31 洗 礼
神父 
いままでの講義で、「成聖の聖寵」とはどういうことか、お話しました。又、アダムの罪のために人類は成聖の聖寵に対する権利をすっかり失ってしまったに拘らず、神の御独子による世の御贖いによって、再びこの聖寵を人間が手にすることが出来るようになった、ということをお話しました。ですが、まだあなたは、どういう方法で各自はこの聖寵を持つことができるか、ということを知っておられません。
青年 
ええ、でも神父さんは「神秘体」の話の後でその話をすると約束なさいましたね。
神父 
そうでした。主はこの世においでになりました時、私達すべての者にはそれぞれ成聖の聖寵によって可能なる超自然の生命をお授けになるために、主がお使いになられる道をお定めになられたのです。この道は主が教会に残されました「秘蹟」です。秘蹟は、私共の感覚に見られない聖寵をほどこすために、キリストがお選びになって現在も使っておられる目に見える印号(しるし)、即ち儀式です。
この定義は七つの秘蹟のどれにもあてはまります。秘蹟は、天主が道具としてお使いになるものでありますから、私達に聖寵を授けます。秘蹟はすべて私達に成聖の聖寵を与えますが、その一つ一つは又「秘蹟の聖寵」という別々の聖寵を授けます。その聖寵はその秘蹟の目的を実現する助けをします。たとえば、「婚姻の秘蹟」を授かる人は、立派なキリスト信者としての生活を送り、親としての責任を果す特別の聖寵を与えられます。この秘蹟は正しい心を以て授かりますと、必ず聖寵がほどこされます。
青年 
キリストはいくつの秘蹟を制定されたのですか?
神父 
七つです。洗礼、堅振、聖体、悔悛、終油、品級、婚姻です。
洗礼は、真先に聖寵を与えるために、定められました。悔悛は、罪によって失われた聖寵を回復します。ほかの五つの秘蹟は、すでに持っている成聖の聖寵をより深くするために制定されました。
洗礼と悔悛の秘蹟は、罪の中に「死んでいる」人に生命を与えるので、「死者の秘蹟」ともいわれています。ほかの秘蹟は既に聖寵を持っている人の、超自然の生命を強くします。それで、「生ける者の秘蹟」ともいわれています。大罪を持っていながら、故意に生ける者の秘蹟を受ける人は、誰でも涜聖の大罪になります。甚しい不敬を以て聖なることにあずかるからです。ここで、七つの秘蹟の最初の洗礼のことをもっとお話します。
青年 
洗礼を第一番に考えますのは、なにか理由があるのですか?
神父 
あります。洗礼はほかの秘蹟よりも先にしなければなりません。秘蹟はすべて教会のもので、即ち天主の教会の人々のためにあるものですから、先ず、人を教会に入れるところの秘蹟(洗礼)を授けておかなければなりません。それからまた、もし天国には天主の子として死ぬ時に成聖の聖寵を持っている人しか入れず、洗礼によって始めてこういう聖寵が与えられる、と云うのでしたら、洗礼は救霊のために是非必要なものに違いありません。そして又、もし、聖寵を所有する時に天国に入る資格があるのでしたら、私達は天主に親密な者でなければなりません。
青年 
人は誰でもみんな「天主の子」ではないのですか?
神父 
決してそうではありません。天主が御自分の愛子になさらないうちは、誰も天主の子ではありません。その時までは、人は単なる天主の被造物です。天主は天主の御位置におられますが、人間は生れながら人間の位置におります。天主が私達を御引取りになって天主に近く上げられますまでは、私達はやはり人間の位置に止まっています。そのために洗礼が必要なのです。
青年 
私は、うっかりしていました。
神父 
いや、ほとんど誰もぼやっと、あなたと同じような思い違いをしています。「これを承けし人々には、おのおの神の子となるべき権能を授けたり」(ヨハネ一ノ一二)と聖ヨハネは言っています。又、聖パウロも「神は御子を遣し給えり、これ・・我等をして子とせられることを得しめ給わん為なり」(ガラチア四ノ四〜五)と言っています。この聖句によって、私達は生れながらの「天主の子」でない、ということがよくわかります。
青年 
洗礼はどういうふうにして授かるのですか?
神父 
洗礼を授ける人が、普通水をその人の額に注ぎつつ、「我聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝を洗う」と唱えます。
青年 
「洗礼を授ける人が」といわれますが、誰が授けるのですか?
神父 
普通、司祭が洗礼を授けるのですが、洗礼を授からずに人が死ぬという危険がある場合は、誰が洗礼を授けてもかまいませんし、又、そうしなければなりません。
青年 
誰でもよい、といっても、もちろん、カトリック信者のことでしょうね?
神父 
いいえ、カトリックであろうが、プロテスタントであろうが、又、ユダヤ教徒であっても外教者であっても、かまいません。できればカトリック信者でなければならないのですが・・。
青年 
万一その人が洗礼を信用していない時はどうですか?
神父 
かまいません。救霊のために必要なものとしてキリストの制定されました儀式を行うのだ、という気持がその人にあればよいのです。
青年 
そうだとしますと、洗礼をプロテスタントの牧師から授かった人に、カトリックの司祭がもう一度洗礼をし直すのは、どういうわけですか?
神父 
そのわけは、その人達がこの式を正式に行ったかどうか私達にはわかりませんし、又、原罪を取り除いて聖寵を与えるという正しい目的でその人達が洗礼を授けたかどうかも私達にわからないからです。プロテスタントの牧師の洗礼を授かった人には、それがどういうふうにして授けられたのか、私達にはわかりませんので、条件附で洗礼を授けます。
青年 
浸礼による洗礼(水に体をひたして行う洗礼)を神父さんは有効と認められますか?
神父 
水を用いた時に正しい言葉が使われたことが確かである場合、そして、カトリック教会が洗礼を授ける時に持つと同じ意向をその牧師も持っていたことが確かな場合は、私達は浸礼を認めます。
青年 
水をばらまいてする方法はどうですか?
神父 
有効と思いません。洗礼は洗うということを意味しています。ですから、洗うというこを表わすために、十分な水が使われなければなりません。体の表面(額か顔)に一杯流さなければなりません。
青年 
洗礼は浸礼法によって施すべきだ、キリストは浸礼洗礼をお受けになられた、洗礼は「浸す」とか「埋める」とかいう意味である、と主張をする人がいますが・・。
神父 
キリストが浸礼をお受けになられたということは、決して確実な事実ではありません。絵になっている洗礼の御様子は、どの絵も、主がお起ちになって、洗者聖ヨハネが主の額に水を注いでいるところを描いています。それから、洗者聖ヨハネが授けた洗礼は、キリスト教の洗礼ではありません。本当の洗礼はその後、二年たってキリストが御定めになったのです。ヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」といわれています。
聖パウロは獄中で人に洗礼を授けましたが、そこで浸礼が行われたとは、とても考えられません。洗礼は、救霊のために是非必要なものですから、病人や瀕死の人にも可能なものでなければなりません。こういう人達に浸礼を施すことは、多くの場合その人を「殺す」ことになります。聖パウロが洗礼によって「埋葬」されると云ったのは神秘的な意味で「埋める」と云っただけです。即ち、罪人の埋葬と、聖寵における罪人の復活を意味したのです。
昔の話ではありませんが、或る牧師が十二才の子供に洗礼を授ける為に病人の所へ招かれました。牧師は招きに応じましたが自分は浸礼による洗礼しか信じていないので、そこではそれを授けることができないと、親に言いました。子供は洗礼を授からずに死んでしまったそうです。
青年 
神父さんは、幼児でも洗礼を受けよ、とおっしゃいますね?
神父 
そう、生れたらできるだけ早くです。この大切なことを長い間引き延ばしたり、全然これをなおざりにするカトリックの親は、大罪に当ります。成聖の聖寵や霊魂の超自然の生命は、天国という超自然の報賞に欠くことができません。「人は水と霊とより新たに生るるに非ずば、神の国に入ること能わず」(ヨハネ三ノ五)と、キリストは、すべての人が洗礼を受けることを望んでおられます。
青年 
たしかに神父さんは、原罪のことをお話になりました時に、「まだ洗礼を受けていない幼児は、永遠の罰を免れ、事実、自然的幸いを持って幸福であるが、天主を見奉って救われた者の超自然的幸いを持つということはない」という意味のことをお述べになったように覚えていますが。
神父 
その通りです。
青年 
ところで、神父さん、そのお話の時に浮かんだことを、二三お伺いしたいのですが?
神父 
さあ、どうぞ、おっしゃって下さい。
青年 
それでは、洗礼の必要なことを知らない無数の人はどうなりますか? 洗礼を知らなかったということだけで、その人達が天国を失うのを天主はそのままにしておかれはなさいますまい?
神父 
そういう場合のことを、正義にして公正なる天主はちゃんと考えておられます。即ち、水による本来の洗礼に代るものであります。それは「望みの洗礼」と呼ばれるものです。即ち、神は、自分の罪を心から後悔し、救霊に必要な事を果そうと望んでいる人々に、聖寵を与え給うのであります。そういう人々は、もし、救霊に洗礼が必要であることを知ったならば、洗礼を望んだと思われるからです。
青年 
人は、秘蹟を受けたいと欲する度毎に秘蹟を受けることができますか。
神父 
洗礼、堅振、品級の秘蹟はただ一度しか受けられませんが、その他の四つの秘蹟は何度も受けられます。
青年 
三つの秘蹟はなぜ一度限りしか受けられないのですか?
神父 
その三つの秘蹟は、霊魂に消えない印号(しるし)をつけますから、生涯に一度しか受けられないのです。例えば、洗礼は、教会に属する一員になる、という資格を与えます。その資格によって、受洗者は教会の掟に従う義務と、他の秘蹟を受ける資格を得るのです。
青年 
もう一つ是非お尋ねしたいのですが、洗礼はただ原罪を赦すだけですか。
神父 
いいえ、洗礼は原罪を赦すのみでなく、その人が犯したであろう自罪、およぴその罰を全く赦します。勿論、その人がそれらの罪を深く悔んでいなければなりませんが。
青年 
洗礼を受ける人は、代父や代母を立てるそうですが、なぜですか?
神父 
代父、代母が何をするか、ということを貴方がお知りになれば、その点もわかるでしょう。代父、代母は、受洗者に代って、受洗者が悪魔を棄て、キリストと教会との教えに従って生きるということを、約束するのです。即ち、貴方が受洗するとき、貴方は代父を通じて、その事を約束します。幼児洗礼の場合の代父は(実の親がカトリック的育て方を怠っても)その幼児が良きカトリック信者として育つよう配慮する義務があります。それ故、代父、代母は信仰も堅固で、受洗者に対する己が義務を良く尽す覚悟の人でなければなりません。
青年 
神父さん、どれぐらいしたら私は洗礼を授かることができますか?
神父 
洗礼は、信仰のすべての教えが十分にわかってからするほうが、一番いいと思います。そのうちに私は、あなたが聖人のお祈りによりて、熱心な教会の信者、キリストの真の弟子になるために必要な御助力を天主から授かれるように、特定の聖人をあなたの保護者にお選びなさいと申しあげるつもりです。あなたは洗礼の時にその聖人の御名をいただいて、その聖徳にならうように努めると良いです。これはついでの話ですが、聖パウロは偉大な聖人で、しかも偉大な改宗者でもありましたよ。
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