神父
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さて、あなたはあの呪うという悪い習慣に打ちかつように努力してみましたか?
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青年
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できるだけしてみました。
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神父
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それならいいです。では次に、第三誡の「汝、安息日(サバス)を聖日とすべきことをおぼゆべし」というのを勉強しましょう。
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青年
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この前神父さんは、聖書だけに従うと、土曜日を聖としなければならない、とおっしゃいました。でも安息日は日曜日ではないのですか?
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神父
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「サバス」とう言葉は「安息」という意味で、週の第七日目、即ち土曜日を意味します。
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青年
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では、キリストはその日をお変えになったのですか?
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神父
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お変えになったという記録はありませんが、キリストが天にお帰りになったすぐ後で、教会が変更したという証拠があります。(使徒行録二〇ノ七、コリント前一六ノ一〜二)
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青年
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天主の掟を変える権能が教会に与えられているということは、おかしいですね。
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神父
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天主の掟を変えたのではありません。掟の本質はそのままです。即ち人は週に一度、七日目毎に、労働をやめて公に天主を礼拝しなければなりません。教会はこの義務を土曜日から日曜日に移し変えただけです。天主の掟がどの日を選んでいるかという点は、儀式上の問題です。そして、ユダヤ人の儀式的な掟はすべて、キリストの御来臨と同時に終りました。これに反し、道徳的な掟は、天主が定律的にお授けになったもので、しかも、自然法に基いていますから、これは教会といえど変更することはできません。
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青年
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では、神父さん、教会はどうして礼拝の日を変えたのですか?
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神父
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ええ、その第一の理由は、多くのユダヤ人がキリスト教会に改宗してからもやっぱり、割礼とか、或る種類の肉の断食とか、安息日の面倒なユダヤ教の儀式とかいうような、モイゼの儀式的な掟を守らなければならないと思っていたからです。彼等の先祖が二千年もこうして来たのですから、こういう考えを除くことはむずかしいことでした。それで使徒達は土曜日の公けのお勤めを全然廃止して、改宗したユダヤ人をキリスト教会の命令に従わせるのがいいと考えました。そしてその日が土曜日から日曜日に変えられたわけです。古い律法の時代が終って、新らしい時代が、より完全な宗教が、これに代ったということを、ユダヤ人達に信じさせるのに、それは非常にすぐれた最上の方法でした。
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青年
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わかりました。それから、外の日よりも週の最初の日を選んだということには、理由があるのですね?
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神父
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そうです。イエズスが死者の中から御復活なさったのは日曜日で、聖霊が使徒達の上にお降りになったのも日曜日でした。キリストが御自ら天主であることを、従って主の教会の聖なることを証明なさったのは、特にこの御復活によるものでありまして、又、聖霊が教会にその霊として、その聖なる生命の源として入られましたのも聖霊降臨の日です。この大きな出来事が二つとも日曜日に起ったのです。
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青年
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第三誡は日曜日を聖とする何か特別な方法を定めているのでしょうか?
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神父
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掟の言葉はそれをきめておりません。しかし、天主がこの掟をモイゼにお授けになった時、安息日には何の業務をも為すべからず、(聖なる礼拝を以て)これをきよくすべし(出埃及記二〇ノ一〇〜一一)とはっきり申されました。これは大切な義務です。一方のことは、してはなりません。そして、一方のことは、しなければなりません。日曜日に、私達は不必要な重労働はしてはいけません。他方、教会の命令に従って公けに天主を礼拝しなければなりません。
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青年
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それでは、必要な仕事は許されますね。
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神父
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そうです。「必要に法律なし」です。たとえば、あなたの家が燃えたとしますと、それに労働が必要であっても、消防隊は火を消すために働きますし、又、働かなければなりません。
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青年
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しかし、日常の普通の仕事は、必要がなければ、禁じられているのですか?
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神父
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教会は肉体労働と知的労働を区別しています。前者は身体的な肉体労働を、後者は主として精神的な労働のことをいいます。普通、召使や店員、労働者、職人などのする仕事は禁じられますが、絵を書くとか、読書、研究、筆記などは許されています。しかし、大体教会は七日の中の主の一日をよりよく天主を崇め奉れるようにするために、日曜日は日常の仕事を休んで天主を崇めるようにすすめています。あいにく、今日の産業は多くの日曜にも働いています。もし日曜日も働かなければ職業を続けられないというのでしたら、この理由はその仕事を正しいものにするのに十分です。
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青年
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娯楽や遊びはどんなものでも日曜日に禁じられていますか。
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神父
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いいえ、安息ということは怠惰ということではありません。天主の御思召は、日曜日はまた一週の仕事と心配から離れて、気晴しと休養の一日にしなければならない、というのです。平日レクレーションとして害のない遊びは、日曜日でも、罪になることはありません。
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青年
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リキュールの酒場やナイトクラブが日曜日に商売をすることは、悪いことですか?
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神父
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現状では、いけませんね。リキュールを売る仕事は、知的でも必要でもありません。その職業は、天主の誉れや栄えに貢献しません。純粋に金もうけです。
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青年
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慈善的な仕事は許されていると思いますか?
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神父
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そうです。非常に良いことです。貧乏人を助けたり、病人を救ったり、又、生き物をいつくしんだりする些細な努力も、非常に良いことです。キリスト御自らの御手本があります(ルカ一四ノ四)。
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青年
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公けの礼拝が命じられているというお話でしたが、家に居て日曜日を聖にするだけでは不十分ですか。
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神父
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不十分です。日曜日は誰もが家族と一緒になって、天主を天にまします御父として公けに礼拝するように命じられています。キリストの教会には礼拝の方式があり、これは天主のお定めになりました方式で、人はこれによって、天主をふさわしく崇めることができます。教会は理性を使い得るようになった人は全部、日曜日はこのために出席するように命じています。これは実に大切な義務です。
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青年
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それは御ミサのことですか?
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神父
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そうです。
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青年
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私は毎日曜日参りますが、まだその意味が十分つかめません。
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神父
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あとでわかるようお話しますが、当分の間、あなたは、おあずかりになる御ミサを、司祭がこれを奉献する目的に従ってお捧げになり、そして、御ミサの間全能の天主に自分なりにお祈りをして下さい。お祈りの本の「ミサの祈」とか「ミサ聖祭式」というところをお読みになるか、又は、ミサ典書を見ながら司祭の動作を追って行くと、幾分わかります。
次の講義の時は、第四誡をお話しましょう。これまでにすました三つの誡は、天主に対する私達の義務と直接関係していることに、多分お気づきでしたでしょう。残りの七つの掟は、私達の近き人(両親から始めて一般の人々)に対し、私達の愛を示さねばならない義務を列挙しています。 主は「汝等相愛せば、人皆これによりて汝等の我弟子たることを認めん」(ヨハネ一三ノ三五)と、隣人愛を以てキリスト信者のいちぢるしい特徴であるとされました。キリスト信者の愛はすべての者、即ち、私達を憎み、私達に、禍いを望み、進んで害を加える人達や敵の人達にも及ばなければなりません(マテオ五ノ四四)。実際、愛は、親切な行いとなって実践されなければならないのでありまして、しかも、霊魂は肉体よりも大切であるという動機が含まれていなければなりません。キリスト信者は、自分の能力と隣人の必要に従って、慈善の業を果す義務のあることを忘れずにいて下さい。 |
青年
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お話の「慈善の業」というのは、例えばどういうことですか。
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神父
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たくさんあります。主なものをお話しましょう。「肉体的な」慈善の業としては、非常に困っている人達に飲食物や衣服、住居を与えたり、病にかかったり、牢獄にいる人達を訪ねたり、死者の埋葬を手伝ったりすることです。「霊的な」主な慈善の業は、罪人を戒めたり、無学な人に教えたり、迷える人を諭したり、悲しむ人を慰めたり、悪をされても辛抱強く堪え忍んだり、すべての仇を赦したり、生ける人と死せる人のために祈ったりすることです。
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青年
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すべて善い行いとか親切な行いは慈善の業と云えましょうね。
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神父
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そうです。真のキリスト信者の精神から行いますと、隣人の肉体的、精神的苦しみを救うどんなありふれた行いも、真の慈善の業になります。
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