30 キリストの神秘体
神父 
洗礼と、成聖の聖寵のことをいろいろお話しましたが、もう一つカトリックとそれ以外のすべての教派の間にある本質的な違いを挙げることができます。ほかの教派は単なる宗教団体、宗教上の目的を同じくする男女から成り立っている団体として見られていますが、又、一般の非カトリックの人達は、カトリック教会はたとえ一番古い一番広く拡っている教会の祖(おや)であっても同列の別の教派である、と思っています。
しかし、カトリックの教会は実際の宗教的「有機体」、霊魂という生命を与えられた現に生きている体であります。それ故、カトリックはこの教会を他人に単なる「宗教団体」と見られることを嫌っています。教会の体は天主の御子(キリスト)によって形作られました。そしてこの体に吹きこまれている霊魂は「聖霊」です。ですから、これは「天主の有機体」ともいえます。
青年 
もっとくわしく説明して下さいませんか?
神父 
ええ、使徒の聖ヨハネと聖パウロ(これは書簡の中で)は、教会のことを「キリストの御体」と言っています。そして、教会のすべての信者のことを、キリストを頭とするこの体の肢(えだ)といっています。五世紀に生きていた聖アウグスチノと十三世紀の聖トーマスは、この教会の観念をいろいろと考えて、そこから実に驚嘆される結論と教訓を導き出しました。このように「キリストの御体」としての教会のことを「キリストの神秘体」と申します。
青年 
この場合の「神秘」という言葉は、どういう意味ですか?
神父 
この言葉は、十字架に打つけられ給うたキリストの「物質的」な、即ち自然の御体ではない、という観念を表わすために考えられました。これは世界にまたがる「社会的」なキリストの御体として考えますと、意味はもっとよく解ります。こういうふうに、教会は、その信者がお互に、又、私達の頭にましますキリストに、聖寵と愛の神秘な帯で結ばれていまして、生ける人の体の頭と手足に似ていますので、「キリストの神秘体」といわれています。教会はキリストを信ずる無数の人から出来ていますので、キリストの「社会的」な御体であるのですが、又それ以上のものでもあります。キリストは教会の頭で、(一)主を代表する人々を通じて、天主の真理と掟の教師としての御働き、及び(二)その手足に生命を与える聖霊を通して、聖寵と超自然の生命を与える聖別者としての御働き、をなさいます。とういうようにして、私達の頭にましますキリストは、聖寵の御力を以て教会の生けるすべての手足に ----- 主の神秘体に、生命をお与えになるのです。
キリストの定められました洗礼によりまして、人は主の御体と一体にせられます(コリント前十二ノ一三)。キリストはこの考えをわかり易く「我は葡萄樹にして汝等は枝なり、我に止り我が之に止まる人、是多く実を結ぶ者なり、けだし我を離れては、汝等何事も為す能わず」(ヨハネ十五ノ五)といわれました。
青年 
人間の体には少ししか手足がなく、キリストの御体には無数の手足がありますので、その比較はあてはまらないように考えられます。
神父 
そうですね。あなたの体の一切の細胞をあなたの体の手足としましょう。事実、あなたの生きている体には、幾億という細胞がありまして、どれもみんな生き、且つ働いています。あなたの体の器管は、その器管の細胞が衰えて死にかけますと、悪くなりだします。ですから、この比餃は単なる比較ではあるのですが、極めて適切です。この地上には、人間の体の細胞ほど多数の人はいませんので、キリストの神秘体の手足もそれ程には多くはいないでしょう。丁度人体の器管の細胞が死ぬように、キリストの御体と一体になっている信者も、罪に死にます。
キリストの神秘体(これは教会の別名です)に関する教会の教えは、あなたやその他多くの人に全然知られていませんので、あなた方のために、聖書の中からこの観念を伝える聖パウロの言葉を二三引用します。
「(神はキリストを)教会の万事の上に頭となし給えり、即ち教会はキリストの御体にして、万物に万事を満たし給えるものの充満ち給う所なり」(エフェゾ一ノ二三)
「身は一つなるに肢は多く、身に於る一切の肢は多しと雖も一の身なるが如く、キリストも亦然るなり。即ち我等は、或はユダヤ人、或はギリシャ人、或は奴隷、或は自由の身なるも、一体と成らん為に悉く一の霊に於て洗さられ・・今汝等はキリストの身にして、その幾分の肢なり」(コリント前一二ノ一二〜二七)
青年 
その御言葉の意味はたしかにはっきりしていますね。そして、世の中に多くのごたごたを作り出しました人種や血統論を非難しているように見えます。
神父 
そうです。私達が皆「キリストにおいて一つ」になりますと、人種、国家、階級間の憎悪は全然弁解の余地がなくなります。深く根を下した偏見でありますので、こういう対立には唯一つの治療法しかありません。それはキリストの神秘体の教えを信仰し、これに従って生きることです。カトリック信者でも自分が現にこの聖なる有機体の一員であることをめったに考えません。信者はこの有機体を通じて聖霊と聖なる生命にしっかり接触します。
頭の第一の務は、手足は勿論、全体としての体を指揮するところにあります。頭を別にしましては、体の中の生命や手足の活動を考えることはできません。同じように、キリストの御体である教会は、その頭にましますキリストに一致しなければなりません。そして、この体の各部分は、キリストの聖なる御生命に与り、超自然の働きを得ようと思うのでしたら、同様キリストに一致しなければなりません。
神秘体に関する教会の教えを十分にわからせる例は、自然界にみちています。例えば、樫の木のような木を御覧なさい。無数の枝を持っていますが、その枝はどれもその幹にくっついていなければなりません。そしてその枝が夫々そうゆうふうについていますと、葉が出来て、どの葉も樫の木の葉であるということが認められます。
そこで、教会という木は直接天主のお作りになったもので、その生命の源は聖霊であるということを考えますと、木の枝が幹や根についているように、この御体についている無数の信者も、木の性に適った実を ----- この場合は、超自然的の聖なる実を、結ぶことができるということが、たやすくわかります。
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