第三部 聖寵を受ける方法
人間聖化のため天主の与え給う助け
「人は水と霊とより新たに生るるに非ずば、神の国に入ること能わず」(ヨハネ三ノ五)
「かくて両人信者の上に按手しければ、皆聖霊を蒙りつつありき」(使徒行録八ノ一七)
「取りて食せよ、これ我が体なり」(マテオ二六ノ二六)
「汝等誰の罪を赦さんもその罪赦されん、誰の罪をとどめんもその罪とどめられたるなり」(ヨハネ二〇ノ二三)
「汝等のうち病める者あらんか、その人は教会の長老たちをよぶべく、彼等は主の御名によりてこれに注油し、これが上に祈るべし」(ヤコボ五ノ一四)
「父の我を遣わし給いし如く、我も汝等を遣わすなり」(ヨハネ二〇ノ二一)
「総て大司祭は人の中より選まれ、神に関する事に就きて、人々の為に供物と贖罪のいけにえを献ぐる任を受け・・」(ヘブレオ五ノ一)
「これ大いなる奥義なり、我はキリスト及び教会に就きてこれを言う」(エフェゾ五ノ三二)
29 成聖の聖寵
神父 
これから私達は講義の第三部に入ります。第三部は普通「聖寵の種々の道」といわれることを取扱います。私達は第一部でカトリックの信仰の特色は何であるかを、また第二部で、天主の掟と教会の掟は何を命じ何を禁じているか、ということを勉強して来ました。ところで、これからの講義は、「救霊の道をたやすくするために、イエズス・キリストが定め給うたところの聖なる手助け」という非常に喜ばしい問題に関係しています。
青年 
神父さまがこれまでに再三、この天から授けられた手助けの問題をお話になりましたので、私は天主御自身が作られた宗教とその手助けとの間に、必然的な関係があることは、もう十分わかっています。
神父 
前にお話しましたように、人間が自分の力で建てた最上の宗教と、天主が直接に作られた何らかの宗教との間には、根本的な相違があることを、あなたはすぐお気づきでしたね。人間は天国を他人に与えることや、独力で天国に至る道を発明することはできない、ということは自明の理です。人間にできるのは、ただ仲間の者に正しくあれと勧めたり励ましたり、全能の天主はきっと何等かの報いをして下さると約束したりすることだけです。しかし、天主は、お望みなら、私達に天国を与えることも、御旨や御命令を示すことも、天主に対する勤めを、果しやすいもので且ついさおしあるものにする手助けを御授けになることもできます。この御助けは、聖寵をまだ頂いていない人にこれを与えたり、既に聖寵を頂いている人にはその上に聖寵を増して与えますので、「聖寵の道」といわれています。さて、これから、聖寵というとそれは一体どういうことかお話します。
青年 
それは神父さんが、アダムとエワが初めて造られ、その堕落のために自分と自分の子孫に対する聖寵を失ったが、天主の御独子が人類がその聖寵を回復する道をお開きになったというお話の時に、仰云ったように覚えています。
神父 
講義をよく覚えていられますね。
青年 
それは立派に話の筋が通っていますし、最初の講義の時のお話が再三聖寵の問題に触れていたものですから、難しいことではありません。
神父 
あなたは聖寵をどのように考えておられますか?
青年 
そうですね。私はまあ原罪がないということを考えています。
神父 
それもそうですが、それ以上です。聖寵ほ単に或るものがないということではありません。天国の実在を別にしますと、聖寵こそは一番真実な実在です。聖寵は私達の霊魂があずかる主の御生命でありまして、私達を親しく天主に一致させます。太陽の光は単に闇がないということではなく、これなしでは地上の生命が存在し得ないほどに絶対的なものです。それと同様、より高級な生命は聖寵の光なくしては霊のうちに存在し得ません。
青年 
聖寵についてもっとくわしく話して下さい。
神父 
お話しましょう。大体聖寵は、人をして己の霊魂を救うことを可能ならしめるところの御恵みです。これは決して当然に私達へ与えられるものではありません。又、天主がこれをお取り上げになりましても、不義になりません。授けられますと、御恵として私達のところに来ますが、私達が権利をもっているようなものではありません。
「御恵み」であるということの外に、聖寵はこれによりまして、私達にこの世ではキリスト信者として生き、後の世では天国で生きる力と資格を与える「道」です。道としましては、これに二つの種類があります。
第一の種類は成聖の聖寵です。---- 生命を与えられ高められた霊魂の完全性です。生れながらにして、私達の霊魂は人祖の罪の結果、この完全性を失っています。普通私達はこの完全性を洗礼で回復します。これはキリストの御言葉の中で、「再生」として述べられています。私達は出生の時に自然の生命を受けているのですが、自分の霊魂をキリストの御霊魂に、自分の生命を天主の御生命に、もっとよく似させるために、この生命を根本から完全なものにする必要があるのです。私達は出生の時に造られましたが、洗礼で造り直され、そして天主の養子になります。それを可能ならしめるもの、即ち天主の望み給う高度の、新しい生命を私達をして営ましめるところの霊魂の完全性(キリストはその新生命を私達に得しめるために犠牲の死を遂げられたのですが)これを「成聖の聖寵」というのです。仮りにアダムに犯意(原罪)がなく、我々も個人個人として大罪を犯してないのでしたら、いかなる人もこの聖寵がない人はありません。ですから、逆に、この聖寵を欠いている人は誰でも、「罪の状態」にあるといえます。聖寵を持ちますと、その人は聖にされます。即ち聖化されます。それで、この種の聖寵は私達を永久に聖ならしむる効果がありますので、「成聖の聖寵」といわれるのです。私達は死ぬ時に成聖の聖寵を持っておらなければなりません。でないと、私達は天国に行く資格がありません。
青年 
カトリック信者は誰でもそれを持つことができますか?
神父 
できます。霊魂は天主の御力を受けることができます。それは丁度電球が電気の力を受けることができるのに似ています。電流に接触している電球と、接触していない電球との間には大変な違いがあります。私達の場合におきましても、私達の霊魂が聖寵の状態にない場合と、天主の御生命に接触している場合との間には、もっと大きな違いがあります。私達は、ずっと高い行動と生命を受ける資格をもっているはずです。
聖寵と大罪とは一緒に霊魂の中にいることはできません。二つは反対で光と闇のようなものです。光に向いますと闇はなくなり、光に背くと闇が返って来ます。大罪を犯しますと、聖寵は去らなければなりません。大罪は痛悔しますと、(悔悛の秘蹟で)聖寵は帰って来ます。しかし、聖寵は単に罪がないということではないことに十分に注意して下さい。これまでは成聖の聖寵というものをお話しましたが、「助力の聖寵」という聖寵もあります。この第二の種類の聖寵は、天主の賜わる衝動、即ち「はずみ」のようなもので、私達の行為をもっと高い所に高め、私達の心を照し意志を強めて悪を避け善を行う手助をしてくれます。私達が何かの行為をする時に与えられ、その行為の続く間しかとどまりません。ですから、これは恒常的な成聖の聖寵と区別するために、来ては去る聖寵という意味で「助力の聖寵」と呼ばれています。もちろん、私達の意志は自由でありますし、又、天主はこの聖寵を受けよとは強制なさいませんので、人はこの聖寵を拒むことはできます。すべて大人の場合は、聖書にはっきり、助力の聖寵の働きなしに救霊の業を始めることはできぬとありますから(ヨハネ六ノ四四、コリント前四ノ七)、助力の聖寵の賜物は成聖の聖寵を頂く前になければなりません。
青年 
それでは、助力の聖寵は成聖の聖寵を頂いている人はもちろん、罪人や洗礼を受けていない人にも与えられるのですか?
神父 
そうです。誰にでも与えられます。そして、これに従うも、退けるもその人の自由です。聖寵の状態にいない人にも、その人を励まして聖寵が頂けるようにするために、助力の聖寵は与えられます。他方、聖寵の状態にある人には、更に功(いさおし)ある行動ができるように、それが与えられます。私達は、極くありふれた行為でありましても、天主を愛し奉る精神でこれを行い、自らを常に聖寵の状態に止めておきますと、その行為を天国の報いに価する行為にすることができます。
青年 
その意味は今わかりました。人が教会のいうことを研究したいという気になったり、痛悔や祈や善業をしようという気が心の中に起こったりするのは、人を励ます聖寵なんですね。
神父 
そうです。そして、悪をしようという誘惑が起りますと、天主は助力の聖寵をお授けになります。この助けを以って誘惑を征服することができます。
青年 
なるほど。それで、助力の聖寵なしに長く誘惑の力に手向うことができるなどとは、誰にも言えるはずではありませんね?
神父 
そうです。聖書に、天主は堪え得ないほどにひどい誘惑に人を逢わせ給わない、天主は誘惑と同時に、人がこれに打ち勝ち得るように助力の聖寵を賜う、とあります。自分勝手に誘惑にはまり込んだり、罪の機会に止ったりするのでなければ、いつでもその通りです。
青年 
全く理屈に叶ったお話です。天主は人が試みられているのを御覧になりますと、慈悲深く力づけて下さいます。しかし、知って足を誘惑に入れますと、天主の御助けを受けることはできません。ですが、神父さん、今回の話の始めに、「聖寵の道」に幾つかあるように仰云いましたが、どういう意味ですか?
神父 
秘蹟と祈りです。しかし、これをお話する前に、次の講義で、教会の頭にましますキリストの聖寵の結果としての教会について、少しお話しなければなりません。即ち、いわゆる「キリストの神秘体」のことを、少しお話しようと思つています。
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