38 悔悛の秘蹟とその理由
神父 
ところで、私達はこれから信者でない人々が一番わかりにくいと言っている秘蹟を少し研究しましょう。そういう人達は「なぜ人は、天主に対して犯した罪を司祭に告白しなければならないのか」と不思議に思っています。
青年 
告白は秘蹟の一部であること、及びすべて秘蹟は正当に叙品されたキリスト教会の司祭によって施されるものであるということを、前に教わっていませんでしたら、私もそういう教えはなかなか納得できないでしょう。
神父 
普通カトリックでない人々は、洗礼後に犯した罪を取り除く秘蹟(悔悛)をキリストがお定めになったということに同意しません。
青年 
もし主が原罪と洗礼前に犯した罪を取り除く秘蹟(洗礼)をお定めになられたのでしたら、洗礼後に犯した罪を取り除く秘蹟をお定めにならないというわけがありましょうか?
神父 
実際そうですね。しかし、カトリックでない人達は、あなたの説に対抗して、「告白が必要であれば、それは天主に対するものであって、人に対すべきものではない」という返答をするでしょう。ですが、これはもっともな疑問です [1] 。天主はいつも、人を扱うに人を以ってする御方針です。昔天主はイスラエルの太祖達を通じて、人に啓示をお授けになりました。即ち太祖たちはこれを一般の人々に伝えることを委任されたのです。天主はモイゼに十誡をお授けになり、これを民に知らしめるようモイゼに命ぜられました。また天主の御子は人類の中に教会をお建てになるために「人の子」になられました。キリストは天父より遣わされた「人の子」として、人類の罪を赦し給えり、と聖書にはっきりのっています(マテオ九ノ五〜六)。サウロが奇蹟的に回心して、主がこれにみ言葉をかけられました時、サウロは「主よ我に何を為さしめんと思召したるぞ」(使徒行録九ノ六)とお尋ねしました。これにキリストは「起きて市中に入れ、汝の為すべきことはかしこにて(人から)告げらるべし」と答えられました。癩病者達がイエズスに病を治して下さいとお願いしました時、主は「汝等行きて己を司祭等に見せよ」(ルカ一七ノ一四)という条件を附けられました。
キリストは使徒(及びその後継者だけ)に、福音を宣べ、聖体を聖変化する権能を御委任になりましたが、それと同じように、主の御名において罪を赦すことも、極めて明瞭に使徒たちに委されました。
さきほどあなたがちょっと仰言ったように、洗礼後に人が犯した罪を赦す秘蹟を定めずに、天主は罪を最初にお赦しになる秘蹟(洗礼)をお定めになるはずがありませんね。それから、人というものは適当な外面的な条件を要求します。洗礼の式が行われますと、私達は霊魂の清められたことを実際に知ります。そういうふうに、洗礼後に犯した罪が赦されたという安心感のためにも、私達は適当な外面的な条件を求めます。私が全能の天主に告白しまして、自分の罪は赦されたということを、何等かの耳にわかる方法で聞きませんと、満足できません。自分が赦されたということを希望することは出来ましょうが、罪の赦しというように非常に重要なことにつきましては、もっと確実な保証の与えられることを求めます。ところで、私が、良心を糺明し、心から罪を痛悔し、これを司祭に告白し、遷善の決心をすれば、天主の代理者たる司祭によって赦しの言葉が宣べられるという事になっていれば、私は安心して幸福に立ち去ることができます。マグダレナがイエズス御自らの御言葉から得ましたような確実な赦しを、私は望むわけです。
青年 
罪が救霊に至る唯一つの障害であるというのでしたら、自分は確実に罪を赦されたという感じがほしいですね。
神父 
それから、たとえ天主に心の中で告白していましても、心の悩みを誰かに打ち明けたいというのは、どちらかと云うと、天性です。まだカトリックになっていない人々も先ず司祭に心の罪を打ち明けることが多いです。これはその人が誰かに打ち明けて相談したいと思っている矢先に、司祭というものは自分に打ち明けられた事柄を絶対に他人に洩らさないという義務を帯びているということを聞いたからです。ごく最近のことですが、汽車の中で一人の紳士が私の横に坐っていました。半時間ほど雑談した後、紳士は「あなたはいつも告白を聞いていらっしゃいますので、私は心の或る心配事を、あなたに申しあげたいのです。きっと気持が楽になりましょうから」といいました。司祭は決して告白で聞いた事柄を洩らさない、ということを、あなたも多分御存じでしょうね。
青年 
まだ聞いておりませんでしたが、神父さんがそれほど神聖な義務をお破りになるとは思えません。
神父 
告白は非常に神聖なものとされています。かりに私の父が最近誰かに殺されまして、あなたが私にその犯人は自分であると告白されたとしても、私はあなたが犯人であることを口外することは許されません。それどころか、告白のすぐ後で、犯人であるあなたが私のところにお出でになりましても、私はそのことを仄かしたり、あなたに向って態度をかえたりすることは許されません。告白場で聞いたことをほかの事に利用することは許されていないのです。
青年 
そういう保証がありますと、告白する上に確かに怖れはなくなり、信用ができますね。
神父 
それから、司祭は告白場で質問をしなければならない、ということはありません。又、告白者の良心の糺明が不十分だというふうに感じられない限り、司祭は質問をしません。カトリックでない人達は、告白とはどういうことかということを、告白に行く信者から聞いてほしいです。告白の制度を悪く言いふらすのを好むようなカトリック外の人から聞くべきではありません。あなたは司祭も告白するということを知っていらっしゃいますね?
青年 
司祭も罪を犯せば告解すると思います。
神父 
司祭や司教、教皇は教会のほかの信者と同じように、自分の霊魂のたすかりと天主の御恵みを必要としますので、告解をします。悔悛の秘蹟は悔悛をする人がたとえごく僅かな告白しか持っていない時でも、外の秘蹟と同じように、聖寵が与えられます。最高の聖人でもしばしば告白をしています。この秘蹟は天主のお定めになったもので、罪を赦す権能を天主から托されているという信仰がなければ、司祭は自分で告白をしたり、ひどい雨風の中を数里の遠いところまで告白を聞きにでかけたり、病人の告白を聞いたり、天然痘やコレラで死にかかっている人の病床のはたまで行ったりするようなことは、とても出来ません。
青年 
信じないでそんなことをすりゃ馬鹿ですね。
神父 
今日はお帰りになる前に、あちらの聖堂に行って告白場をお目にかけましょう。あなたのカトリックでないお友達はどなたでも、調べに来られて結構です。告解という制度によって不都合の起る怖れは全然ないということや、告白者が誰であるかも司祭にわからない、ということがおわかりになるでしょう。この秘蹟の合理性とか、こういういろいろなわき道の問題は、くどくどしく申しあげるつもりはなかったのですが、しかし、してよかったようですね。次の講義では、悔悛の秘蹟を天主がお定めになられたということを聖書によって証明してみましょう。
管理人注
[1] 「ですが、これはもっともな疑問です。」
前後関係からして、ちょっとおかしいと思います。
原文: However, that's the precise question. It has always been God's policy to deal with man through man.(原書 p170)
「ですが、それは厳密を要する問題です。天主は常に、人を扱うに人を以ってする御方針でした」ではないでしょうか。
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