39 悔悛の秘蹟を聖書で証明
神父 
キリストが教会に罪を赦す権能をお授けになられたことを、あなたは大体信じておいでになるようですから、この点に関する聖書上の典拠をお話すれば一層はっきりなさるでしょう。
青年 
どうぞお話し下さい。
神父 
ヨハネ聖福音書第二〇章の第二一、二二、二三節に、御復活の日、救世主は使徒達に御現れになって、それまでに一度もお使いになったことのない、「汝等安かれ」という御言葉を使徒達に述べ給うた、ということがのっています。救世主はもう一度「汝等安かれ」と御会釈を賜って、「父の我を遣わし給いし如く、我も汝等を遣わすなり」と、大きな使命を使徒達にお授けになりました。 
青年 
本来、キリストは人を天主に一致させるために、御父からお遣わされになったのですか?
神父 
そうです。主の御出生をヨゼフに知らせた天使は、「汝その名をイエズスと名づくべし、そは自ら己が民をその罪より救うべければなり」(マテオ一ノ二一)と申しました。主は、御言葉と喩えで以ってこれを明らかにされました。「それ我が来りしは義人をよぶために非ず、罪人をよぶためなり」(マテオ九ノ一三)、「けだし人の子は失せたる者を救わんとて来れり」(同上一八ノ二)と言っておられます。又、「放蕩息子」や「慈善なるサマリア人」「善き牧者」などの喩えの中で、主の御使命は個々の罪人を悔い改めに呼んで、その罪を赦すことであると教えられました。キリストはマグダレナのマリア、ザカリア、悔い改めた盗賊、井戸端のサマリアの女というように、ただ個人だけをお赦しになりました。
青年 
それがキリストの第一の御使命で、主はこれを使徒達にお授けになったとはっきり言っておられるのでしたら、それで問題は落ちつかなければなりませんね。
神父 
たしかにそうです。しかし、先程引用しました御言葉の直ぐ後にあるもっとはっきりしたキリストの御言葉は、一切の疑問を消してしまいます。聖ヨハネは前に引き続いて、「かく曰いて、息吹き掛けて曰いけるは、聖霊を受けよ」と言っています。私の考えでは、これは非常に意味の深いものでありますから、カトリックでない人達は、キリストが悔悛の秘蹟を御制定になりました意味を、目をつぶって考えなければなりません。聖書に、天主は新しく作り給うたアダムの体に生気 ----- 霊をふきいれたもうた、ということがのっています。キリストは使徒達に息をお吹きかけになって、聖霊をお授けになったのです。事実、主は彼等に息吹きかけながら、「聖霊を受けよ」と、こうはっきり言っておられます。これは明らかに神授の使命を果す権能を彼等に与えることだったのです。そして、この御言葉と御行いに引き続いて、「汝等誰の罪を赦さんもその罪赦されん、誰の罪を止めんもその罪止められたるなり」という権能が、明瞭に授けられたのです。こういうはっきりしたイエズスの御言葉を以ってしてもなお信じない人は、意識的に信じようとしないのです。
青年 
キリストは事実そういう権能を使徒達に授け給うたが、後代の司教や司祭には授け給わなかったという人達と、私は議論をしてみたいですね。
神父 
使徒の後継者が「司教」や「司祭」と呼ばれましても、又、ほかの名義で呼ばれましても、一体どんな違いがありますか? キリストが悔い改めた罪人を赦す御業を、世の終りまで続けさせようと思召されたことは確実です。使徒達が死んだ後他の者がこの務めを継がなければなりません。そうしませんと、キリストの教会は一代の人々の間にしか続かず、罪は使徒達の死と同時に終った、という変な結論になるでしょう。
青年 
罪という病気がこの世にある限り罪を治す方法もずっと続かなければならない、ということは明らかなことですね。これは世の終りまで続くと考えられます。天主の御名において罪を赦すという権能は、そのまま後まで残って、正当に叙任された人達によって引き続き行われるということは、私にはよくわかります。しかし、罪の告白は、どういうふうに行われるのですか?
神父 
この権能は、罪を赦し、或いは罪を止める(即ち赦すことを拒む)という権能であることに十分注意して下さい。即ち、これは人の罪を赦すということが適当であるかどうかという判断に従って、その罪を赦したり、赦すことを控えたりすることです。このことは、赦す者は自分がどういう罪を赦すのかを知らなければならず、又、罪人の気持、罪人の将来に対する覚悟、罪によって人に与えた害を償おうとするその人の意志を知らなければならないということを意味しています。こういうことは当の罪人を別にしては、誰もこれを他人に知らすことはできません。罪と罪に対する痛悔は、心の奥底から出るものです。
ところで、告白ということは旧約時代から存在しています。それはキリストの御定めになった悔悛の秘蹟ではありません。罪の告白という習慣です。これはその時代でも罪の赦しの条件だったのです。民数記略の第五章第一節から第七節までに、「エホバまたモイゼに告げて言いたまわく・・・男または女もし人の犯す罪を犯し・・・たらば、その犯せし罪を言いあらわし、その物の代価にその五分の一を加えて、これを己が罪を犯せる者にわたしてその償いを為すべし」ということがのっています。
青年 
そういうことは全然知りませんでした。
神父 
これは教会がずっと信じて行って来ていることです。これはキリストが重要視なさったからです。大罪を犯した場合それを告白することは、永遠の救霊のために欠くことのできない条件です。これであなたの御質問の答えになりますかね?
青年 
ええ、なります。
神父 
あなたは、カトリック信者が罪の赦しを得るために、お金を払っているという噂をお聞きになったことがありますか?
青年 
ええあります。しかし、神父さん、私はそんなことを信用するほどの馬鹿ではありません。
神父 
それから、カトリック信者は告白しに走って行って罪の赦しを受けては、又新しい罪を犯すために飛び出す・・・丁度、子供が石板に一杯絵を書いては消し、又一杯書くようなものだ、という批判をお聞きになられたことがあると思いますが?
青年 
そういう話は聞いたことがあります。又、前以って罪が赦されるとか、罪を赦す免状が教皇や司祭から与えられるというような話も聞きました。
神父 
そう、それは「贖宥」のことを非常に多くの人が誤解して、そう云いふらしているのです。このことは次の講義の時にいろいろお話します。
ところで、この驚くべき秘蹟の効果について今御説明します。あなたはこの秘蹟を授かりますと、成聖の聖寵と罪の赦しが与えられます。又、大罪があった場合、その罪の結果の永遠の罰は赦され、そして、少なくとも罪の結果であるこの世の罰の一部分が許されます。この秘蹟を通じて頂く天主の聖寵によりまして、将来の罪を避けることができます。その上、霊的な助言と教えを司祭から受ける機会が与えられるのです。
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