14 煉獄
教会の教えの内で一番わかりよいもの
青年 
神父さん、煉獄につき教会がどう説いているのか私は全然知りませんが、煉獄という観念は、人々から、ひどい非難をうけていますね。
神父 
それは私達の教えが正しく理解されていないからです。煉獄は、非常に理屈にも合い、慰め多い教えです。そして、これは天主の正義によって要求されています。天国には最善の人だけが死後直ぐに行くことができ、また最悪の人は地獄におちる、という点は、既にあなたもお認めでしよう。
青年 
認めます。
神父 
それでは、最善の人の部類にも最悪の人の部類にも入らない大多数の人はどうなりますか? この人達の霊魂は死後どこに行くのでしょう?
青年 
そんなことは今までに考えたこともありません。どこかに行くことはたしかです。
神父 
そうですよ、煉獄へ行くのです。
青年 
そんなら、私にも、わかります。大多数の人は天国に直接行ける程、罪がないとは云えませんし、又、地獄で永久に罰せられるほど悪くはないのですから。
神父 
あなたの考え通りです。これは人間の審判と天主の審判のやり方を比較しますと、もっとよくわかります。人間の審判は天主の審判を模範にしなければ、その名を以て呼ばれる価値さえありません。人間の正義は大罪人、小罪人の区別を認め、それに従って罰を加えます。人間の審判には、一日、十日、一カ月という風に犯人に罰を加える刑務所と、無期刑を入れる刑務所があります。この町で二人の人が、一人は殺人、もう一人は規定以上の速力で自動車を走らせたということで逮捕され、二人とも取調べを受け、無期で刑務所に行く宣告を受けたらどうですか?
青年 
それはそういう不公平をしたら誰も非難するに決まっています。
神父 
煉獄を否定して御覧なさい。そうすれば、天主が不従順な人間を、今述べた例のように不公平に処理をしたからとて天主を非難することはできませんよ。
青年 
では、煉獄は小罪を償わずに死んだ人達が、一時的に罰を受けるところですか?
神父 
そうです。ですが、煉獄に行く人も聖寵の状態で死ぬ者である、ということに注意して下さい。この人達は天主の友ですが、死ぬ前に、小罪(容易に赦される罪)を犯したままになっているか、でなければ、罪は赦されたものの、まだその罪の償いを十分に果してなかったのです。
青年 
少しでも理性のある人なら、こういう場所の存在する必然性はわかるはずです。
神父 
又、それは心の目から偏見の霧を取り去りさえすればわかります。キリスト信者はどれほど猛烈に煉獄を口で攻撃しましても、心の中では煉獄の存在を信じています。このことは、災いにあった友人や親族のために、殆ど無意識裡にお祈りをあげることから見ても明かです。祈りのないキリスト信者の葬式は殆どありません。これは行いが言葉以上にものをいう一つの実例です ----- もし煉獄がないなら、お祈りしたところで何の役にたちますか? 故人の霊魂が天国にいるのでしたら、祈りは全然いりません。もし地獄におとされているのでしたら、祈りもこれを救うことはできません。
青年 
では、煉獄のことは聖書にのっているのですか?
神父 
そういう場所のことは述べていますが、「煉獄」という名では呼んでいません。「煉獄」という名が聖書に出ていないからとて反対するのは、反対論の中では一番薄弱です。霊感の書の中に「聖書」という名が見当らないから、聖書という本はないというのと同じ筆法です。そういう筆法なら、三位一体、御託身などは、聖書の中にそういう言葉が見当らないからという理由で否定されましょう。名前は場所を作りません。まず場所が存在しなければなりません。それからこれに名が与えられます。一時的な罰を加えるこの場所はどんな名前で呼んでもかまいません。カトリックはこれを煉獄と呼んでいます。これは浄める場所という意味です。天主の聖なる御前に行く妨げになっている罪の小さな汚れを、霊魂はそこで浄められるからです。
青年 
その場所のことが聖書に出ているとおっしゃいましたが、どこに出ていますか?
神父 
聖マテオは五章二六節で来世の監獄のことを述べ「最後の一厘を還すまで」霊魂はそこから免かれないと云っています。ところで、最後の一厘は、天国では返す必要はありません。又地獄から絶対に免かれないのです。ですから、話は当然第三の場所に持って行かなければなりません。同じ福音史家聖マテオは第十二章の第三二節の中で、聖霊に対する罪について、この罪は「此の世、後の世、共に赦されざるべし」といっています。これは言外に「後の世で赦される罪もある」という意味を含んでいます。ですが、これは絶対に放免のない地獄のことでもありません。又、天国でもありません。天国は「潔からざるものは之に入らず」(黙示録二一ノ二七)ですから。一時的に死後の罰を受ける場所のことは、天主は人の働きに従って報い或は罰し給うということを述べている多くの聖句の中に、はっきりいっています。かりに、煉獄はないとしてみましょう。その時、私やあなたはどうなりますか? 聖書は一方では、汚れた者は天国に入ることを得ずといい、又一方では、無益なる言葉(小さな罪)も霊魂を汚すといっています(マテオ一二ノ三六)。一時的に罰を加える場所がないと、小罪を犯した人まで地獄に送られることとなり、誰が一体救われますか?
青年 
そうなってしまいますね。ですが、神父様、死者のために世間では祈るならわしがあると先程お話しになりましたが、祈祷によつて煉獄の霊魂を助けることができる、というのですか?
神父 
そうです。祈祷、善業、贖宥によって、殊に、天主のお定めになった、御ミサとよばれる教会の犠牲によりまして、助けることができます。贖宥と御ミサのことは後でお話します。
青年 
たしかに慰めになる教えですね ----- 私達が死者を助けることができるとは。
神父 
そう、その通りです。この教えを聞いただけで多くの人がカトリックの信仰に回心しました。丁度、私があなたに代って八百屋や肉屋のあなたの借りを支払うことができますように、私は、煉獄の霊魂が天主に負うている償いの最後の一厘までお返しする為に、私の善業をこれに捧げることができます。キリストは御自ら、主を信ずる者の中のいと小さきものになすことは、これ主のためになすことである、と言われましたが、或る意味では、煉獄の霊魂はキリストを信ずる者の中のいと小さきものであります。それは、煉獄の霊魂は祈りを以て他の者を助けることはできても、自分を救うことができないからです。御存じのように、死ぬと同時に、痛悔をなす時期も御慈悲を蒙る時期も終ります。死後は、天主は正義だけを行使されます。こういうわけで、最後の一厘まで支払わなければなりません
青年 
祈りは死者を助けるということは、聖書にのっていますか?
神父 
のっています。旧約聖書マカべ後書の第一二章第四六節に、煉獄が存在することの聖書的証明と、ユダヤ人が戦場で死んだ同信者のために、いけにえを捧げたということの証拠があります。------ これは、「その罪のゆるされんとて、死者のために祈るは、聖にして益ある思念なり」であるからです。天国や地獄にいる死者のためなら祈って何の役に立ちますか? 彼等が祈ったということは、まだ死者の救われる場所(私達はこれを煉獄とよんでいます)があるというととと、生ける者の祈りが彼等を救うことができるということを信じていた、ということを現わしています。この聖句は、明かにカトリック側の行いの利益になりますので、これを含んでいる篇を全部、プロテスタント側の聖書から取り除かれました。しかし、そうしても彼等の立場は有利にはなりません。この本は、たとえ神感によるものでないとしても、天主の選民の中に、どんな習慣があったかを語っています。今日でもユダヤ人は死者の為に祈ります。
青年 
しかし、どういうわけでカトリックでない人達は、こういう慰めにみちた教えを排斥しようとするのですか?
神父 
そうですね。その人達は、主を信ずる罪人にキリストの御功徳があてがわれるとその人の罪は全部除かれる、だから、信ずる者はすぐ天国に行く、ということを信じたいのです。生命に入る為には、人は掟を守り、教会に聴き、聖父の御旨を行わねばならないと、キリストはいっていられますから、これは反聖書的です。
青年 
煉獄に行く人は、どれ位い長い間そこにおらなければなりませんか?
神父 
私達には判りません。その霊魂の状態によって一切はきまります。多分あなたは、カトリック外の人が、「司祭は知っているふりをして、なにがしの金を受取れば霊魂を煉獄から救い出すために祈ってあげようと云っている」と、しゃべっているのをお聞きになったことがあるでしょう?
青年 
ええ、聞いたことがあります。
神父 
煉獄には誰がいるのかいないのか、又どれ位い長い間そこにいるのか、司祭にはわかりません。限りなく正義にまします天主は、各人の霊魂に相当した罰を宣告されなければなりません。罰のきぴしさと長さはどんなものかということは、天主だけが知っていられます。ですが、私達は祈りによって煉獄の霊魂を助けて、早く天国に入らせることができる、ということを固く信じています。
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