33 御聖体、教会最大の宝物
神父 
この大切な講義を始める前に、御聖体は秘蹟であり、又犠牲であるということから始めます。この秘蹟においては、我が救世主イエズス・キリストの御体と御血、御霊魂と御神性が、パンと葡萄酒の外観の下に含まれていまして、天主に奉献せられ、そして信者に授けられるのです。
御記憶のことと思いますが、キリストは「世の終りまで日々」教会と共に居らんと約束なさいました(マテオ二八ノ二〇)。しかし、あなたは、あらゆる社会の人が主を訪問し、天から降ったパンを以って自分の霊魂のキリスト的生命を養うことができるように、主が御自ら人々の間に住み給う方法をお考えになられたということは、恐らく夢にも思われなかったと思います。しかし、そのことは聖体の秘蹟によりまして可能になります。
この教義はミサ聖祭の教義をすましますと、もっとよくわかるようになります。この秘蹟は、ミサ聖祭において可能になるからです。しかし、唯今でも御聖体の意味を全部知ることはできます。
青年 
キリストはこの御聖体をいつ私達にお授けになったのですか?
神父 
十字架につけられ給いました前の晩の最後の晩餐の時です。
青年 
誰がそのことを見たのですか?
神父 
この秘蹟の御制定は使徒達が実際に見て、それを拝領し、しかも、他の人々のためにこれを行う権能を使徒達が授かりました。
青年 
主はそれをどういうふうになさいましたのですか?
神父 
これは福音書の中に書いてあります。天主の御子は食卓に供えられていましたパンと葡萄酒とをお取りになって、これを分け、全能の御力を以ってこれを主御自らの生ける御体に変化させ給い、「取りて食せよ、これ我が体なり、・・汝等皆是より飲め、是・・新約の我が血なり」(マテオ三六ノ二六〜二八)といわれました。主が全能の御カを以って「これ我が体なり」といわれました時に、パンの本質は全部主の御体に変化し、「これ我が血なり」といわれました時に、葡萄酒の本質は全部主の御血に変りました。
青年 
キリストの御言葉はその意味通りに取るべきではなかったのですか? 主は比喩的にお話しになったのではありませんか? [1]
神父 
違います。主は最後の晩餐の時まで丸一年の間、主の真の肉と血を人に与えると約束されました。しかし、その時に聞いていました人々は、使徒も含めて、主は比喩的に話していられるのだと考えていました。ですが、主は主の御言葉を文字通りに受けよといわれました。(ヨハネ六)
青年 
その時主はどうおっしゃったのですか?
神父 
我は「活けるパン」「生命のパン」である、我が与えんとするパンは、此の世を活かさんための「我が肉」である、我が肉は実に食物である。我が血は実に飲物である。我が肉を食し我が血を飲む人は「永遠の生命」を持つ、これを食せぬ者は生命を有せず、といわれました。もちろん、主は超自然の生命のことをいわれたのです。
青年 
たしかにそれははっきりしたお話です。しかし、聞いていました人達は、主の御言葉を文字通り受け取ろうとはしなかったのですね。
神父 
いや、違います。彼等は「この人いかでか己が肉を我等に与えて食せしむることを得んや」と言ってこの問題を議論しました。
青年 
それでは、彼等は主の御言葉の意味を知っていたに違いありません。
神父 
そうです。しかし、私は、主の御言葉を信じようとする気持が彼等になかったのだと思います。多くの人は、キリストが自分の言葉は文字通りまちがいはないといわれましたので立ち去ってしまいました。ところが、もしキリストが主の肉を食することを、比喩的にお話しになられ、そして、この人達が主を誤解して、欺かれたままで立ち去ったとしましたら、どうですか?
青年 
天主としまして、キリストはこれをそのまま放っておかれることはできません。いつわりを黙認し給うことはできません。しかし、使徒達の方はどうだったのですか? キリストの御宣言によってどういう印象を受けましたか?
神父 
キリストは彼等の信仰の告白を求められました。いくらかの弟子たちが立ち去って行くのを御覧になりまして、使徒達に「汝等も去らんと欲するか」といわれました。その時、ペトロは救世主の御神性と、(彼等にも実際はわからないことながら)主の真の肉と血を霊魂の超自然の生命の養いとして与え給う御力を、公けに認めました。
青年 
晩餐の時に御聖体がきめられまして、使徒達はみんなぴっくりしましたか?
神父 
いいえ、主がそれまでに厳粛にそして力強く約束なさいましたことを、お授けになろうとなさいました時、使徒達はけげんな気がしたこともあろうと思います。
青年 
救世主がそういうふうに使徒達に、御恵みをお授けになられたとしても、教会の信者が今日もこれと同じような御恵みをいただくことができますのは、どうしてですかお話し下さい。
神父 
キリストは使徒達に同じ不思議なことを行う権能をお授けになって委託なさったのです。即ち、霊の食物として御自らを彼等にお与えになりまして、「我が記念として之を行え」(ルカ二二ノ一九)といわれました。こういうふうにして、主は使徒達を「司祭」になさったのです。
青年 
そうしますと、その権能はそのときの使徒だけに与えられたのではないのでしょう? もうその人達は死んでおりませんから。
神父 
使徒達に与えられました権能は、その後も引き続いて教会のものだったのです。使徒は一つの協同体であり、この権能は丁度、以前に憲法によって議会に与えられた権能が、今日もなお議員によって所有され行使されているのと同じように、使徒の後継者達の中に続いて行きます。司祭は、キリストの御役目をしまして、御ミサ中の聖体の聖変化の時に、「これ我が体なり・・これ我が血なり」というキリストの御言葉を唱え、パンと葡萄酒とをキリストの御体と御血とに変化させます。
青年 
それでは、プロテスタント派の教会がこの権能を主張しないのは、どういうわけですか? これはたしかに大切なことですね?
神父 
彼等は、牧師が使徒の正当の後継者である、ということを証明できないからです。使徒時代 ----- 第一世紀 ----- と彼等の教会の開祖の出現との間には、あまりに大きな年月の開きがあります。それにつき面白い例を思いつきました。私が立派な家を建てたとします。これにすばらしい造作をつけ、電線を設備しても、発電所に連絡しませんでしたら、私は電燈をつけることができません。
青年 
神父さん、そのお話で少し質問がありますから、一寸お尋ねしてもかまいませんか?
神父 
さあ、どうぞ、どうぞ。
青年 
御聖体はパンと葡萄酒が主の御体と御血に変化した後で、パンと葡萄酒の外観だけは残る、というお話しでしたが、それはどういうことですか?
神父 
パンと葡萄酒の色や味、重さ、形、そのほか感覚に映ずるものは ----- パンと葡萄酒がキリストの御体と御血に実体的に変化しました後も ----- そのまま残る、ということに過ぎません。
青年 
それは、主はパンの外観の下にも、葡萄酒の外観においても、全体として又完全にまします、ということですか?
神父 
そうです。
青年 
一般信者がパンの形だけで御聖体を拝領するという理由を、後で説明していただけませんか?
神父 
承知しました。それは聖体拝領のことを申しあげる時にお話します。
青年 
最後にもう一つお尋ねします。キリストはどういうわけでこの秘蹟をお授けになられたのですか?
神父 
そのわけは、キリストが私達を愛し給う証拠にいつも私達といっしょにおいでになって、私達から崇められ、聖体拝領の時に拝領され、十字架の犠牲を記念し新たにする犠牲として絶えず奉献せられ給うためです。ごミサのことは次の講義の時にお話します。
管理人注
[1] ここは誤訳だと思います。「キリストの御言葉はその意味通りに取るべきではなかったのですか? 主は比喩的にお話しになったのではありませんか?」では初めの文と後の文が矛盾しているので。
原文: Were Christ's words to be taken in their obvious sense? Wasn't he speaking figuratively?(原書 p.151)
だから、正しくは「キリストの御言葉は文字通りの意味で受け取られるべきだったのでしょうか? 彼は比喩的にお話しになっていたのではありませんか?」だと思います。
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