17 第一誡の禁止事項、聖人崇敬の意味
神父 
この前の講義は何の話でしたか?
青年 
像などを使用する問題でした。
神父 
ああ、そうでした。第一誡は、教会を飾るためにせよ、像を作ることはこれを禁じないということがわかりましたね。しかし、第一誡は(第二誡ではなく)、天主にあらざる人や物を、天主として礼拝することを、いかなる場合にも厳重に禁じています。偶像の崇拝、即ち異教の人達が行っているような偶像の礼拝はまちがっています。聖人その他いかなる被造物でもこれを拝むことは、同様にまちがっています。
青年 
では、カトリックは童貞マリアを拝んではいないのですか?
神父 
拝んではいません。拝めば偶像崇拝になります。私達は、天主の聖なる被造物の何ものにもましてマリアを崇めますが、それはマリアは最高の聖人で、全能の天主御自らが、いかなる被造物にもまして、マリアを尊敬していられるからです。
青年 
聖人を尊ぶと天主に対する尊敬がへるとか、カトリックはキリストよりもマリアを崇めている、と云う人がいますが、これも亦誤った考えである、ということをよく説明して下さいませんか?
神父 
ええ、世間の人達は私達を誤解しています。私達は聖人を尊敬することによって、天主を崇めるのです。私達が聖人を尊敬するのは、この人達はこの世で極めて天主に親しくあり、又非常に有徳な一生を送られたかたに過ぎません。一国の大統領が、自分の一番親しい母親を尊敬されて、自分は軽蔑されたと思うでしょうか? 彼の母なればこそ母も尊敬されているのだ、ということ位い大統領にもわかるはずです。絵をほめますと、それはその芸術家を讃めることになるでしょう? カトリック信者は、聖人の聖なる生涯にならい、また私達に代って天主に祈られんことを聖人にお願いし、その聖遺物や像などを尊ぶことによって聖人を尊敬するように教えられている、ということは、そのうちにあなたもおわかりになります。
青年 
カトリックを批評する人の説がまちがっていることは私にもわかりました。ですが聖書はマリアのことを特に讃えていますか?
神父 
キリストを別にすれば、他のいかなる人物よりもマリアを特に讃えています。聖書のページを多くマリアに捧げている、というわけではありません。賞讃する言葉の長短を以て人の偉きを決めようとすることは、ばかなことです。絵の値打ちを、これに使われているカンバスの広さで評価するのと似ています。たった一つの文章でも、全巻の持つ以上の意味を有していることもあります。
聖書に「此のマリアよりイエズス生れ給えり」(マテオ一ノ一六)とこの数語だけしかのっていないとしても、それだけで全巻を以てマリアのことを讃えているのと殆んど変りはありません。次に聖グレゴリオが申しましたように「キリストの御模範は掟なり」でありますから、キリストがマリアを尊敬されたように私達がマリアを崇敬するのはむしろ当然です。キリストはマリアからその御人性をお取りになり、共に三十年聞をお暮らし遊ばされ、そして、マリアに「従い」給い、「時未だ来らざる」にマリアの御請求で最初の奇蹟を行われ、「是汝の母なり」という十字架上の最後の御言葉を以て、マリアを私達の母としてお授け下さったというように、キリストはマリアを尊敬されました。天主によって遣わされた天使が、マリアに、天主の御母になり給うことを告げたときもマリアを崇敬しました。聖ルカの福音者(ルカ一ノ二六〜三五)には、天主がマリアにお与えになった尊敬の言葉が記されており、これを読むと息づまる気がします。
青年 
ですが、あなた方もマリアにお祈をなさるでしょう?
神父 
私達は、どちらかといいますと、私達と共に天主にお祈り下さるようにマリアにお願いするのです。キリストは、主の御名において二人又はそれ以上の人が集って祈をすれば快くこれを聞き容れようとおっしゃいました。教会の祈はすべて「我等の主キリストによりて」天主に申し上げます。マリアの汚れなき御手にお任せする私達のお祈りもそうするのです。マリアにお祈りするのと、天主にお祈りするのとは、その意味内容が違っています。私達は、お恵みを賜るようにマリアにお願いするのではありません。おとりなしによって私達のためにそれを獲て下さいとマリアにお祈りするのです。聖書におたがいのために祈れとありますね? 私はあなたのために、あなたは私のためにお祈することができます。ですから、天主に一番親しい聖人が、私達のために天主に祈ることができないというわけはありませんね? そして、キリストはこの世でマリアのお祈をよくお聞きになった以上天においてもマリアのお祈に御注意をなさるはずですね。
青年 
その通りです。
神父 
この問題はこれで十分お話したと思います。次に、第一誡はこの外にどういうことを禁じでいるかを調べてみましょう。第一誡は、天主だけしか所持できないような特別の力を、普通の人や物が所持していると信じてその人や物を崇めるような、偶像崇拝に等しい一切の行いを禁じています。
青年 
たとえば?
神父 
未来のことを易者に見てもらうようなことです。未来は天主だけが知っていられます。前兆や夢を信じたり、神降しのところに頼みに行くようなこと、天主から出た確実な御加護を護符や石、メダイなどのおかげだとするようなこと、これは迷信です。天主だけにある力を被造物に帰することです。
青年 
私は、カトリック信者はメダイをつけることを信仰し、その外にも何か頸にかけているのだと思っていましたが?
神父 
カトりツタ信者は、聖物を謹んで使うと天の御保護をいただくことができよう、と信じています。しかし、確実にこれが得られるとは思っていません。また助力が直接メダイやスカプラリオ(肩衣)から出るとは思っていません。天主から助力が来ると思って身に付けているのです。
青年 
どういうわけでメダイをつけるのですか?
神父 
メダイは聖人を尊んで身に付けるのですが、それはその聖人の御保護をいただくためです。イエズスの聖心、聖母マリア、聖ベネディクト、その外の方々を尊んでつけるメダイがあります。これらのメダイは司祭の祝別を受けその聖人に対する信心から身につけ、その聖人を尊んで肌身から離しません。自動車のどこかに聖クリストファのメダイを結びつけておくことは、カトリック信者のならわしになっています。
青年 
聖クリストファというのは誰ですか?
神父 
聖人で、そのクリストファという名は「キリストを負う者」という意味ですが、旅行者はその加護を求めます。
スカプラリオのことは、後ほどの特別の講義の時にお話します。
青年 
それでは、カトサックは迷信的ではありませんね?
神父 
ほかの社会の人こそ迷信的ですよ。戸口に吊してある蹄鉄が幸運をもたらすなどとは信じていません。又、金曜日に旅行したり、十二人の人といっしょに食事をすると不幸が起きる、などということも信じません。ほかの人ならこういうばかな迷信を認めるかもしれませんが、カトリック教会は信者に、本来天主でなければ与えたり奪ったりすることのできないものを、人やものが与えたり奪ったりできるように信ずるのは誤りであると、教えています。
また、カトリック信者は、天主に奉献された人や場所や事物は崇めなければならないと教えられていますが、それ以外の人や場所や事物を崇め奉るのは涜聖の罪であると、考えています。
青年 
それはそうに決まっていますね。
神父 
これまでは第一誡によって禁じられていることをお話しました。そこで、一言、第一誡が私達に命じていることをお話します。第一誡は、天主に相当する最高の礼拝を天主に捧げることを命じています。その第一は天主を讃美すること、第二は、私達の存在が全能者に依存していることを承認すること、即ち祈祷、第三は天主の御啓示を承認すること、いいかえれば、信仰、第四は天主の御約束を信頼すること、即ち望み、第五は私達の父としての天主を愛することです。
青年 
祈をしないということは罪ですか?
神父 
もちろんです。
青年 
何回祈らなければならないのですか?
神父 
どんな場合に祈を怠ると罪になるかということを決めることは困難です。しかし、最小限度、朝晩と誘惑に遭った時は祈らなければなりません。聖パウロは常に祈るべしと言っています。これは実際に祈るばかりか、仕事をするにも、休養をするにも、又食事をするにも、天主の御名においてこれをしなければならない、ということを意味しています。「汝等食うも飲むも、又何事を為すも総て神の光栄の為にせよ」(コリント前一〇ノ三一)といっています。こうして絶えず天主と一致していますと、気持が楽になり、仕事のつらさや悲しみ、苦しみがなくなります。
青年 
それも実用的な考えですね。
神父 
信、望、愛の意味を簡単にお話しましょう。信は、私達が救われるために、知りかつ行わなければならない天主の御示しになったことを確かなことであるとして認める心の働きです。私達に知らしめ給うために、わざわざ天主が御示しになりましたことは、固く信じて、必要な時はいつでも公けに信仰を言い表わさなければなりません。又、天主の御示しになりましたことはこれを考えてその意味を理解するように努めなければなりません。天主は信ずるために霊感と助力を賜ります。ですから、私達は天主に対する信仰の業を屡々行い、私達の信仰を強め給うように祈り、キリストの御教を勉強し、良き書を読み、信仰を損うおそれのあるもの、たとえば、信仰に反する人や文学はどんなものでも避けるようにして、この聖寵を護らなければなりません。
罪は信仰に対しても犯され得る、ということをおぼえていて下さい。キリストの御教について十分知識を得てから、これを拒むことは不信の罪になります。洗礼を受けてキリスト信者であることを公言しながら、天主の御啓示という権威に基いてカトリック信者が認めなければならない所の教会の教えを、部分的に否認しますと、異端の罪になります。もし洗礼を受けた人がキリストの教えを全部否認しますと背教の罪になります。又、すべて宗教は等しく善であり真である、という説は信教無差別という罪を犯すことになります。
青年 
カトリックでない教会の儀式に参列することはどうですか?
神父 
カトリック信者がカトリック以外の礼拝にくみすると、信仰に対する罪になります。なぜなら、いつわりの宗教であると知りながら、その宗教を信ずるということを表わすようになるからです。御存じのように、ほかの宗教はすべて信仰がカトリックの信仰と違っています。そして、人はその信仰に従って礼拝をするのですから、他の宗教の礼拝はカトリックにとりまして、不正の礼拝です。しかし、職務上の理由や、カトリック以外の教会で葬式や結婚式をする人のために友情の上からやむを得ない場合は、カトリック信者がその式で積極的な立場をとらなければ、参列してもかまいません。
今夜はおそくまであなたをお引止めしたくないのですが、望と愛についてお話したいと思います。
青年 
是非伺いたいことです。
神父 
天主が私達に天国における永遠の生命とこれを手に入れる手段を与え給うことを私達は固く信じなければなりませんので、キリスト教の望徳は大切です。人はこのキリスト教の望徳を次の二つの大罪のいずれかによって失うことがあります。第一は、天主の助力を斤けて救霊を全く自分自身のカに期待したり、天主の助力にばかり頼って自分は全然努力をしなかったり、力を合せなかったりすることです。これは傲慢の罪です。第二は、天主と天主の御助けを、進んで拒むことです。これは絶望の罪です。
既にお話したように、大罪はすべて、私達が当然天主に捧げなければならない愛に反しますが、私達は又、仲間即ち隣人をも愛さなければなりません。私達がこの愛の点で罪を犯すのは、主として悪い言葉や行いにより、隣人を罪に誘ってしまうということです。たとえば、よくない本や、みだらな絵を人に渡したり、涜神的な、みだらな言葉を、殊に若い人達の前で使ったりして、隣人愛にそむくことが多いのです。この罪はスキャンダルといわれています。
私達は隣人を己の如く愛さなければならないのですが、自分自身を愛することを「なおざり」によって、為さずにいることがあります。この「なおざり」は肉体的な怠惰というよりは、むしろ、自分自身の救霊とこれを保証するに必要な手段に対して無頓着である場合です。
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