44 キリスト信者の婚姻は秘蹟
神父 
まだ結婚していない人は誰でも、婚姻に対する各教会の態度を熟知するようにしなければなりません。殊に、最古のキリスト教会であるカトリック教会は ----- 千数百年もの間一切の婚姻の問題を扱って来たのですが ----- 婚姻をどういうふうに考えているかということを、知ろうと望まなければなりません。
青年 
本当です。大概の人は早晩、結婚生活に入るのですからね。で、カトリック教会は婚姻をどういうふうに見ていますか?
神父 
教会の教えでは、婚姻は一つの秘蹟です。即ち洗礼を授かっている男子と女子は、婚姻の秘蹟で一生結ばれ、各々の義務を尽す上に必要な聖寵を授けられることになるのです。教会は、婚姻の絆は天主御自らがお作りになったもので、婚姻当事者双方は、どちらかの一方が死ぬまで、この絆で縛られている、と教えます。私達の国では離婚が広く行われているので、離婚も婚姻と同じように当然のことだと考えられ勝ちです。
青年 
天主が婚姻の設定者にましますことは、聖書にのっていますか。
神父 
のっていますとも。創世記の第二章第二十二節から第二十四節に、天主はアダムとエワを合して「二人一体」になし給うた、ということがのっています。それから、マテオ聖福音書の第一九章第六節とマルコ聖福音書の第一〇章第九節に、正しく婚姻を行う二人を「配(あわ)せ」給う御方は天主にてまします、とキリストがおっしゃったことがのっています。
青年 
キリストがお出でになるまでの婚姻は秘蹟でしたか?
神父 
違います。それは単に自然的な婚姻にすぎません。洗礼を授った人だけが秘蹟をいただくことができるのでして、その洗礼はキリストがお定めになったものです。
青年 
では、婚姻は洗礼を授った人にとって秘蹟なのですね?
神父 
そうです。妻の生きている限り夫は他に妻を持つことはできない、妻も夫の生きている間は他に夫を持つことを得ぬ、と主ははっきりと、力強く言われました。「されば既に二人に非ずして一体なり、故に神の配せ給いしもの、人これを分つべからず」(マテオ一九ノ六)、「誰にても妻を出して他に娶るは、これかの女に対して姦淫を行うなり」(マルコ一〇ノ一二)、「総て妻を出して他に娶る人は姦淫を行う者なり、又夫より出されたる婦を娶る人は姦淫を行う者なり」(ルカ一六ノ一八)とあります。又、使徒パウロは「婦は夫の活ける間繋がるれども、夫永眠すれば自由なり」(コリント前七ノ三九)と言っています。
青年 
それでは、どんな理由がありましても、夫婦の別居は許されないのですか。
神父 
正しい理由があれば夫婦の別居は許されます。しかし、再婚する権利は認められません。聖マテオ(五ノ三二)は別居の理由に、不貞を挙げています。このことを、そういう理由があれば絶対的な離婚も許されるというような意味に解釈する人もいます。しかし、先程引用しました別のはっきりした言葉によりまして、聖マテオの言は夫婦の別居だけに関係しているということが証明されます。離婚後に再婚する権利は、使徒の時代から一六世紀までは、キリスト信者の間で全然許されませんでした。英国王へンリー八世が自分の正当な妻を追い出してほかの女と結婚する許可が与えられなければ、国を挙げてローマの教皇と手を切ると言っておどかしましたが、その時でも、教皇はその要求を拒絶しました。天主の明らかな御旨がある以上、教会はそれ以外に仕様がなかったのです。
青年 
それでは、民法によって、協議上の離婚や裁判上の離婚をして、正当な婚姻を解消させることは信者としてはいけないわけですね?
神父 
もちろんいけません。天主の御前でなした正しい婚姻は、その婚姻を無効にすると規定したどんな法律がありましても、やはり正当な婚姻です。教会だけが秘蹟を定め、また洗礼を受けた人に関する聖なる事柄について権威を持っているのですから、洗礼を受けた人の婚姻を取り締る法を作る権利は、教会だけにしかありません。
青年 
国家はこの問題について権利を持っていますか。
神父 
洗礼を受けた人に関する限りでは、国家は婚姻の民事上の登録、証明書などだけについて法を定める権威があります。
青年 
外国でも離婚は沢山あるのですか。
神父 
いいえ、或る国では婚離を全然認めていません。
青年 
カトリック教会は、司祭の行わぬ結婚はいかなるものもこれを正当なものとしては認めない、というのは本当ですか?
神父 
いや、そんなことはありません。教会は信者だけに通用する法を作るのです。婚姻は信者にとっては秘蹟ですから、信者は司祭の面前で結婚するのが当然ですが、司祭は秘蹟たる婚姻に立ち会う役目です。
青年 
司祭が婚姻に「立ち会う」といいますと、それはどういうわけですか?
神父 
司祭はその秘蹟の施行者ではなく、単に教会の公式の証人にすぎないという意味です。花婿と花嫁がお互いにこの秘蹟を行います。 
青年 
結婚した夫と妻との主な義務は、先ずどういうものがありますか。
神父 
夫婦の主な務めは、結婚そのものの目的によって決まっています。夫婦はお互いに、貞節でなければなりません。それから、天主がお与えになる子供のために、あらゆる準備をしなければなりません。
青年 
結婚しようと思うカトリック信者は、どうしなけばなりませんか。
神父 
信者は、教会で引き続いて三回日曜日に婚姻の予告(公示)をしてもらうために、婚姻の予定日の少なくとも三週間前に、教区の司祭のところに行かなければなりません。それがすんでから、二人の証人の前で、教区の司祭によって婚姻が行われるのです。
青年 
男女がそれぞれ違った小教区に属している場合はどうですか。
神父 
その場合は、予告は両方の教会で公表します。しかし、結婚式は花嫁の方の教会でするのが原則です。本当は、右の予告はその人がそれまでに六ヵ月の間住んでいたすべての場所の教会でしなければなりません。
青年 
どうしてですか。
神父 
それはその人が結婚するに障げがないかどうかという情報を集めるためです。当事者の一方が既に結婚していたり、離婚していたりしていれば、新しい結婚に障げとなりますが、婚姻を行ってほしいという依頼を受けただけでは、司祭は、その障げの有無につき当事者自身の言葉のほか何の証拠もありませんから、こうして公示して、障げのないことを確めるのです。
青年 
結婚式は必ず午前中に行われるのでしょうか。
神父 
教会は、信者が「婚姻のミサ」にあずかって結婚することを望んでいますから、その場合もちろん、午前中になります。
青年 
結婚式のすぐ後で御ミサにあずかるということは、実にすばらしい考えですね。
神父 
夫婦がただ御ミサにあずかるというのではなく、本人同志のためにその御ミサが奉献されるのです。イエズスが祭壇にお降りになりますと、この結婚が祝福されます。そこで、永遠に幸福なるものになし給うよう、主にお願いをするのです。その上、新郎新婦は断食をして、その朝の最初の糧としてイエズスの御体即ち聖体拝領します。
青年 
たしかにそういう婚姻は、イエズスが祝福なさったカナの婚姻に似ていますね。
神父 
カナの婚姻どころではありません。あの当時の婚姻は、キリストによって秘蹟にまでまだ高められていませんでしたし、又、御聖体を以ってあの夫婦は養われるということもなかったのですからね。今日のカトリック信者の夫婦は、聖寵の状態において婚姻をします。この秘蹟は成聖の聖寵をまし、そして夫婦が互いに誠実に愛しあい、相互の欠点にたえ、子供を正しく育てていく上に特別のおめぐみが与えられるのです。
青年 
これ以上望むところもないほど素晴らしいですね。私は、それ以外の方法では結婚したいとも思いません。もう一つお尋ねしたいことがあるのですが、かまいませんか。
神父 
どうぞ。
青年 
神父さんは、司祭が結婚しないわけを話して下さいましたが、修道女もやはり結婚しないのでしょう。
神父 
ええ、しません。修道女は一生純潔な童貞として送るという誓願をたてています。これは、自分をキリストに奉献して、老人、貧者、孤児達のために、学校や病院などで主に生涯お仕えするという理由からです。
青年 
修道院に入っていない普通の信者が、天主にお仕えするために、一生をお捧げするのでしたら、独身でいるということはいいことだと思いますが、どうでしょうか。
神父 
そうです。天主を愛し奉るためにする童貞の状態は、婚姻よりもすぐれた状態であると、聖パウロは言っています(コリント前七ノ三八)。又、第三十四節の中で、「婚姻せざる女と童貞女とは、身心共に聖ならんために主の事を思い、婚姻したる女は、如何にしてか夫を喜ばしめんかと、世の事を思うなり」と言っています。
《ページ移動のためのリンクはにあります》
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ