22 第六誡と第九誡、貞潔に反する罪
神父 
今夜はお互いに密接な関係のある二つの掟を勉強しましょう。第六誡と第九誡を言うことができますか?
青年 
第六誡は「汝姦淫するなかれ」で、第九誡は「汝人の妻を恋うるなかれ」です。
神父 
この二つの間の密接な関係がわかりますか。第九誡は姦淫の望みを、第六誡はその行いをはっきり禁じています。
青年 
この二つの掟は姦淫だけに関係しているのですか。
神父 
いいえ、これはあらゆる種類のみだらな行いと不行跡を禁じています。そして、みだらな行いを禁ずることによりまして、純潔と貞潔を命じています。
青年 
そういう色々の用語は印刷物の中で見たり聞いたりしたことがありますが、意味は全然私にはわかりませんでした。
神父 
純潔と貞潔の間には、ごく僅かな違いがあるのですが、実際上の使い方では、この二つは同じ意味が与えられています。この二つは、思い、望み、言葉、行いにおける性的な楽しみの適正な抑制ということを意味しています。未婚の人達には、純潔と貞潔はそういう楽しみを避けるということですが、既婚者にとりましては、こういう楽しみを、結婚生活において、自然的に理性的に用いるということを意味しています。
青年 
それでは、みだらな行いは性的な楽しみの不正な享楽ですね。
神父 
そうです。これが、ことさらにそういうことを目的にしていろいろと考える思いや、故意の望み、言葉、行いから出まして、それが自分ひとりでしましても、又、他人といっしょにしましても、お話の通りです。
御存じのように、創造主は人性に二つの自然的な慾、即ち自分を養う慾と子をつくる慾をお与えになりました。この慾望をみたす為に、天主は上手に快楽を織りこまれました。それはこの機能は個体の保存と種族の繁殖にとり、必要なものだからです。こうして、人には飲食と性とに快楽を覚えるのですが、この二つの本来の目的は快楽ではなく、むしろ自己を養うということと子孫を産むというところにあります。故意にこの快楽を求めて本来の目的が除外されると、自然と自然の創造者である天主の御旨に反する行いになります。飲食の楽しみは肉体の養いに、性の楽しみは種族の繁殖に役立たせるのが、天主のお考えです。人類に与えられました一番初めの御命令は、「生めよ、ふえよ、地に満てよ」(創世記一ノ二八)でした。「開闢の初めに、神は人を男女に造り給えり、此故に人は父母を離れて其妻に合し、両人一体となるべし。さらば既に二人に非ずして一体なり、故に神の合せ給いし所、人之を分つべからず」(マルコ一〇ノ六〜九)と主は申されました。ですから、子供をこの世にもたらすのが結婚の目的であり、性の楽しみが合法的にできるのは結婚の時だけです。結婚している者と未婚者との性的関係を姦淫といい、未婚者間の性的関係を私通といいます。両方とも大罪です。(エフェゾ五ノ五)
青年 
貞潔に反する罪はほかのものでも重大ですか。
神父 
貞節や純潔に反する罪はほとんどどれも重大な罪です。純潔に反する罪は、他のどんな罪よりもずっと多く霊魂の亡びの原因になります。そのために、全能の天主はこの世で多くの厳罰をお降しになりました。ノエの大洪水はみだらな行いによって起りました。ソドマとゴモラの町はその為に火によって亡ぼされました。多くの民族はこのために衰亡しました。過去何百年の間キリスト信者の本性のようになっていたこの道徳観念が、今日非常に多くの方面から破壊されようとしていますから、以上の真理をもう一度世人に教えなければなりません。映画、通俗雑誌、それから、新聞の絵や広告までが、全能の天主が厳重に禁じていられることを、ないがしろにしています。
青年 
そういう罪はすべて重大な罪ですが、その中には重い軽いがあると思いますが?
神父 
ええ、そうです。たとえば、みだらな行いは言葉よりも悪いです。行いも、それが未婚者によって犯される場合(申命記二二ノ二一)、婚姻しているものが行う場合(レビ記二〇ノ二〇)、親族関係のものが行う場合(コリント前五ノ一)、単独で行う場合(ロマ一ノ二四〜二六)のそれぞれによって悪意が違っています。ですが、聖パウロはこれらはすべて天国に入れないと言っています。御存じのように、人間は天使と動物との間に立っています。半分は霊で、半分は動物です。聖書に人間は天使より少し劣って創られ、天主はこれに天使と同じ幸福を予定されたとあります。人間の体は、天主の御すがたにかたどって作られた霊の住家です。事実、人の霊魂は天主の聖寵を持ちますと、天主はこれと一つになられます。ですから、聖書は私達の体をさして「聖霊の神殿」(コリント前六ノー九)と呼んでいます。それで、肉体をけがしたり、肉慾や体の好むところに従うことは、人を堕落させます。
青年 
わかりました。天主は人間が自分を天使にまで高めることを望んでいられるのですね。動物のようなものにならないで・・。
神父 
ええ、そうです。人は意志と理性を与えられていますから、人は意志と理性を以て常に動物的なかたむきを支配しなければなりません。
青年 
しかし、人はそれは天性だといってそういう放縦の言い分をします。
神父 
自然自身がそういう放縦な行為に色々の罰を加えるという点から見ても、天性に因るという言訳は成り立ちません。この悪へのかたむきは原罪の結果であるのですが、人のより高い自我(理性と意志)でこれを抑えることができます。又抑えなければなりません。こういう罪を何とも思わない人々は、この世の私達の生は一つの戦いであり、天国は悪魔と自我とに打ち勝ったことに対する褒美であるということを考えていません。一切の誘惑は挑戦状で、これに対し、天主は常に必要な聖寵と力を与え給う、と聖パウロは言っています。ですから、天主は、私達が誘惑にかかることを認容されても、いつくしみ深いお方であられます。天主は私達が天国の新らしい褒賞を手に入れる機会を無数に持つことを望んでいられます。
今日非常に流行している梅毒や淋病のような社会病によりまして、みだらな生き方をしている人々を自然が処罰する方法がよくわかります。
青年 
私は今まで思いつかなかったけれど、全くそうですね。私達の力で避けられないことまで避けよと天主が御命じになるのでしたら、それは無理です。しかし、天主が私達にもっと多くの褒美を与えようとして、そのために、犠牲や克己、誘惑の征服を求められるだけでしたら、天主は仁慈なお方です。殊に、天主は私達に誘惑と戦うために必要な武器を与えて下さいます。それでは、正しい唯一の性的楽しみは婚姻についているのですね?
神父 
それだけです。では、簡単にまとめてみましょう。第六誡はみだらな会話、暗示的な冗談や言葉、不道徳な読物を禁じています。それから、みだらな演劇に行ったり、純潔をそこなうものを故意に見たり聞いたりすることを禁じています。ですから、婦人が不謹慎な着物の着方をしたり、他人を誘惑する機会になるようなふうをするのは、禁じられています(チモテオ前二ノ九)それから、第九誡は第六誡の禁じていることを、ことさらに考えたり、望んだりすることを禁じています。「色情を以て女を見ることは不潔な行いと同様悪い」(マテオ五ノ二八)とキリストは言っておられます。
近年、多くの雑誌が非常に「エロ的」になって来ました。これを読む人達は出版者の罪深い事業に協力をし、故意に自分の劣情を挑発し、みだらなことで自分の心を養い、自分の精神を堕落させているのです。
青年 
ですが、みだらな思いや望みが自然に起るのは罪にならないのですか?
神父 
なりません。今から十分間のあいだに、あなたの胸の中でどういう考えが起るか、あなたにはわかりません。あなたの聞いたり、読んだり、見たりすることが、あなたに、みだらな考えを起こさせます。この考えが自分の望んだものでなく、そしてこれを追払うために努力をすれば、功績(いさおし)の原因になります。
一番立派な人でも時には、みだらな思いに悩まされます。しかし、心に浮ぶ時に、故意にこれを楽しむのでなければ、差支えありません。
青年 
みだらな話が非常にはやっていますね?
神父 
そうです。これは人格の低劣さを広告するのですが、「思い多ければ口自ら語る」です。こういう話に夢中になっている人の話を聞きますと、その人の気持は不浄であると断定しても差支えありません。話す前に人は先ず考えがなければならないからです。不謹慎な言葉を聞いて顔を赤くする人には、誰でも心の中で尊敬します。純潔は天使的な徳といわれています。これよりも貴い宝石は誰も持つことはできません。そして、キリストは「心のきよき人は神を見奉るべし」(マテオ五ノ八)と云っておられます。親たるものは誰でも、できるだけのことをして、この聖徳に対する愛を子供に植えつけるようにしなければなりません。人はみだりがましい場面で、人に見られることを恥しく思わなければなりません。誰でも自分の親愛な姉妹がこの世で一番潔い子であってほしいと思います。ですから、誰でも自分の親しい少年や少女達に、共に純潔であれと勧めなければなりません。
青年 
今日あなたが私に天主のこの掟を説明して教えて下さったことを、或る人がこれまでにその点について教えられたことがなくて、知らなかったために、随分これに背いて罪を犯しました場合は、当然その人は心を苦しめなければなりませんか?
神父 
いいえ、今日あなたがお受けになった知識は、その知識をお受けになるまでなさった行為には影響を及ぼしません。あなたが過去になさったことは、その当時にあなたの良心が考えた以上に天主の御前で悪いということはありません。
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