21 第五誡は殺人だけを禁ずるのではない
神父 
第五誡は何でしたかね?
青年 
「汝殺すなかれ」です。
神父 
この天主の掟については、講義しないでもわかっている、とあなたはお考えのことでしょう。誰だって人を殺してもいいと思う人はいないのですからね。
青年 
実は、私はそう考えていた所ですが、多分、殺すことを禁じているだけではないのですね。
神父 
そうです。この掟は、自分の健康と隣人の健康とについて正しい配慮をするように或る義務を課しているのです。それから、ややもすれば人間を殺したと同じような結果になる惧れのある事柄を全部禁じているのです。
青年 
人間の健康を害するようなことを禁じているのですね?
神父 
そうです。命をちぢめる、たとえば、不節制、子供の遺棄、危険な冒険を禁じています。しかし、特に、自殺およぴ殺人を禁じています。私達の生命は天主のものです。私達が生れるに当り、天主は相談をなさいませんでした。また、いつ、どこで、どういうふうに死にたいかと、天主は私達に御相談にはなりません。私達は天主の被造物で天主のものです。ですから、自分の生命を捨てる権利はありません。自殺は、発狂に基くものでなければ、信仰の欠如に原因しているということは、自殺の数が、宗教の振わない国で一番多いという統計ではっきりしています。
青年 
殺すことが正当である場合もありますか?
神父 
不正な侵害者の攻撃を受けて、純粋に自己防衛のためにこれをする場合は正当なものになります。しかし、自分の生命を救うために、侵害者を傷つけるだけで十分でしたら、それだけにとどめておかなければなりません。
青年 
絞首とかその他の死刑の方法をどうお考えになりますか?
神父 
やむを得ないでしょう(創世記九ノ五六)。個人や、群衆が罪人を吊したりリンチを加えたりすることは認められませんが、天主の代理をする公の権威は非常の処置とか最後の手段に、こういう刑罰を加えることができます。個人は社会の一員で、手足が体の部分であるのと同じです。病気の手足を体全部のために切り離してもいいように、社会の罪ある構成員を社会全般のために、やむを得ない場合、公の役人によって死刑に処することができます。
青年 
殺人と自殺とは怖しい行いですね。
神父 
そうです。そして自殺は卑怯です。本当の英雄的な行いは、逆境とか、艱難とか、苦しみを勇敢に堪えるところに現われます。こういう試煉を天主の愛のためとか、贖罪の精神で堪えますと、一番大きな功績になります。殺人者はその行いの後で幸福であることはあり得ません。概して、こういう人は非業の最期を遂げます。
青年 
戦争で人を殺すことは正当であると思いますが?
神父 
戦争そのものが正しい戦争であれば、その通りです。しかし、正しい戦争というものはこれまでにも僅かしかありません。戦争が正しいものであるためには、宣戦を布告する国家が、(一)その権利が現実に侵害されているか、又は確実に急迫した危険状態にあって、(二)戦争そのものの害に相応する戦争の理由があり、(三)平和的なあらゆる調停手段がこれに不適当であったということが証明され、(四)紛争によって情態が改善されるという十分に根拠のある希望が存する、という四つの条件がみたされなければなりません。この条件が宣戦布告の時に守られていましたら ----- これは歴史上めったにないことですが ----- 戦争は非常に少かったことでしょう。
青年 
争議を仲裁するよう頼まれた或る神父さんが、争議が正当であるための条件として、これと全く同じような条件が必要なことを、労働者に説明していられるのを、一度聞いたことがあります。
神父 
そう、争議は産業上の一種の戦いです。争議を正当化する条件と、戦争を正当化する条件とは、非常によく似ています。しかし、正しい戦争は極めて少いに反し、正しい争議はずっと頻繁に起っています。
青年 
殉教者は、必要でもないのに、生命を差し出したのではありませんか? 
神父 
絶対にそんなことはありません。彼等は信仰を捨てるか、命を捨てるか、どちらか一方を選ばなければならなかったのです。そして、やむを得ず後の方を選んだのです。「蓋し我と我が言(ことば)とを愧(は)ずる人をば、人の子も亦己と父と聖使等との威光を以て来らん時彼を愧ずべし」とキリストは言っておられます。殉教者は、天主に罰を得て裏切るよりはと、むしろ生命を捨てました。これは讃むべき行いで、イエズス御自ら「我為に生命を失う人はこれを保たん」(ルカ九ノ二四、マテオ一〇ノ三九)と、これに天国を約束されました。
青年 
愛徳のため、または人を救うために、生命の危険を冒すのは悪いことですか?
神父 
いいえ、それは賞賛すべきものです。それは多くの宣教師がして来ています。カトリック教会の修道女も多くの戦争でそうしました。現に、ライ病患者の世話や、伝染病で苦んでいる人々の看病をしています。この場合、直接に死を求めているのではありません。
青年 
では、往々にして殺人と同じような結果になる罪には、どんなものがありますか。どういうことが、その為に、第五誡によって禁じられていますか?
神父 
憤怒、憎悪、復讐の望み、嫉妬、喧嘩、口論、泥酔、決闘などです。
青年 
泥酔はなぜこの掟に関係があるのですか?
神父 
泥酔は種々さまざまの悪に、多くの場合第五誡に反する罪に到る入口になるからです。その上大切なことは、これは、自分の健康に当然払わなければならない注意を怠ることになります。酔うということは常に罪になりますが、善悪の見分けがつかないほどに酔うことは、大罪になります。
青年 
憤怒は非常に重い罪ですか? これは極めてありふれたことですが。
神父 
程度の如何によります。又、これをおさえようと努めているかどうかということによって決まります。日常普通の感情の突発は大罪になりませんが、怒るという悪い習慣を持っている人は、これをやめるように努力しなければなりません。
青年 
堕胎はどうですか?
神父 
それは、まだ生れない子供に対する残虐な侵害です。子供は、妊娠のその瞬間より、唯一の創造主から、生きる権利を与えられています。創造主以外に、その生命を、欲するままに奪う権利を有するものはありません。堕胎に協力する医師と、これに同意を与える団体は、ともに罪があります。これを暗示したり、すすめたりする人も、この卑怯な罪の共同者でありまして、教会はこの行為に、聖体の拝領を停止する罰を加えています。
青年 
この問題についてですが、産児制限はどうですか?
神父 
人為的な産児制限を行って失敗する人は、時には堕胎を犯すようになることがありますが、産児制限はむしろ第六誡に対する罪です。御存じのように、避妊具の使用は生命を阻止するという罪であり、堕胎は妊娠してから後に、その人命を殺すという罪です。
青年 
それでは「家族計画」は悪いことですか?
神父 
もし、正しい十分な理由があり、その計画が、夫婦相互の同意に基いて全面的又は部分的に禁欲するのであれば間違いではありません。しかし、家族計画ということが、避妊の手段とか器具を使用するのであればそれは大罪です。未来のための「家族計画」は頽廃的な非行を覆う体裁のいい名目に使われているのです。
青年 
自分のものである動物を殺すことは、罪にはならないのでしょう。
神父 
なりません。動物は人間の役に立ち、その必要に応ずるために存在しています。しかし、気まぐれなむごい扱い方をすることはいけません。
青年 
この外にどんなことがこの第五誡で禁じられていますか。
神父 
そうですね、この標題の下には、普通「醜聞」(スキャンダル)といわれている行為、すなわち「悪い模範」が含まれています。というのは、この罪により、人の霊魂の超自然的生命が害せられるからです。これは天主の御前においては、肉体の上に加えられるどんな害よりももっと大きな害になります。
ところで、これはあなたは十分おわかりのことと思いますが、他人に害を与えたり、傷をつけたりした人は、その害を償うことができれば、償わなければなりません。たとえば、不当に他人を傷つけた場合は、被害者が医者にかかり、又仕事ができないならば加害者は医者代を支払い、且つその人の得そこなった金を賠償しなければなりません。また、悪い模範によって、他人をつまづかせた場合には、少くともその人に謝罪する義務があり、且つその醜い行為を真似しないようにと、告げなければなりません。
私達は人に親切をし、他人を怒らせず、怨みとか憎みの心を現さず、汝の欲することを人に施せというキリストの御教えを、実行しなければなりません。人を赦し、自分がしてほしいと思うことは他人にもしなければなりません。「誰も人に対して、悪を以て悪を報いざる事を心懸け、相互いに又凡ての人に対して、何時も善き事を追求せよ」(テサロニケ前五ノ一五)という聖パウロの忠言はすぐれたもので、これが実現されますと、人からも天主からも愛されます。
青年 
いい忠言ですが、実行は非常にむずかしいと思います。
神父 
努力さえすれば、そんなにむずかしいことではありません。誰でも怒れば必ずいつも後で後悔をします。怒って何の利益にもなりません。他人を不幸にするばかりか、自分自身も不幸になります。快活な愛想のいい寛大な気立ては羨やましいものです。人に怒ったり、口を尖らしたりした後で、その人との友情を回復するということは、必ず難しいことですが、始めから不親切な言葉を出さずに置くということは、それにくらべてずっと易しいことです。
青年 
私もその通りだと思います。
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