神父
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人の物はどんなものでも、これを盗むのは罪である、ということがわかりましたね。ですが、人の名声を奪うということは、もっと大きな罪になります(箴言二二ノ一)。これが元来、第八誡の禁止する所です。この掟は私達に、いかなる時でも事実を語ることを命じ、又普通の嘘のような、あらゆる種類の不実な証言を禁じています。殊に、他人の人格をそしったり、人の名声を傷つけたりするような嘘偽は、一層禁止されています。
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青年
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そういう種類の嘘偽をどう呼んでいますか。
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神父
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中傷とか悪口とか讒謗とかいいます。
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青年
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私はいつでも、たとえ本当のことをいいましても、人を中傷することは、悪いことだと考えていましたが、この罪がどの掟に反するのかは知りませんでした。
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神父
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第八誡に反するのです。それは人の人格を傷つけ、「そしり」と云われるものだからです。このことはあなたに御注意しようと思っていました。ここで、この講義を整頓しましょう。
(一)私達は他人の名声と人格を尊重しなければなりません。(二)十分な根拠もないのに他人を邪推することは、軽卒な判断であるから、悪いことです。(三)知りつつ嘘偽をいうことは断じて許されません。(四)うそにも、行いによるものと言葉によるものがあります。(五)もし人の評判に重大な害を与えましたら、それを償わなければなりません。(六)約束をした場合とか職務上知り得た場合、又は人のためになる場合は、私達は秘密を守らなければなりません。 |
青年
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他人の欠点を語ることは必ずそしりの罪ですか?
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神父
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既に公けに知られているとか、話相手の人が知っていることであれば、罪にはなりません。その時でもこれは愛に対して欠けるところがあるのですが・・。転んだ人が起ち上って、私達よりもすぐれた人になるかもしれません。少しの悪い噂もない私達が将来いつ転ぶかもしれません。人の過ちを現したり、疑いを口にしたりすることは、極めて普通の欠点です。
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青年
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そうです。この問題で私達が全然しくじらずに過せる日が一日としてあろうとは、とても思われません。
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神父
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その通りです。
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青年
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他人が罰せられるのを救うために、うそをいうことは許されますか?
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神父
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いいえ、厳罰から他人を救うことができる場合でも、許されません。御存じのように、嘘をつくということは、元来悪いことです。即ち、如何なる事情によっても善になることのできない悪そのものです。ですから、真理そのものにまします天主も、これを嫌っていられます。
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青年
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そうしますと、冗談にも嘘をいうことは悪いことなんですね?
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神父
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冗談の相手が本当にだまされたことを、あなたが知りつつ冗談を云ったなら、悪いでしょう。もちろん、誰も本気にしないようなことを冗談で云うとか、或いは、相手の人があなたが冗談を言っていることを知っていると思われる時は別です。嘘の正しい定義は、「だまそうとする気持」であって、言葉によるものであっても、行いによるものであっても同じです。行いによってだます場合は、偽善と言われています。福音書の中に出てくるファリザイ人等は「行い」の嘘のために、キリストから厳しいお叱りを受けました(マテオ二三)。
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青年
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もちろん、嘘偽にも罪の軽重があるでしょう?
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神父
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ええ。その及ぼす害の大小によります。
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青年
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それから、私達は仕事をたずねられたとき一々返事をしなければなりませんか?
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神父
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そんなことはありません。うそをいうことと、質問をそらすことは違います。たずねる権利のない人の質問に答える義務はありません。返事を断ったり、逃口上を言ってもかまいません。
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青年
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私達は隣人に害を加えたらその害を償わなければならない、というお話でしたが、話したことが本当のことでしたら、どういえばいいのですか? こういう害を償うことは不可能のように思われます。私達の言ったことは否定することはできないのですから、否定しますと嘘になって、必ず悪です。
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神父
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あなたのおっしゃる通りです。誹訪(そしり)が丁度そういう場合に当ります。他人について事実を語り、しかも人格に傷をつけますから [1] 。あなたがお話になる相手の人が、一人だけそのそしりを聞いたのでしたら、跡始末することはできましょう。ですが、その人がほかの十人の人に話してしまって、その人達がまたこれをぶちまけてしまったら、どうなりますか? あなたはできる限りその波紋を止めなければならないのですが、言ったことを否定することはできません。不可能でないとしても、困難です。しかし、誹訪したことが多くの人に広まっていなければ、被害者の何か良い点を人に伝えなければなりません。そして、そうすることによって、その人が悪く思われているのが償われることがあるでしょう。
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青年
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讒言などもこれと同じことではありませんか?
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神父
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いや、讒言は非常に違っています。これも、人の人格を傷けることは傷けるのですが。讒言とそしりとの違いは、そしりにおいては、言うことがうそですが、誹訪は事実を話して人の人格に傷をつけるのです [2] 。
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青年
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これは重大な問題のようですから、人はロを開く前に、二度は必ず考え直してみなければなりませんね。
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神父
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そうです。でも、まあ、こういう問題は余り固苦しく考えていただかなくてもよいですね。こういうことで犯した過ちをどうして訂正しようかなんて、くよくよなさいますな。讒言や、そしりで人にひどい害を与えた覚えがおありでしたら、今申しあげた方法に従って、これを直すようにつとめて下さい。小さなことはくよくよせず、唯今後はもう少し気をつけるように決心して下さい。
嘘は多くの場合嫉妬(ねたみ)から起ります。人は自分の嫌いな人の目の中の塵を見て、これを梁(はり)のように大きく考えるものです。針小棒大に言って、敵に対し非難を捏造するようなこともします。敵の名声が傷つけられると、非常に喜びます。これはあり勝ちな気持です。悪魔が私達の最初の先祖に嘘をつくようになったのも、嫉妬とか羨みでした。 嘘が許されるようになると、人類社会の幸福に極めて必要な一般の信用は全然なくなってしまいます。私達市民の発言のすべてに、完全な信頼を置くことができましたら、どんなにすばらしいことでしょう。「いつわりの口唇はエホバに憎まれ」ます(箴言ー二ノ二二)。 |