42 終油、死に臨んだ人のための秘蹟
神父 
カトリックの教会は人が生れてから死ぬまでの間、いろいろな御恵みを施す聖なる手段(秘蹟)を持っています。即ち誕生後直ぐに赤ん坊に洗礼の秘蹟を授け、一生の間、教会の子の霊的世話をした後、いよいよ医者が危篤と診断しますと、教会はよく「最後の秘蹟」といわれる秘蹟をその人に授けます。これは「終油」といわれる秘蹟です。
この秘蹟の場合、司祭は病人にオリ−ヴ油を塗りますが、この聖油は、年に一度司教がこの秘蹟に使用するために祝別しておいたものであります。この聖油を使って司祭は、病人の閉じた目と耳と鼻、口、手、足に十字架の記号をし、塗りながら、この身体の各部分を以って犯したどんな罪をも天主がお赦し下さいますようにというお祈りをします。
青年 
「終油」という言葉はどういうことですか。
神父 
その言葉そのものがこの秘蹟の本質を表しています。「終」というのは、「一番終り」という意味で、「油」というのは「油を塗る」、油でこする、という意味を表わしています。
青年 
病人に油を塗るという行為は、聖書の中にも何かのっているのですか。
神父 
のっています。聖ヤコブの書簡(五ノ一四〜一五)に「汝等の中に病める者あらんか、その人は教会の長老等をよぶべく、彼等は主の御名によりて注油し、これが上に祈るべし、かくて信仰の祈りは病者を救い、主これを引き立て給い、もし罪あらば赦さるべきなり」とあります。
青年 
しかし、危篤の人のために祈ったり注油したりするのに平信者の人を招かなければならないというのは、どういうわけですか、わかりません。[1]
神父 
プロテスタント側の聖句は、カトリックの方で「長老」(プレスビターズ)とか「司祭」(プリ−スト)というところを、「長老」(エルダーズ)とよんでいます。この場合のギリシャ語は「プレスビテロス」というのですが、これが「司祭」という意味であることは、初代キリスト教の儀式の「司祭職」を「プレスビテラツス」といったという事実からして明瞭です。こういう説明は教理を勉強中の人にとりまして多少うっとうしいことかも知れませんが、いつか議論が起きたような場合に、役立つことがありましょう。
青年 
そうしますと、終油を授けることができるのは、ただ司祭だけなんですね。
神父 
そうです。
青年 
またどういうわけで、この秘蹟に油が選ばれたのですか。
神父 
それは丁度油が体に作用するように、終油は霊魂の上に働くからです。油は力を強め又回復します。福音にある「善良なるサマリア人」は、強盗の手に陥った人の傷に油を注ぎました。
青年 
この聖ヤコブの書簡の句は、終油の秘蹟は人の肉体上の治療もするという意味を含んでいるようですね。
神父 
そういうことも時にはあります。これはすべての司祭と多くの医者が実際に経験しているところです。しかし、その本来の目的は、霊魂を治し強めて永遠の準備をさせることであります。これは成聖の聖寵を増し誘惑に対するカを与え、小罪を赦し罪の汚れを清めます。ですから、もし天主の御思召でその人が死ぬようなことがありますと、それは死の準備になり、又、その人を治し給うことが天主の御心である場合は、健康の回復を早めます。
青年 
それで、カトリック信者は、終油を授かるために司祭が呼ばれましても、自分は必らず死ぬのだと思う必要はないのですね。
神父 
全然ありません。カトリック信者の中には、そういうふうに考えている人もいまして、家の者が司祭を呼ぶのがみすみす手遅れになることがあります。
青年 
病気がどの程度になったら終油を授けなければならないのですか。
神父 
医者が病気の重態を宣告したら、たとえ医者に病人を治す見込がありましても、直ぐしなければなりません。
青年 
しかし、危篤の病人だけが授かるのですか。
神父 
そうです。病気、災害、老年などのために死にかかっている人だけが受けられます。しかし、これ以外でも、たとえ死の危険がはっきりしておらなくても、重い病気のときは、司祭に病人を見舞ってもらうことは、いいことです。病人を見舞ってその必要とする秘蹟を授けることは、司祭の義務になっています。
青年 
人が思いがけなく突然死んだような場合はどうなりますか。
神父 
そんな場合は、死が明らかに起ってから暫くの間は、条件つきで(即ち、霊魂が肉体を離れてしまっていないならという条件で)罪の赦しと終油を授けることができますから、必ず司祭を呼ばなければなりません。
青年 
この秘蹟を授かるためには、何才になっていなければなりませんか?
神父 
終油は告白の行いを完全にさせるものでありますから、罪を犯し得る人は誰でも、この秘蹟を授からなければなりません。普通、病人は苦しみや半ば無意識のために、完全な告白をすることができません。そして、終油は、病人が罪を不完全に痛悔するような場合に、本人の告白し得ない罪を赦します。
青年 
同一人は終油を一回しか授かれないのですか。
神父 
同じ病気の場合はただ一回だけです。しかし、万一病人が回復してまたあとで重くなった場合は、終油の秘蹟をくりかえしてもかまいません。
青年 
この秘蹟を授かるために病人はどういう準備をしなければなりませんか。
神父 
できれば立派な告白をして、天主に対する信、望、愛を新たにし、天主の御旨に自分を任さなければなりません。
青年 
この外に教会は、危篤の人に対して、なにか助けを持っていますか?
神父 
あります。教会は「最後の祝福」という全贖宥を授ける権能を司祭に与えています。しかし、これは病人が治りますと、その効力はなくなります。危篤の人はこの御恵みを授かってから、十字架に接吻をし、できれば声を出して、でなければ少くとも心の中で「イエズス」の御名を唱えます。
青年 
終油のために、病人の部屋で何か準備しておかねばならないと思いますが?
神父 
そうです。清潔な布をかぶせた台かテーブルを病床の近くに置き、そして、このテーブルの上に火を点したローソクと十字架、聖水、それから、少しばかりの塩か、パン又は綿の一片を置きます。
青年 
パンや綿はどうするのですか。
神父 
これを使って司祭は拇指についた聖油を拭い去り、その後で綿やパンを燃やすのです。
青年 
終油の直ぐあとでは聖体を拝領するのですか。
神父 
すぐ後でとは限りませんが、そうします。終油を午後か夜授けて、翌朝に聖体拝領をすることもあります。
青年 
御聖体が病人のところに奉持されて来る時は、家庭ではどんな準備をしますか。
神父 
テーブルを終油の時と同じようにしておきます。しかし、この場合は、パンと綿は不要ですが、コップ一杯の水と、さじを一つ、それから、病人のあごの下に置くナフキンがいります。
青年 
水とさじはどうするためにいるのですか。
神父 
水が一杯入っているコップの中で、司祭は御聖体にふれた拇指と人差指を清めるのです。この水は、あとで病人が頂きます。
管理人注
[1] つまり、青年は、「長老」は「平信者」だと思っている。
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