キリストの教会は「一の檻、一の牧者」
であらねばならぬ
神父 
あたなは、キリストの教会の本質がどうでなければならないか、又、どういう組織を求めなければならないかということが、もうお判りになったのですから、カトリック教会こそその教会である、という確信に到達されたでしょうね?
青年 
私が今求めていますのは、全世界にひろがる教会がありまして、すべての信者が同じことを正確に信仰し、使徒の後継者が誤りなき確実さを以て教え、人の霊の進歩のために天主の助けを使用し、罪を赦すというようなことです。そして私は、そういう教会が存在しそうに思います。
神父 
では、あなたは、第二世紀以後に分れた団体として現れた教派を度外視なさいますね?
青年 
そうです、神父様、そういう団体がキリストを自分達の創立者であると主張することはとてもできません。
神父 
そうです。それから、あなたは一般人や牧師の誰々さんを開祖であるとしている教会のいうことには、全然耳をお貸しになりませんね?
青年 
全然貸しません。天主以外のものがどうして天国に通ずる教会を建てることができますか? 天国が天主のものであれば、天主でなければそれを人間に与えることはできません。
神父 
実にその通りです。私はあなたに、私のきめたこれこれの条件をあなたが果されるなら、この町の裁判所を差し上げますと、約束することはできますが、あなたは、どれほど立派に条件を果されましても、約束のものを手にすることはできません。「己のものに非ざるものは、これを与ゆること能わず」であるからです。教える者が信仰のあらゆる点で一致していないような教会は、あなたはお捨てになるでしょうね?
青年 
ええ、神父様。もし、その人達が教えを神の教会から同じ源から受けているのでしたら、一致するはずですからね。
神父 
それでは、考慮に値する教会はただ一つしかなく、他のものは度外視しなければなりませんね。
青年 
もちろんです。主の教会はすべての人に対し、あらゆる処にあって、常に唯一つなるべしと、仮りにキリストがおっしゃっていられませんでも、天主が、(二つとか三つというならばともかく)幾百というお互いに矛盾しあう教会をお建てになろうとは、とても考えられません。
神父 
教会は一つでなければならないという聖句を、聖書のなかでお読みになったことはありませんか?
青年 
ありませんけれど、神父様がこの前引用されましたいくつかの聖句の内容をおぼえています。キリストはこの教会を建てんとか、我が教会を建てんとか、おっしゃっていて、多くの教会とは言っておられません。それから、一つの檻、一(ひとり)の牧者なり、といわれましたね?
神父 
そうです。そして、使徒達は、主が唯御一人にましませば信仰は一つ、と洗礼は一つなり、と断言しています(エフェゾ四ノ五)。イエズスは「分れ争う家は立たじ」(マテオ三ノ二五)とはっきり言っておられます。キリストはすべて主を信する者が「我等の如く一ならん」ようにと祈られました(ヨハネ十七ノ十一)。人々の中には、他の教会の開祖も天主に動かされて教会を建てたのだ、と主張する人があるかもしれませんが、聖パウロは「天よりの使にまれ」そういう主張をするなら自分はこれに耳をかさぬと言っています(ガラチア一ノ八)。「我にくみせざる人は我に反す」です(マテオ十二ノ三〇)。
青年 
それだけ引用して頂けば十分です。全能の天主が主の子供達の間に分裂の起るのを望み給わなかったということくらい、はっきりしたことはありません。天主の御仕事は、もっと小さな御仕事にでも完全な調和があります。主を知り主に仕えるという救霊上の大問題を扱うに当り、天主がその家族に完全な調和のあることをお望みにならないはずがありません。
神父 
ところが、カトリック教会以外の教会では、キリスト教信仰の一致というものが全然ありません。米国だけにしましても、極く最近の政府の調査によりますと教派が、二百ありまして、その中に三千五百万のプロテスタントが分れていまして、その違いはいたましいほどです。彼等の教えは、ごくわすかな点しか一致していません。比較的大きな教派でも、多くの派にわかれていますので、米国では結局どの派も非常に少しの信者しかおらす、外国でも僅かな信者しか持っていません。これに較べますと、カトリック教会は大変異っていまして、米国で少くとも三千六百万の信者があり、世界中、列るところで代表的なものであります。この信奉者はすべての文明国にたくさんいまして、人種、言語、習慣などは違っていますが、「一の檻、一(ひとり)の牧者」(ヨハネ十ノ一六)になっています。キリストの聖旨に従いまして、この信者はみな同じ信仰を奉じ、同じ礼拝と秘蹟を持ち、同じ一つの可見的な頭である教皇の下に一つになっています。
青年 
カトリックに驚くべき信仰の一致があり、非カトリックの教派にこの一致がないという事実に、教養のあるプロテスタントが気づかないというのは変なことですね。この事実はきっとカトリックにとつては利益になり、他の教会にとつては不利な話だからでしょうね。
神父 
そうです。キリストの天主にましますことを人の知るは、キリストを信ずるものの一致によってなり、とキリストは言っておられます。ですが、彼等は天主の教会の本質について、誤った考えを持っていますので、その真意を知ることができないのです。歴史を研究する人は、カトリック教会は千数百年の間地上唯一のキリストの教会であった、これに反し、プロテスタントの教会は一番古いものでもわずか四百年くらいしか経ていない、ということを知っています。「プロテスタント」という言葉は、十六世紀に作られたものです。
青年 
これもいい論証ですね。カトリックが最初のキリスト信者の団体でしたら、これは必ずキリストのお建てになったものに相違ないのですからね。そして、使徒以来千年かそれ以上経ていない教会は、使徒の宣べ伝えた教会と同じものであるはずはありません。
神父 
あなたはこれからカトリック教会に入って、教会の立派な弁護者になれますね。ですが、まじめなプロテスタントがもし、かつてのカトリック教会は真の教会だったが、あやまりに陥つて全く腐敗してしまった、それでルーテル、カルヴィン、ヘンリ八世のような人達がカトリックから離れて初代の純粋なキリスト教を再建したのだ、と主張したら、あなたはこれにどういう答をなさいますか?
青年 
私はキリストかそれらの人のどちらかがうそつきだといいます。主は日々主の教会と偕(とも)にあり、真理の聖霊は教会を真理に保たん、と仰せになっています。キリストが天主にましますなら、誤りに陥らざるよう教会を守らんというお約束をお果しにならなければなりません。主はたとえ、こういう御約束をなさらなかったとしましても、実際に私は、主は教会をお守りになると思います。
神父 
立派なお答です。
青年 
それから私は、その人達のいうルーテルとか、カルヴィン、ヘンリー八世などのような人は、お互いに主張が一致していますか、と尋ねます。もし一致していませんでしたら、この三人の中でどれが正しいのですか? ほかの教派は絶えす変化し分れて行くというお話ですから、プロテスタント達は、その原形に戻すため改革を必要としているわけです。
神父 
実にその通りです。カトリック教会の信仰箇条には全然改革はありえません。個人としましては、司祭や司教も誤りに陥ることがあるかもしれませんが、教会そのものには誤りがありません。信者の生活に改革の必要があるとしても、それはその人達の信じている宗教の聖なる起原に対する議論にはなりません。使徒達の後継者も天主の十誡に違反することはありますが、一体としてのこの人達が誤りを教えることがあり得ると思うことは、天主に対する一切の信仰を失い、イエズスの御約束を疑うことになります。又、キリストのお建てになった通りの教会を、世の終りまで保ち、教会を誤りに陥らしめないようにと、主がお遣わしになりましたところの聖霊を冒涜することになります(マテオ一四ノ一七−二六)。
天主の真の教会は「一」をその特徴としておらねばなりませんが、又、「聖なるもの」でなければなりません。カトリック、即ち「普遍的」でなければなりません、「使徒的」でなければなりません。この四つは、真の教会の印しであります。すべての人がキリストのお建てになりました真の教会を認めるのは、この明かな記号(しるし)によるのであります。他の教会はどれも、こういう記号を持っていません。
青年 
それは教会の人はすべて聖でなければならないという意味ではありませんね?
神父 
そうです。教会は、よく「キリストの神秘体」といわれるように、その創立者が天主にましますということと、聖霊によって導かれ指図されているという二つの理由により、聖でなければならないという意味です。それから、教会は、信者を聖ならしむる道をキリストから授かっているという理由もあります。すべての信者が聖でないとしても、それは信者の罪でありまして、教会の罪ではありません。教会の信者は皆、聖人になろうと思って努めれば聖人になれるのですから。それ故、教会は本来聖なるものでありますが、その構成員は人間です。キリストは教会を、小麦と毒麦の生えている畠、善き魚と悪しき魚を入れた網、五人の賢い処女と五人の愚なる処女にたとえられました。教会の主な使命は罪人を救って聖ならしめることにありますから、教会の中には罪人もいるわけです。
青年 
教会は本当に普遍的なものですか?
神父 
そうです。「普遍的」も「カトリック」も同じことを意味しています。普遍的とは、時間と教えと場所について云えます。カトリック教会がキリストの御時から私達の時代までずっと存在して来ているということは、今更申し上げるまでもありません。又、その始めからずっと同じ教義を教えて来たことも、申し上げる必要はありません。場所につきましては、使徒や宣教師が万国に宣教する機会を得るまでは、普遍であったとは云えませんが。
教会の誕生した日に、即ち聖霊御降臨の日に、聖ペトロの手を以て教会に入れられた人々の内には、殆どすべての民族の者が含まれています。又、ローマ帝国は、東洋を除き世界の大部分を支配しており、最後には蛮族の侵入をうけて崩壊しましたが、三四二年にキリストの教えをローマ帝国の国教に公認しました。北米、中米、南米のインディアンにキリスト教を伝えた人は、カトリックの宣教師です。
青年 
大変に面白いお話ですね。ほかの教会はどれ一つとしてカトリック教会ほどには拡がっていないということや、各教派の信者の数は大がいの国では少ししかおらないということも判りました。
神父 
これまでの講義で、あなたはカトリック教会は使徒伝来であることが判りましたね。即ち、教会が使徒の時代から始まり、今日も使徒の後継者がいて、この後継者が使徒と同じく、ミサ聖祭を奉献し、天主の御名において罪を赦すというような権能を与えられている、ということを覚えましたね。
青年 
ええ、その問題は、神父様から教会の正確な概念についての講義と、聖書と教会の関係についての講義の中で、説明していただきました。
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