46 祈祷の必要とその御恵み
神父 
秘蹟は聖籠の与えられる大きな源、方法であるということは、わかりましたね。この秘蹟は、キリストが、その御受難と御死去の御功徳を個々の人々にお伝えになるためにお定めになられたものです。しかし、このほかにもう一つ、カトリック信者であろうと、プロテスタントであろうと、又、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、すべての人がしばしば利用しなければならない聖寵の道があります。それは祈祷です。祈祷ほど大事な務めはありません。人の必要とするものでこれより大きいものはありません。
青年 
神父さんは私によくお祈りしなさいとおっしゃいますが、ついては、お尋ねしたいことが少しあります。
神父 
どうぞおっしゃって下さい。
青年 
では、祈祷が宗教につきものであるのはどういうわけですか。どういう関係があるのですか。
神父 
それは、宗教の行為の中で祈祷が一番普通の、一番自然の行為だからです。
青年 
「自然な」と言いますと、それはどういうことですか。
神父 
それは、祈祷は、敬虔な人が常識上、本能的に行わざるを得ないものであるという意味です。人間の力では及ばないような場合、私達は本能的に「神様どうかあの人を助けてやって下さい」とか、「神様、どうぞ私を救って下さい」と言いますね。時には、自分が今何を言っているのか良く知らないでいることもありますが、しかし、言うという行いは自然な事柄と思われます。いや「自然な」というより、恐らく「人間的」なという方がいいかも知れません。よその人といっしょに同じ自動車で遠方まで旅行しながら、その人と話をしないということは「人間的」ではありませんね。生命はもちろん一切のものを天主に仰いでこの世をわたりながら、卒直に天主にお話申しあげないならば、やはり人間的ではないじゃありませんか。
青年 
ですが、一体天主は、祈祷でどうなさるのですか。
神父 
天主がどうなさるという問題ではありません ----- むしろ、あなたがたがどうするかです。あなたのお祈りは、あなたが希望する通りにたとえ叶えられなくても、お祈りをしたということで、気持はずっと安らかになります。どちらかと言いますと、上手に説明することはむずかしいのですが、次のように考えられましょう。あなたが静かに天主のことを考え、心の中で天主の御許に行き、精神的に天主の御前に脆ずきますと、あなたはこれまでのように天主から遠ざかっていることは、決してできません。あなたはますます天主の御許に接近して行きます。そして、次の世で天主にお会いすることになっているのだということを信じますと、この世で天主に接近して行くことは、必ずあなたの助けになります。楽しみと慰めがあり、人生観が変り、義務を果したいという感じが起り、人生に堪えて行く苦労が軽くなります。
青年 
もし天主が私達の要求を知っていらっしゃるのでしたら、私達は何もそれを天主にお話する必要はないじゃないか、という意見を聞いたことがありますが。
神父 
私達は天主の御存じでないことを天主にお知らせするために祈るのだ、と思ってはなりません。人々の欲するところを知りたいから祈れ、と天主は私達に命じていられるのではないのです。私達の必要なものは、天主はみな知っておられます。そして、こうして下さいと私達が天主にお願いしなくても、御恩召なら、何でも与えて下さいます。ですが、天主が私達に祈祷を御命じになられるには、立派な理由があるのです。私達はお祈りをする限り、自分がどういうものであるか、天主はいかなる御方か、そして私達のためにどういうことをしておられるか、ということを忘れることは決してありません。私達は天主に依存していることを実際にすぐ忘れて、すべてのものに対し自分らの側に権利があるかのように考えます。天主が与え給うも取り去り給うも我々次第であるということは、容易に考えられます。天主は私達に祈祷を命ぜられることによって、私達が天主の御事を忘れるのを防ぎ給い、また天主を私達の創造主、御主として認めることができるようにして下さいます。正しく天主に祈ることは、天主がいかなる御方で、我々はどういうものであるかということを実際に認識することであり、又、これによって、天主に感謝申しあぐべきことが絶えず思い出されるのです。天主は祈祷を命ずることを御要求になりつつ私達の身の上を顧み給い、又、そうし給うことによって、私達が怠惰と忘恩に陥らないように守り給う親切な御父であります。
青年 
祈祷の仕方を知らない人はどうですか。
神父 
理性があって絶対者の存在を確信している人に、そんなことがあるとは一寸考えられません。祈るために勉強する必要はありません。ただ天主に心と精神を向けさえすればいいのです。無教育の人のいう言葉の意味は、あなた方にわからないかも知れませんが、天主は必ずこれを知っておられます。天主は人の考えや気持をお読みになります。
青年 
そういうように私は考えたことはありませんが、たしかにもっともなことですね。
神父 
聖アウグスチノは言っています。「善き祈りを始めよ、然らば汝は罪をやむべし。祈ることを止めよ、されば汝は罪を始めん」と。多くの祈祷書は「天国の鍵」とよばれています。それは祈祷は聖寵と御恵みの宝庫を開くことのできる鍵だからです。祈祷は天主と通信する確かな方法です。丁度私がここからサンフランシスコに通信を送って、あの人口の多い市のどの人にでもそれを届けることができるように、天にまします御父に御通信をお送りして、ねんごろな御返事をいただくことができます。祈祷は無線通信に似ています。そして、丁度無電局の役人が絶えず本部と接触を保っていなければならないように、私達は常に天主と通信しておらねばなりません。ラジオを通じて話し歌われる言葉は、幾千マイルも遠方の人々にも聞えます。同じように、どんなに遠方でも天主はお聞きになれます。天主はいつでも私達の間近におられます。殊に私達が聖寵の状態にある場合は、天主は私達の身近におられます。
青年 
神父さんのお話で、祈祷ということが、すばらしくなりました。
神父 
祈りは、すばらしいものです。祈祷のカと楽しみがわかりさえすれば、人はもっと几張面に祈りをささげることでしょう。
青年 
すべてのお祈りは聞き容れられるということなんですね。
神父 
そうです。正しい思念で唱えられた祈祷には、天主が御応えになります。希望通りの御恵みは得られないかもしれません。又、祈祷の効果を直ちに与えられるということはないかもしれません。しかし、全然祈りが無駄になったのではないのです。いつかは何等かの報いがあります。
青年 
天主の御望みになっておられる祈りの正しい思念とは、どんなことですか?
神父 
天主は、私達がお祈りをする場合、ふさわしい態度と、我々は天主に依存しているという確信と、霊魂の救かりに必要な聖寵に対する希望と、天主の御慈愛に対する信頼と、忍耐とを以って祈ることを求めておられます。
祈祷は必ずしも、私達の期待する通りに聞かれるものではないということに注意して下さい。天主は私達以上に私達の必要とするところを知っておられます。ですから、外見上私達にとってはいいと見えるものでも、実は私達の霊魂の幸福に害になるものは、天主はこれを御聞き容れになりません。
青年 
お祈りは長くなくてもいいのですか。
神父 
かまいません。天主は量よりもむしろ質をお求めになります。
青年 
それから、祈祷は「主祷文」や「天使祝詞」のように教会の認めたものでなければならないのですか。
神父 
いいえ、そういう祈祷は事実天から賜ったもので、教会はこれに最大の保証を与えていますので、非常な価値を持ってはいますが、暗記して覚えている祈祷は、ややもすると気を散らして唱えがちです。ですから、自己流に、たとえば自然に心から湧き出るようにお祈りすることは、悪いことではありません。
青年 
暗記で唱えるお祈りは、もしそこに心が入っていなければ、大した価値はないと思いますが・・・。
神父 
そうですね、散漫が故意によるものでなければ、そのお祈りは価値があります。実際立派なお祈りをするために散漫と戦わなければならない場合は、そのお祈りは非常な努力がいりますので、極めて大きな価値があります。
この機会に一寸あなたに御注意申しあげておきますが、普通、お祈りの始めと終りにする十字架の記号(しるし)を、ぼんやりとしてする癖をつけないで下さい。この記号は祈祷の中に満ち溢れている信仰の心を表わさなければならないのです。「聖父と聖子と聖霊との御名によりて」と言って、三位の神に対する私達の信仰を表わし、十字架の記号を自分にして、天主の御子が人となり給い、十字架上の死を以って私達を贖い給うたという信仰を表わすからです。
青年 
長い聞或る特別の御恵みをお祈りしてそれが得られない場合は、それはこの特定のお願いをやめなければならない、ということですか?
神父 
いいえ、聖人でさえ或る願いが許されるまで幾年もそればかり祈っていました。こういう場合の私達のお祈りは、積み重なり、山のように高くなり、そして、いわば天国を奪い取るのです。
青年 
神父さん、「黙想」ということをおっしゃいましたが、どういう意味ですか。
神父 
それはですね、祈祷に黙祷と声祷の二つの種類があります。声祷というのは、心、精神から出て言葉で話されます。黙祷、或いは念祷の場合は、主のことと主の私達になし給い或いは啓示し給うたことを考えながら心を天主と一致させます。
青年 
一番高尚な祈りの型はなんですか。
神父 
「天主の讃美」です、これは第一に天主の御心を喜ばせることを目的とし、私達自身の利害は第二の問題です。礼拝によりまして、私達は己の小さなことと、天主の偉大にましますことを感じます。そして、私達の愛と忠節を表わします。また私達に対し主が絶対的な支配権を持ち、私達が完全に主に依存しているということを認めます。実に、このことが祈祷の第一の目的であるのです。
青年 
第二に大事な型は何ですか。
神父 
「謝恩」です。天主に日々の生活上、大小のおかげを蒙っていることを感謝し、又、己を天主のもとに置きます。
青年 
そうなると、主として自分のための何か御助力をお願いするというのは、余り高尚なお祈りではないですね。
神父 
その通りです。「恵みを願う」よりももっと高尚な祈祷があります、それは「償いの祈り」です。この祈りにより私達は、天主に背き奉った罪の痛悔を表わし、もっと立派に天主にお仕えしようという決心をします。それから、お願いには霊的なものと現世的なお恵みに関わるものとがあります。霊魂上の御助力を天主にお願いすることは、ただこの世の御恵みだけしかお願いしないことよりも、高く見られています。
青年 
天主から御恵みをいただこうという私の祈祷は、どういう役割を果しますか。
神父 
あなたのお願いの祈祷は必ずその役を果します。天主はあなたに与えるつもりでなかったものを、あなたの祈りに応じて与えようと決められましても、天主の御気持が変ったというわけではありません。永遠の昔から天主は、あなたが求めて祈るという条件の下に、そのものをあなたに授ける、と定めておられたわけです。それ故、あなたの祈りは役割を果すのです。あなたが祈れば天主の定めておかれた条件を満たすことになるのですが、この条件に従うも従わないもあなたの自由です。「求めよ」----- ここに条件があり、-----「されば与えられん」----- ここに約束があります。
青年 
人間は、とかく、この世の御恵みをお願いしてお祈りしているのでないでしようか。
神父 
その通りです。ですから、仲々、祈りが天主に聴き容れられないのです。多くの人の祈りは困ったときの神頼みです。天主の御光栄や、自分の霊魂については無頓着です。この世のことが万事順調に行っている間は、天主や天主の御恩をすっかり忘れているのです。
青年 
そのくせ、お祈りがすぐに聴き容れられませんと、一番やかましいんですね?
神父 
全くです。この次にお話しますが、主祷文では天主の御栄えが先きで人間の望みは後廻しになっています。また霊魂の救いは物質的な必要よりも先に考えなければなりませんよ。
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