12 天國
天主へ良く奉仕した者に与えられる褒賞
神父 
ところで、あなたは教会の本質や組織、使命をはっきり理解しましたから、これまでに触れなかった教会の教えを一つずつお話しましょう。御存じのように、私達は三つのペルソナ(位格)にてまします天主を信じ、又、第二のペルソナにてまします聖子が、人類の罪を贖うため、そして霊的王国を建てるために、人となり給うたことを信じています。又私達は、聖子がこの霊的王国を通じて、人々に正しい教えを与え、救霊上、超自然的助けをお与えになることを信じています。このように、天主の掟を忠実に守って「主の教会に聴く」人々には褒賞が備えられており、主の掟をも教会をも無視する人々には罰が待っています。では、教会の教えを幾つか、こまかくお話しましょう。
青年 
お願いします。神父さん、天国から話して下さい。
神父 
そうしましょう。あなたは、永遠に幸福な場所のあることは、容易に信じられるでしようね?
青年 
いやなことであれ、楽しいことであれ、私は信ずるつもりです。天主御自ら導き給うところのキリスト教会が、どういうことを教えているのですか、それだけ云って下されば、私はそれを信じます。
神父 
なるほど。天国につき教会の教える事と云えば、天国は天主御自身の御家で、救われた者は天国で目のあたり天主を見奉り、天使と交り、人間の考えも及ばない幸福、終りなき幸福をうけるという事です。
青年 
それを手に入れるためには大いに頑張る値打がありますね、神父さん。
神父 
そうですとも。全能の天主が備えて下さるような幸福は、たとい一年とか十年とかいう期間の幸福でありましても、これは一生努力するだけの値打があります。それが、天主の欲し給う限り ---- 永遠に ---- 続く幸福であるということを考えますと、これを手に入れることは、すべての人の最大の関心事でなければなりません。自ら好んでこれを失うというような危険は、いささかでも冒すべきではありません。
青年 
大罪で死ぬ人は、天主を見奉る喜びに与ることはできないのでしょう?
神父 
できません。大罪によって、その人はこの幸福をしりぞけ、これをいたゞく力も資格も自分でなくしているからです。
青年 
神父様のおっしゃるような天国の褒賞は、人間には頂く資格がなさそうに、私には思えますが・・・。
神父 
天主の聖寵がなければ、いかなる人間といえどその資格がないことは確かです。しかし、天主は、この世で天主を愛し天主に仕える人には、そういう褒賞を与えることに、なさったのです。天主の御旨を行うが行うまいが救われると思い上っている人も大勢いますが、あなたがそう思い上っていないということは、非常に良いことです。
青年 
悪い人に褒美を与えるということは、道理に合わす、正義に反します。考えてごらんなさい、天主の掟を破って罪を過した人が、心から痛悔もしないで、永久に褒賞されるなんて!
神父 
地獄の存在をあなたに証明するのは、簡単ですね。あなたは、もう地獄の存在を認めかかっていますから。
青年 
ええ、天国は善徳と天主に対する奉仕とに報いる褒賞なんでしょう?
神父 
そうです、洗礼の聖寵をいたゞいて死んだ赤ん坊だけは別ですが、赤ん坊は贈物としてこれをいたゞくのですから。理性を使うようになった人は、天主の御要求に従うことにより、始めて天国を手に入れるのです。
青年 
それでこそ本当ですね。天主は人に天国を与えなければならぬ、という義務はないのですから、天国に到着するための条件をお命じになることは、もちろん天主の御旨です。そして、こういう条件を拒んで従わないなら、その人は自分を責めるほかありません。
神父 
全くその通りです。
青年 
これと同じ原理からしまして、天国の褒賞には等級があると思いますが? 人はお互いに値打が違っていることはたしかですから。
神父 
ええ、そうです。長い年月を悪魔に任していて、死ぬ前に悔い改めた人は、生涯天主を信心深く愛した人よりも、その受ける褒賞は劣ります。天国につきましては、キリストは「我が父の家に住み所多し」(ヨハネ一四ノ二)とおっしゃいましたね。天の褒賞は私達の働きに比例します。「蓋し人の子は・・・人毎に其の行に従いて報ゆべし」(マテオ一六ノ二七)、「星と星とは輝により相異れり、死者の復活も亦然り」(コリント前一五ノ四一〜四二)とあります。
青年 
ですが、みんな聖人と呼ばれるのでしょう?
神父 
そうです。救われた人は皆聖人といわれます。ですが、この人達が天国に入つた事情は、いろいろです。或る人は殉教時代に、キリストに背くよりはと自分の生命を捨てました。この人達は殉教者とよばれています。初めの三百年間に無数の人々がこうして天国に入りました。また、自分の霊魂と体をすっかりキリストに捧げて、天国に入った人もいます。この人達は全心の愛をイエズスに注ぐため、結婚の機会を犠牲にしました。極めて些細な罪をも避け、罪によって天主を怒らせるよりは、むしろ死を幾度でも受ける覚悟でいました。中には砂漠に行って苦しみの中に全生涯を祈りと静かな黙想に捧げた人もたくさんいます。ですが、この外にも私達大抵の人と同じように、無数の誘惑のある罪の世界の中で暮した後、天国に入った人もおります。この人達は家族の世話をし、俗務についていましたが、自分の霊魂をおろそかにするということはしませんでした。祈を唱え、キリストの課し給う重荷を甘んじて受け、天主の教会が与える救霊の道を自ら進んで歩みました。
青年 
しかし、天国に行くのは善人の霊魂だけですか?
神父 
世の終りの公審判の時までは霊魂だけ行きます。使徒信経の中で、私達は「我は肉身のよみがえりを信じ奉る」といいます。天主は全能の御力を以て、すべての人の肉体を土より起し、これを天国や地獄、煉獄にある霊魂と再び合せて復活させられます(ヨハネ五ノ二九)。そこで人類は天主から審判せられまして、その後で、或る人は人間として ---- 肉体と霊魂を一に合して ---- 天国に迎え入れられ、或る人は、永遠の地獄に落される宣告を受けます。最後の審判の後は煉獄はありません。救われた者の肉体は、光栄にみち、天上の美で輝く聖化されたキリストの御復活体に似ています。そして、もはや針ほどの苦しみもありません。ところが、悪しき者の肉体はその霊魂の罪の状態を反映しています。肉体は多くの善業や多くの悪い行いに関係しているのですから、当然、褒賞や処罰にあずからなければなりません。
青年 
霊魂はその人の死と同時に裁きを受けてその運命がきまるのではありませんか?
神父 
そうです。これは私審判といわれています(ヘブレオ九ノ二七)
青年 
おや、それじゃ、世の終りにもう一つ審判があるのですね?
神父 
そうです。それには二三の理由があるのですが、その中の二つを申しあげますと、それは第一に、主の御光栄を全世界の前に公けに表わすためです。キリスト御自身、この世にて、人々から不当な御裁きを御受けになり、死刑に処せられています。第二は天主の正義を証するためです。この地上では、人々は天主は不正であるといってしきりに非難し、又、わかりもしない主の御摂理をいろいろと批評します。この世では、貧苦、災厄、病気、不運が徳や聖に伴ない、ともすれば悪人が栄えるのをよく見ます。しかし、公審判において、天主は御自分の正義の神にましますことを御示しになるでしょう。
青年 
世の終りがいつ来るかを知っている人はいますか?
神父 
いません。ですから、予言書を多くの新宗派が悪用して金もうけをしているのです。
青年 
それはどういうことですか?
神父 
或る説教家はダニエル書や黙示録のような予言書を世界大戦に合うように解釈して売り、一もうけをしました。善意の人が彼等の喰物になっています。
青年 
親類や友達は天国でお互いにわかりますか?
神父 
勿論です。天国に入った人達の幸福になるものならば、何でも天主から与えられます。道理にあった望みはすべて満たされます。
青年 
他人よりも幸福の劣る者が、自分よりも幸福の大きい者を羨むということは考えられませんか?
神父 
いいえ、天国で最小の褒賞しか持っていないものでも、自分の持ち得る限りのものは持っています。聖人は、夫々天国の喜びを受け容れる量は異りまして、その量一杯にあふれるばかり喜びを受けています。水を入れて溢れているバケツは、それ以上の水を入れている樽を羨むことはないでしょう。入れるだけは入れているのですから。
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