43 品級、キリストの御事業を継ぐための秘蹟
神父 
今晩は、今まで述べた大抵の秘蹟を授ける権能を人に附与する大事な秘蹟について、少し研究しましょう。この秘蹟は「品級」といわれています。
誰も神から権能を委任されなければ人の罪を赦す権限はありません。また何人もキリスト御自身から権能を与えられない限り、パンと葡萄酒をキリストの御体、御血に変えることはできません。そういうわけで、特別の権能を授ける秘蹟をキリストはお定めにならなければならなかったのです。この秘蹟によりまして、主の救世の御事業を行って行くために必要な超自然の権威と権能が与えられます。この秘蹟の授与は司教によって行われます。
青年 
そうですとも、自分で司祭になったり、罪を赦したりするようなことは、誰もできないはずですよ。
神父 
もちろんできません。「汝等が我を選みたるに非ず、我こそ汝等を選みて立てたるなれ」(ヨハネ一五ノ一六)とキリストは使徒達にいわれました。又、聖パウロは「又神に召されたる事アアロンの如くならずしては、何人もこの尊き位を自ら取る者なし」(ヘブレオ五ノ四)といっております。
青年 
キリストはいつ品級の秘蹟をお定めになられたのですか?
神父 
最後の晩餐の時で、キリストは「メルキセデクの状(さま)にひとしく」司祭職を行われました後で、「我が記念としてこれを行え」と、同じことを行う権能を使徒達に与えられました。それから、御復活になった日に「汝等誰の罪を赦さんもその罪赦されん、誰の罪を止めんもその罪とどめられたるなり」と、主の御名において罪を赦す権能を使徒達に授けられました。最後に御昇天のすぐ前に、主の御名において教え洗礼を授ける権能を使徒達に与えられました。
青年 
使徒達がほかの人に品級を授けましたということは、何か記録がありますか?
神父 
あります。事実、相つづく四代の司祭のことが新約聖書にのっています。使徒行録の第一三章第三節に、使徒達(第一代)は司教のパウロ(第二代)とバルナバに按手したことがのっています。それから、チモテオ後書の第一章第六節に、パウロはチモテオを同じ位に登用したといっています。次にパウロはチトに手紙を送って「我汝をクレタ(島)に置きしは、・・我が汝に命ぜし如く町々に長老(四代)を立てしめん為なり」(チト一ノ五)といっています。使徒行録の第一四章第二二節も見て下さい。
青年 
この秘蹟はどういうふうにして授けますか?
神父 
極めて感銘深い儀式をあげて、司教が(使徒の正当の後継者である司教だけが)叙品の志願者に按手し、同人の上に聖霊の来り給わんことを乞い、その手に注油し、ミサ聖祭の時に使用する聖器とミサ典書を贈り、そして生ける者と死せる者のためにミサを挙げたり、罪を赦したり、祝福したり聖別したりする権能を授けます。
青年 
品級の準備期間はどれくらいの長さですか?
神父 
普通十二年です。
青年 
何才にならねばこの秘蹟を授かることはできませんか?
神父 
二十四才です。
青年 
それでは、志願者はかなり若い時に勉強を始めなければなりませんね?
神父 
もちろん二十四才以後は何才でも品級を授かることはできます。しかし、小神学校を卒業して直ぐ司祭になる勉強を始めれば、忍耐と徳操の発達は、叙品の日までに自然に又容易なものになりましょう。
青年 
それ以外に何か必要なことがありますか。
神父 
あります。司教によって聖職へ選び出されなければなりません。一生涯を聖職に献げるという意志がなければなりません。この秘蹟は成聖の聖寵を増し加え、また、この聖職につけば天主の御助力をいただく秘蹟的恵みが与えられますので、この秘蹟を授かる時は、もちろん、聖寵の状態にいなければなりません。
青年 
神父さんはこの前、品級は永久に変らぬ資格を与える、とおっしゃいました。
神父 
そうです。一度司祭になれば常に司祭です。この資格はキリストの司祭職に特別に参加することで、この講義の初めにお話しました司祭としての特別の権能をその司祭に与えます。
青年 
司祭としての義務の中には、どういうものがありますか。司祭は独身でおらなければならないということは、もちろん私も知っていますが。
神父 
そうですね。独身の義務につきましては前にお話しました。この外に、司祭は聖務日課を毎日読まなければなりません。
青年 
それはどういうことですか。
神父 
この本は詩篇や聖書の文や、祈祷、聖人伝の美しい教訓などを集めたものです。これだけで司祭の時間は毎日一時間以上とられます。司祭は、日曜ばかりでなく、普通の日でも毎日ミサ聖祭をあげます。そして、その前後に自分だけの黙想と祈りがあります。
青年 
それはまたどうしてですか。
神父 
司祭は御ミサの時いつでも御聖体を拝領するからです。
青年 
司祭の義務はこのほかにどういうものがあるのですか?
神父 
この外に義務はたくさんあります。たとえば、病人の求めがあれば、いついかなる時でも、どんな病人の所へでも、危篤の人が絶対人から隔離されていましても、すぐ行かなければなりません。又、大きな教区では、毎土曜日の数時間は、ほかの日でも、告白を聞かなければなりません。外教者の人達はどういうふうに考えるか知りませんが、これはたしかに司祭の重荷です。司祭はいろいろなこの世の楽しみを断念しなければならないことはいうまでもありません。
青年 
司祭は自ら天主の御事業に奉献しておられるのですから、重い責任を感じておいでになるでしょうね?
神父 
その通りです。司祭は自分の手に委ねられた霊魂に、或る程度の責任を感じています。そして、そのうちの一つでも徳の道から離れますと、心を痛めます。ですが、もちろん、司祭は豊かな慰めを持っています。
青年 
カトリック信者が司祭をキリストの代理者として尊敬しているわけが、今わかりました。
神父 
そうです。信者はそうしなければなりません。司祭は非常に手不足なので、信者の助けがなければその受け持っているすべての人に、キリストとキリストの教会の教えを伝えることが困難ですから、信者は司祭の仕事に関心を持たなければなりません。
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