41 贖 宥
神父 
今晩は「贖宥」という問題について講義をします。この問題は非常に誤解されていますから、始めに、カトリックでない人が贖宥について、どんなに間違った考えを抱いているかということをお話するのが一番判りいいでしょう。
青年 
その人達はその教会の教えをどういうように取っているのですか?
神父 
多くの人は、贖宥は金によって与えられる罪の赦しである、と思っています。又、罪を犯すための免状であるというように取っている人さえいます。
青年 
そんな話を私も耳にするのですが、神父さんはそういう考えを持っている人が本当に沢山いるとお思いですか?
神父 
ええ、本当に居ますよ。近頃或る老牧師が、この人は三五年間説教をして、現在引退牧師として年金を貰っている人ですが、私に大抵のカトリックでない人々は「贖宥とは、代金を払って与えられる罪の特免である」と定義しているということを話してくれました。
青年 
どういうわけで、その人達はそんな誤解を持つようになったのですか?
神父 
そうですね、いわゆる一六世紀の宗教革命は贖宥の売買と取り引きが原因になって起ったといわれています。そして、贖宥は現在でも引き続き販売されていると、その人達は思い込んでいます。それから、「贖宥」を裏から云えば、「過度の譲歩」「特別のひいき」「免許状」であると彼等は考えています。ですから、これは、献金して罪を犯してもかまわない免許状を貰うことだと思っています。
青年 
神父さんはこの攻撃に対して、どうお答えになりますか。
神父 
贖宥、即ちラテン語の「インドゥルジェンチア」という言葉の宗教上の意味は「赦し」ということですが、罪の赦しということではありません。ましてや、罪の特免ということではありません。事実、贖宥は、罪とは直接関係は全然なく、罪は悔悛の秘蹟をふさわしく授かることによって既に赦されているのです。贖宥は、罪の赦しではなく、既に赦された罪に対する有限の罰を(悔悛の秘蹟以外に)公教会が免除することであります。
青年 
罪が赦された後でもやはり在るという「有限の罰」は、どういうものですか。
神父 
一つの場合を考えてみましょう。かりにあなたが大罪を犯したとします。その結果あなたは永遠の罰を受けなければなりません。しかし、あなたは心から罪を痛悔して告白をなさいますね。
青年 
そうです。
神父 
立派なその告白により、大罪は赦され、大罪に対する永遠の罰も赦されます。しかし、もしあなたの痛悔に、天主の望み給うような熱心と深さがありませんと、恐らく天主は御不快に思召して、小さな不幸をお降しになるか、(或いは告白後にあなたが死なれた場合)一時煉獄で罰をお課しになります。これがあなたの罪に対する「有限の罰」です。その有限の罰は、償いを完全に果すこと、善業、祈りなどを為すことによって除けます。ですが、教会は、あなたの罪を完全に消すために、「贖宥」を以ってあなたの霊魂にキリストの御功徳を施します。この事実は、聖書の中にある例によって、もっとはっきりします。ダビド王の詩篇は、本人が犯した二つの大罪に対する痛悔のほとばしりなのですが、王は、自分の罪は赦されるが、しかし、その子供は奪われるという天主の御知らせを、預言者ナタンの口を通じて受けました。これは罪を痛悔し、これを赦された後の彼の有限の罰だったのです。
青年 
この世で有限の罰が行われなかった場合や、償い、善業によって取り除かれない場合は、煉獄で課せられるのですね。
神父 
そうです。教会が霊魂に贖宥を与えて、キリストの御功徳を施さなければ、そういうことになります。
青年 
贖宥は告白の時に与えられるのではありませんか。
神父 
いいえ、教会は或る善業や祈りに贖宥を附けています。その贖宥を受ける望みを以って、聖寵の状態にある人や、そうでなくともふさわしい心の人が、その贖宥に定められている事柄を守ると、贖宥の効果が生じます。贖宥に、全贖宥と分贖宥があります。即ち、有限の罰を悉く赦すのが全贖宥であり、また一部だけを赦すのが分贖宥と云われています。分贖宥は普通、色々の祈りに附けられていますが、全贖宥のほうは、御聖体を拝領し、教会に参詣し、そこで天主のこの世における御事業の成就をお祈りするということが、殆どいつでも必要であるとされています。殊に、それが教皇の御恩召しである場合はそうしなければなりません。
青年 
そういう条件に従えば、必ず全贖宥がいただけますか?
神父 
そうばかりとは限りません。有限の罰の原因である罪に少しでも心を引かれているか、痛悔が十分に深くありませんと、全贖宥を完全にいただくことはできません。
青年 
贖宥は人の罪がすっかり赦された後にはじめて得られるのですから、死ぬ前に全贖宥が実際に得られますと、その人は煉獄を免れて、真直ぐに間違いなく天国に行けると思いますが?
神父 
そうです。
青年 
他の人のために贖宥をいただくことができますか?
神父 
生きている人のためには贖宥をいただくことはできません。しかし、教会は、大部分の贖宥を煉獄の霊魂に譲ることを認めていますので、その煉獄の霊魂のために贖宥をいただくことはできます。
青年 
それから、贖宥にお金を払うことはありませんか。
神父 
いいえ、ありません。前にもお話しましたように、償いの業や祈祷、御聖体の拝領、教会への参詣などが贖宥を授かるための条件に挙げられています。それから、施しは天主の嘉し給う行為であると聖書の中で勧めていますので、施しを行うように求められるかもしれませんが、しかし、それは贖宥の代償ではないのです。
罪の告白と痛悔をしない人は、どれほど祈祷や施し、善業をしましても、贖宥をいただくことはできません。いわゆる宗教改革者が教会を攻撃するための材料にする「贖宥の取引」という問題について、ここで反駁してみましょう。ヨーロッパが全部カトリックだった十六世紀の初めに、教皇レオ十世は、キリスト教世界の首府にふさわしいような大天主堂を、ローマに建立する決心をなさいました。教皇は全ヨーロッパのカトリック信者にわずかな献金をお願いになり、この事業の成就のために祈りをし、告白と聖体拝領をふさわしく行い、大天主堂の建立に施しをするすべての人に、全贖宥を与えることを発表されました。現代の教養あるカトリック信者は誰でも、どれ程大きな施しを行ったとしても、その前に告白と聖体拝領をしていなければ、贖宥を戴くことはできないということを知っています。
すでに申し上げましたように、今日でも教会にお参りするというような善業が、告白と聖体拝領の後でありましても、全贖宥を授かるために必要です。聖ペトロ大聖堂の例で特に挙げられた善業は施しでしたが、貧しい人は他の種類の善業を行うことによって全贖宥が得られると、その教皇の回勅にはっきり述べてありました。
青年 
プロテスタントの牧師さんが、全能の神様は国内外の伝道事業に寄附する人々に、特別の御恵みと祝福を与え給うということを、よく発表しますが、聖ペトロの大聖堂建立の問題も、それと非常に似たところがありますね。
神父 
全く似ています。ところで、「贖宥が売られていた」ということを、なぜ非カトリック側が言い張るような事態になったかを、説明しましよう。その当時は電信もなければ、教皇の御計画と御意向をヨーロッパの国民に徹底させる日刊新聞もありませんでした。この事を徹底させるためには、説教師を多数各国に派遣しなければなりませんでした。ドミニコ会修道院長のヨハネ・テッツェルという人が、命を受けてドイツで贖宥のことを宣べたのですが、教養のないカトリック信者は、施しの代償として贖宥が与えられると思ったかもしれません。テッツェルが自分の越権行為をなしたという議論も成り立つかもしれませんが、そうだとしても、それは教会そのものの意図ではありません。アウグスチノ会の司祭ルーテルが誓願を破ってまで教会を攻撃したことは、少しも正当視できません。
青年 
そうですね。ヨハネ・テッツェルはカトリック教会そのものじゃないのですからね。
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