32 堅振の秘蹟とは
神父 
「天主の子供」になることは実に結構なことですが、天主は信仰において子供以上のものになることを望んでおられます。主の御名を守り、主の義のために戦い、主の敵に対抗するために、賢明果敢な兵士になることを希望しておられます。この身分と任務は堅振の秘蹟というもう一つの秘蹟によって私達に授けられます。
青年 
それが堅振の目的なんですね? この秘蹟は洗礼のすぐ後で神父さんから授かるのですか?
神父 
いいえ、この秘蹟を授ける権能は司祭に与えられていません。堅振を授ける人は普通司教です。司教は司教区の信者に堅振を授けるため、殆どいつも司教区内のどこかの小教区に赴いて、そこの聖堂で堅振の式をなさいますが、一廻り司教区の各聖堂を巡るには、二、三年もかかるでしよう。
青年 
それでは、堅振は救霊に是非必要というのではないのですね?
神父 
絶対にということはありません。しかし、まだ堅振を授っていない人が、司教が堅振にお出になりました時、これを怠りますと、罪になります。堅振は兵士という消えない資格を、これを受ける人に与えるばかりではありません。実際に成聖の聖寵と、この秘蹟の聖寵によりまして、勇敢なキリスト信者になることができるような力を、その人に与えます。使徒達はキリスト御自身の教えを受けたのですが、聖霊が聖霊御降臨の日に、彼等の霊魂の上に降るまでは、その信仰は十分な強さを持ちませんでした。キリストの御受難と御死去だけで、主の御神性に対する信仰は動揺しました。もちろん、この信仰は御墓からの御復活を知って元に戻りはしましたが・・・。それから、主の御昇天に先立つ四十日間、主は使徒達に、その苦しい使徒職の準備を完成し、且つ殉教者になる愛と熱を満たし給う聖霊を彼等の中に遣わさんと、くりかえし御約束をなさいました。
青年 
聖霊の御降臨が使徒達の堅振日だったのですか?
神父 
そうです。そして、このために大きな変化が使徒達の中に起りました。彼等はキリストの御為に働き、必要とあらば主の御為に死ぬという燃えるような熱心に満たされました。彼等はためらうこともなく、敵地に赴いてキリスト教を宣べ伝え、教えと聖なる生活によって無数の人を改宗させました。キリストの真の兵士として主の御為に戦い、遂に主の義を護って命を失いました。
青年 
キリスト信者はすべて使徒のように忠実熱烈でなければなりませんね?
神父 
最初のキリスト教時代の三百年間は、信者はだれも忠実でした。キリスト信者になるということは、その筋に見つかった場合、殉教者になるということを意味していました。しかし、今日キリストの教えは、どこの文明国にも行われていまして、世の中にとりましては、一つの御恵みであると見られています。ですから、カトリックの信者が生命を以て信仰を守ることを要求されることは、今日一般にはもうありません。しかし、共産主義者が支配権を握っている国や、一九三六年から一九三九年までのスペインで経験したように、天主と天主の教会に対する惨忍な戦いによって支配権を握ろうとしている国は別です。無神論者の共産主義者は、あなたも御存じのように、天主は存在しない、「宗教は民衆の阿片なり」と教えています。世界革命の計画を成功させるために、赤の指儀者達は、キリスト教を完全に覆さなければならないと思っています。しかし、多くのカトリック信者は、自分はキリストの軍隊の兵士であるということを忘れ、かえって敵を鼓舞するようなことをしていますので、カトリックでない多くの人は私達のいうことを研究してみようという気を少しも起しません。カトリックの平信者がほかの人達よりも極立ってよければ、かの人達は教会に引きつけられると思います。
青年 
カトリックの「平信者」といいますと、それはどういうことですか?
神父 
教会の平信者といいますのは、品級を受けてもおらずまた修道者たる身分も持っていない信者をすべて指します。この人達はキリスト教の名誉になるような生活を送り、殊にカトリック運動を通じて、司教と司祭に力を合せて、教会の仕事を助けることが期待されています。
青年 
カトリック運動? それはどういうことですか?
神父 
これは教会の使命 ----- 霊魂の救いにおける教会の平信者と教皇、司教、司祭との活発な協力をいいます。平信者が司教と司祭の指図の下に、自分達の周囲の社会的政治的生活に、キリスト教の精神と主義をしみこますように努力をするのです。
青年 
堅振を受けるとどうなりますか?
神父 
堅振を授かりましてから後は、平信者はもっと活発に教会の仕事に参加して、キリストの教えを拡め、敵に向ってこれを高く掲げなければなりません。これを目的に、司祭は品級を授けられ、平信者は堅振を受けます。
青年 
お話のキリストの敵は誰のことですか?
神父 
聖書はキリストの主な敵を、世俗と肉と悪魔との三つに分類しています。これはキリストの敵として、私達の救霊の危険物でもあります。人に世俗的な利益と世俗的な快楽しか求めさせない俗世間的精神は、強力な敵です。これはより高きものに対する人々の目を盲にし、精神的なものに対する眼識を殺してしまいます。「肉」は私達が絶えず持ち廻る敵です。食をむさぼり、怠惰で祈りもせず、教会にも行かず、断食を嫌い、感能の楽しみを捨てることを好まず、欲望と邪しまな望みをほしいままにし勝ちなのも、この肉のためです。それから、天主の最大の仇敵である悪魔は、常に人間を誘惑し、陥し穴をしかけます。堅振はこういう敵に立ち向って、天主と私達の霊魂の勝利を幾度でも得させてくれる武器を、私達に授けます。聖書は私達のこの世の人生のことを戦いと言っています。そして、戦いは絶えず行われています。これはいいことです。勝利がなくては、永遠の冠は獲得されません。天国は霊的な軍務に対する報酬です。
青年 
お話しを伺う度毎に、人の頭で作った宗教では、人間の要求は満たされないということがわかって来ます。カトリック信者は何才になりますと堅振が授けられますか?
神父 
受洗後はいつでもいいのですが、分別がつくまでは、即ち大体七才頃までは、この秘蹟はめったに授けられません。そして、普通子供は初聖体の時までは堅振は授けられないのです。
青年 
堅振を正しく授かるために、どういうことが必要ですか?
神父 
聖寵の状態にあって、キリスト教の主な真理と義務を十分に知っておらなければなりません。しかし、宗教の勉強はそこで終ってはなりません。教えを説明し、護ることができるように、堅振を受けた後も引き続いてキリスト教の教義の知識を深めて行き、そして堅振を授けられたキリスト信者として頂いている聖寵に力を合さなければなりません。
青年 
堅振はどういうふうにして与えられますか?
神父 
司教が、堅振を授かる人々の上に聖霊の降り給うて、聖書のいわゆる七つの御賜物を以ってこの人達を強くせられんことを祈ります。それから司教は、手を本人の上におおい、聖香油という聖別した油で本人の額に十字架の記号(しるし)をします。そして、そうしながら、「我、聖父と聖子と聖霊との御名によりて、汝に十字架を記し、救霊の聖香油を以て汝を堅固にす」という言葉を唱えて、受堅者の頬を軽く打ちます。聖三位の御名を唱える時に、司教は十字架の記号をして三回本人を祝福します。
青年 
すみませんが、儀式の意味を説明して下さい。
神父 
油(オリーブ油)は力と強さのシンボルとされています。運動家はよく自分の筋肉や手足を軽快強壮にするために、油でこれを摩擦します。十字架は教会の旗印です。丁度、国家の兵隊が国旗を誇りにしなければならないのと同じように、キリストの兵士は、自分達の掲げる軍旗である十字架を誇りにしなければなりません。それで、十字架を本人の額にしるすのです。頬を打つのは、自分の主と主のみ教えの御為に、苦しみを堪え忍ぶ覚悟をしなければならないということを、受堅者に悟らせるのです。
青年 
この儀式の意味はたしかに深いものがありますね。もちろん、私は秘蹟はすべてキリストのお定めになったものであることを知っていますが、使徒達が堅振を授ったことは、聖書にのっていますか?
神父 
ええ、のっています。これは普通「按手」とよばれていまして、今日、その儀式の中の一番意味の深い大切な部分になっています。このことは使徒行録の第八章第十四節から第十七節までと、第十九章の第六節に、それからほかのところにものっています。
青年 
それじゃ、洗礼だけを授っている人と堅振をも授っている人との間には、かなり違いがあるのですね?
神父 
そうです、あります。天国におけるこの二人の霊魂の相違は目立ったものになります。堅振は霊魂の上に消えることのないしるしを現しまして、更に光栄の印をこれにつけます。
青年 
堅振にそんな意味があるとは知りませんでした。
神父 
カトリック信者の中でも知っていないような人がかなりいます。この人達は教会の防衛を全く聖職者に任せています。戦争の時に、兵隊が一切の戦闘を上級の将校に任せてしまったらどうなりますか? 司祭は普通、教会に来る人即ち小教区の信者だけにしか感化を及ぼすことができません。小教区の信者は、教会に悪い感情を抱いている人達と軒をつらねて住んでいます。又事務所、工場で、カトリックでない人達といっしょに働いたり、社会生活でお互いに交際をしています。それなのに、信者は隣人に宗教のことを話したり、よい手本を示してキリストの味方を作ろうとするようなことは、めったにしません。普通の信者達が宗教を自分だけのものにしているのを見まして、熱心な改宗者は非常に驚いています。
青年 
そういう信者達は、兵士としての自分のつとめを、はっきりつかんでいないのですね。
神父 
次の講義の時は、これまでの課目になかった一番楽しいこと、つまり御聖体のことを申しあげましょう。
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