37 ミサ聖祭のあずかり方
神父 
人は誰でも天主に対しまして、礼拝(即ち尊敬)、感謝(即ち御礼)、謝罪(即ち痛悔の祈り)、祈願(即ち霊的並びに現世的なお助けを願う祈り)という四つの種類のお祈りをしなければなりません。
既にお話したように、人間は人間なる限り、天主にふさわしい尊敬を十分に捧げることができません。しかし、キリストが司祭にましますミサ聖祭におきましては(最後の晩餐の場合と十字架の場合と同じように)主は犠牲になられ、ミサにあずかる人は、無限の礼拝、感謝、謝罪、祈願としてミサを天の御父に捧げることができます。又、同時に、ミサにあずかる人は、キリストの贖罪の御功徳を分けていただきます。そして、天主に対する自分の義務を果すためにも、又、生ける人、死せる人のためにも、この犠牲を捧げることができます。
青年 
そのお話で、ミサ聖祭から天主がお受けになる尊敬は、この世に存在している悪の多くを償うに十分であるということが私にわかりました。
神父 
そうです。もしミサ聖祭というものがありませんでしたら、(世の終りはとっくの前に来てしまったでしょうから)私やあなたは、とても今日ここにおりますまい。人類は元来、天主の御栄誉と御光栄のために天主に造られたものですから、もし天主が御自分の創造物の大多数のものから、大きな尊敬と光栄を実際受けていられないのでしたら、天主はかつて人類を亡ぼし給うたように、どうして亡ぼさずにいられるでしょうか。天主が人類を亡ぼし給わないわけは、幾億という人が主に与えている侮辱と無礼を埋め合わすほどの光栄と尊敬とが、ミサ聖祭で天主に捧げられているからです。
青年 
全くその通りですね。しかし、神父さん、御ミサに与るのに、いろいろな方法があるのですか・・・。本を持つ人、ロザリオを使う人、そのどちらも使わずに祈っている人を見かけますが。
神父 
御ミサで御恵みをいただく方法はいろいろあります。たとえば、御ミサは四つの部分に分けることができます。そして、その各部で、先に私がお話しましたように、すべての人が天主に捧げなければならない義務の一つずつを果します。
即ち、御ミサの始めから奉献文までは、天主の偉大さ、尊厳、仁慈、愛を黙想し、心の中で天主を礼拝し、尊敬の務めを完全に果すために、カルワリオ山の犠牲を主に捧げます。
次に、奉献文から聖変化の前までは、日常の悲しむべき罪について心を調べ、それから、すべての罪の償い或いは贖いとして、大司祭イエズスの御功徳を天の御父に奉献します。
聖変化から聖体拝領までの間は、人類一般と自分個人に対する天主の御仁慈を思い浮かべ、それから、感謝として天主にキリストを奉献し、その御仁慈におむくいします。
聖体拝領後は(殊に自身でイエズスを拝領した場合は)、主を天の御父に捧げて、主の愛の故に堪え忍ぶ御恵みと、己と人のために霊と物質上の御恵みをお願いすることができます。
このように、御ミサ中、祭壇の司祭といっしょになって、司祭の抱いている意向に合せて御ミサを奉献しつつ、内省と祈願に熱中していれば、いつの聞にか、もう御ミサは終ってしまうものです。しかし、入祭文、栄光誦、書簡、聖福音書の奉読、奉献文、序誦、聖変化、聖体拝領誦などまで憶えて、御ミサにあずかる一番いい方法は、「ミサ典書」を見ながら司祭の祈りと行動について行くことです。
前にもお話したように、祭壇の上にのっている大きな本が「ミサ典書」です。大概の国ではその国の言葉で書いた小型の「ミサ典書」が発行されているから、普通の信者はそれを見ればよいのです。
青年 
司祭が祭壇でラテン語を使うので、なにが行われているのかわからないということを云うカトリック信者は、大変な思い違いをしているのですね。
神父 
そうですとも。カトリック教会は、ラテン語が事実上全ヨーロッパで話される唯一つの国語であった時に、ラテン語を使い始めました。それから、普遍的な教会には普遍の「公用語」がなければならないというので、この言葉を今日までずっと使って来たのです。不変の教会には不変の言葉がなければなりません。ラテン語は今日一般に使われていませんので、変る惧れがありません。ラテン語を知らない信者も、司祭が祭壇で唱える言葉はすべて、信者用の「ミサ典書」にのっているのですから、司祭の行為を見ながら司祭のお祈りについてゆくことができます。
ギリシャとトルコでは、今でも古代ギリシャ語が御ミサに使われています。ほかの国でラテン語の儀式が用いられたことのなかった所では、聖職者はその国で御ミサが初めてあげられました当時用いられた古代の言葉を今日も用いることを許されています。
青年 
そうしますと、教会は司祭がその国の言葉で御ミサをあげることを今後も許すことができますね?
神父 
できることはできます。しかし、そういうことは、まあありませんね。まず第一に、司祭は信者に向って御ミサをあげるのではなく、たしかにラテン語を理解し給う天主にあげるのですから。そして、第二に、国際的な教会に教会自身の言葉があるということは、極めてふさわしいことだからです。
あなたが自国語のミサ典書をお買いになって、それを御ミサの時にお使いになるとしましょう。ミサ典書中のどこを今司祭が読んでいるかがわかるまで、初めははかばかしく行かないかも知れません。しかし、祭壇の司祭について、司祭と同じお祈りをすることは、確かに良いことです。
青年 
ですが、神父さん、お聞きしたいと思っていたことですが、どういうわけで信者はひざますいたり、起ったり、坐ったりするのですか? 私はほかの人がするので、そうしているだけですが。
神父 
それはいい質問です。土地の習慣にょりまして、多少の違いはあるかもしれませんが、普通、信者は読誦ミサの場合、ミサの始めから書簡までひざますき、聖福音書の時と、そのすぐ後に続く使徒信教の間、起立しています。そして、奉献文から、「サンクトス・サンクトス・サンクトス」(聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな)を以って始まる典文(カノン)までは坐っています。普通「聖なるかな」でリンが三回鳴らされます。御ミサの終り近くなって、司祭はカリス(聖杯)の蓋をして指を洗いますが、信者はその時に坐ります。そして、祝福の直前でひざますき、終りの福音書奉読の間は起立します。
この外に、あなたのお聞きになりたいことがあると思いますが、それは大抵カトリックのパンフレットや書籍やミサ典書の中にのっています。
先す第一に心に止めておかねばならないことは、ミサ聖祭は祈りというよりはむしろ犠牲の行為(アクション)である、ということです。即ち、キリストはミサの行為において、司祭の手を通じ、最後の晩餐の時にささげ給うたと同じ献げ物をささげられるのですが、最後の晩餐の献げ物がその翌日にカルワリオ山でささげ給うた献げ物と同じ価値を持っていますから、ミサは十字架上の犠牲の再現とも云えます。なぜなら、犠牲の捧げ物の価値は、奉献される物とこれを奉献する者の威厳によって決まるのですが、ミサ聖祭の場合、最後の晩餐とカルワリオ山の時と同じょうに、奉献される犠牲はキリストであり、且つ、奉献する者も(聖変化の言葉を唱える司祭によって代表されている)キリスト御自身であるからです。
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