういう祈りをしようとはしませんよ。
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青年
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「幸福な臨終」といいますと、神父さん、それはどういうことですか?
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神父
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聖寵の状態における臨終のことです。この世を去るに当っていろいろな悲しむべき状況が人の囲りに取り巻くことがあります。しかし、その時に人が聖寵をいただいて天主の子になっていますと、それが本当の幸福な事柄であって、又、天主の変りない愛の印なのです。
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