13 地獄
愉快ではないが道理至極のもの
神父 
この前の講義で私達は、聖寵の状態で死ぬ人々に最後の褒賞として与えられる天国のことを勉強しましたが、今度は、大罪の状態で死ぬ人々に課される罰のことをお話しなければなりません。天主の正義と、大罪の本当の性質を考えますと、考えれば考えるほど「エホバを畏るることは智慧の根本なり」(箴言九ノ一〇)という聖書の言葉の事実であることがよく判ります。
青年 
カトリック教会は ----- これは或る教会の説なんですが、----- どんな人でも亡びぬという意味で、「きよめられる」ということを信じないのですか?
神父 
そうです。聖パウロは「自分は如何なることも(いかなる罪も)自ら意識しない。しかし、このことにおいて自分は義とせられぬ」と、パウロでさえ自分の救霊についての絶対的な確信を持たぬ、といっています。又、聖書のほかのところには、何人も己が(神に)愛さるべきものなりや憎まるべきものなりやは知らずとあります。未来において私達が天主の聖寵に一致するだろうか、ということは私達に確かにはわかりません。しかし、聖書は「終まで(正しい生活に)耐え忍ぶ人は救わるべし」と、私達に教えています。
青年 
では、神父さん、カトリック教会は、地獄についてどういうことを教えているのですか?
神父 
教会は、一、地獄は存在する、二、地獄は永遠につづく、三、地獄に落された人は怖しい二重の罰を受ける(即ち、天主を見奉ることを禁じられ、苦痛、殊に火の苦しみを受ける)と教えています。
青年 
地獄と天国とまるきり反対なんですね。
神父 
そうです。天国の聖人達は天主を見奉り、あらゆる種類の苦しみや悩みを免れ、道理にあった望みはすべて叶えられ、喜びを失う心配は全然ありません。これに反し、地獄の霊魂は天主を見奉ることを得ず、烈しい苦しみを受け、そこから放たれる望みは少しもないのです。
青年 
教会の不謬性に対する信仰がありませんと、永遠の罰に関する教会の教えは、一番納得しにくい教えでしょうね。私は今の今まで、いつも天主は寛大ないつくしみ深い御方であると思っていました。
神父 
異論は遠慮なく仰云って下さい。あなたの異論が、正しい道理や常識に合うかどうか調べてみましよう。
青年 
では、ます第一に、天主がそれほどきぴしく人間を罰し給うということを信ずるのは、いやな感じがします。
神父 
だが、事実を、隠さずに考えてみましょう。主は、最后の審判の時に、「来れ我父に祝せられたる者よ、世界開闢より汝等の為に備えられたる国を得よ。・・詛われたる者よ、我を離れて・・永遠の火に入れ」と言わんと、はっきり私達に言っていられますね(マテオ二五ノ三四〜四六)。主のおっしゃいました褒賞が永遠であれば、罰も永遠でなければならないということは、あなたも同意なされるでしょう。天主が溢れるほどの褒賞をなし給うと信じるのは、変ですか。
青年 
いいえ、神父様。天主が非常にいつくしみ深いお方で、万物をお作りになり、殊に御託身により人類の罪を贖われた程ですから。
神父 
たしかに天主はいつくしみ深いお方です。教会の教えは大部分主の慈悲の記録です。ですが、悔い改めない罪人に、警告が沢山書かれているのはどうしてでしょう。善人となるために守らなければならないことを、しきりに私達にお教えになったのはなぜでしょう。天主の御子が人になられましたのは、どういうわけですか。なぜ主は苦しまれ、あのように御生命を捧げ給うたのですか。これらは、すべて私達に賜った主の限りない御慈愛の玄義です。私達を無限の応報から救うためでないのでしたら、こういう御慈愛のあらわれがあるはずがないでしょう。主の善は無限、即ち限りがありませんから、主は善人に永遠の褒賞を与えるのです。そう思いませんか。
青年 
そう思います。
神父 
ですから、主は永遠に悪人を罰し給わなければなりません。それは主の正義は無限、即ち限りがないからです。天主の御本質はすべて同等に限りがありません。天主は悪に対しましても善徳に対しても、無関心でいらっしゃれないのです。
青年 
実に理にかなったお話ですね。
神父 
極めてありふれた場合を考えてみましょう。追はぎが一人の男を襲って頭に拳銃をつきつけ、金を要求したとします。盗むとか、(必要あらば)殺すとかいう意志で襲ったのですが、逆に「襲われた」人がこの賊をやっつけて、その場で射殺したとしましょう。追はぎは、天主の御前で盗みと殺人の罪を抱いて、全然悔い改める暇もなく、あの世に行きます。この人は永遠の褒賞を受けることはないでしょう。
青年 
ないに決まっています。
神父 
では、地獄の外に行くべき所はありません。天国から閉め出されるということは、地獄の中でも一番つらいことです。もしこの閉め出しが永久のものでなければ、その人はいつかは救われます。地獄の罰が永遠でなければ、悪人は、責任を神になすりつけることができます。つまり、天主が色々な掟で、「汝はこうせよ、ああするな」と命ずることはできますが、罪人は「私はこうしません、一生ああします。でも、あなたは私を救うほかありません、私の霊魂は不滅であり、地獄は永遠ではないからです」と言い張ることができるからです。無数の罪人は、こういうように天主を無視した行いをしています。
青年 
全くです。
神父 
地獄め問題を考える場合、人々は理性よりもむしろ感情に支配されがちです。天主の御慈悲ばかりあてにし勝ちで、天主の厳正なる事は、我がまま勝手な無責任な自分の生き方に有難いことでないのですから、天主の厳正については目を閉じ勝ちです。所がその同じ人間が、自分に対する加害者を扱う段になると、厳正に扱います。他人があなたの娘さんを襲ったらどうですか? リンドバーグの子供が、悪人にさらわれて殺された時、アメリカ人はみな「地獄もこのギャング団にはよすぎる」といいました。人間の裁判に従っても、殺人の罪を犯した者は、永遠に人間の仲間から棄てられます。人間の裁判は、できるだけ長期の刑罰を課そうとします。法律は重い罪人をできるだけ長く罰します。人間は慈悲を施すよりも、正義を貫きたがるものですから、勝手な成敗を下し、犯人に「リンチ」(私刑)をします。私達は、ただ天主の御為に創造され、天主にお仕えするためにこの世に送られたのであり、また、天主の聖寵に助けられれば罪を避けることも、天国に入ろうと努めれば天国へ入れて頂けるよう招かれているのですから -----「必要なる唯一つのこと」(即ち、神の国とその義を求めること)をよそにして、不必要なことにあくせくしているならば、「無益なる下僕」として投げ捨てられるのは、当然ではありませんか。
青年 
当然です。
神父 
人間が地獄に落ちるのを自分で避けることができないのでしたら、天主は惨酷であり、又、永遠の地獄は不合理でしょう。しかし、罪人が亡びるのは、全くその人自身の罪によるのです。犯罪者が自分の犯罪のために刑務所に行くのと同じょうに、地獄に落ちる者は、己の罪のために地獄に落ちるのです。罪を持ったままの状態で死ぬ人は、永遠に天主の御慈悲を拒む状態(地獄)に落ちます。天主は罪人を救うために、十分過ぎるほどのことをなさいました。罪人に救霊をもたらし給うために、むごたらしい死を御受けになりました。しかし、人間から自由意志をお奪いにはなりません。善人は地獄を怖れません、地獄に落ちまいとして固い決心をしているからです。わが国に刑務所が沢山あっても、あなたや私は刑務所に入らないつもりですから、刑務所のことが少しも気にかからないのと同じです。地獄は天主の掟の違反者のためにあります。刑務所が国の法律の違反者のためにあるのと同じです。正しい人は地獄にも刑按所にも入らずにすみます。------ 一体、不正が人間の不正でなければ、どこに不正というものがあり得ますか。
青年 
人間以外には不正はありません。
神父 
さて、地獄の問題につきまして、聖書の言っていることを引用して見ましょう。マテオ聖福音書の第二五章第四一節に、公審判の時にキリストが御自ら罪人に向っていわれる「詛われたる者よ、我を離れて永遠の火に〔入れ〕」という御言葉が記されています。この御宣告は、私がお話した地獄についての教会の教えの三つの点を表しています。「我を離れて」は地獄の一番ひどい罰 ----- 天主よりの分離を、「火に〔入れ〕」は苦しみを、「永遠」はその罰の永久であることを表しています。この同じ真理が「富豪とラザル」の例話(ルカ一六ノ一九〜三一)の中に明瞭にのっています。救世主の申されるには、「富豪も亦死して葬られ」、そこで彼は「我は此の焔の中にいたく苦し」んでいるから、水を少し与え給え、とアブラハムに哀願しました。しかし、アブラハムは「我等と汝等との間には大いなる淵の定め置かれたれば、ここより汝等の処へ渡らんと欲するもかなわず、そこよりここに移る事もかなわざるなり」と答えました。ですから、この例話は地獄の存在と苦痛と永遠を強調しています。
青年 
では、カトリック教会は、地獄にのあることを本当に信じているのですか?
神父 
教会は、この世にあるような現実の物理的な火があるとは、信仰箇条の中に規定していませんが、地獄の火は真であるという信仰を強く有しています。それは新約聖書の中に、地獄の苦しみの原因として「火」のことが三十回も述べられているからです。「永遠の火」(マテオ二五章)「滅(き)えざる火」(マルコ九ノ四二)「火の窯」(マテオ一三章)「火の満つる谷」「焼きつくす火」(イザヤ)等と言われています。「我を離れて火に〔入れ〕」という主の御言葉の中に、真の火が暗示されています。主が「想像上の火」を言われたに過ぎないとしたところで、どうでしょう? 些かの慰めも罪人に与えられるとは思いません。「火」という形容は、やはり、地獄の苛責は火のように怖しい、という意味を表わすからです。かりにあなたが、歯が火のように痛い、とおっしゃる場合、私が「でも、火ではないはずです」と慰めて云ったところで、あなたは楽にならないでしょう?
青年 
なりません。つらいのは同じことです。
神父 
処罰の方法は天主の自由な意志によって決まります。一旦火とお決めになりますと、どれほど人間が抗議しても、どうにもなりません。ですが、火の苦しみがどれほど怖しいものであっても、罪の結果天主を見奉り得ぬということから起る苦しみの方が比較にならない程ひどいということを忘れてはいけません。
《ページ移動のためのリンクはにあります》
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ