7 聖書と教会との関係
神父 
キリストが天主にして又人でましますのと同じように、主がその御業をお続けになるためにお建てになった組織(教会)も、人間によって構成されながら、神的な起原を持っているということは上述の通りです。キリストがその人性を通じて聖業(みわざ)を完成するために、御父から「遣わされ」たと同じように、キリストは人を「遣わし」、この人を通じて「主の民を罪より救う」(マテオ一ノ二一)御使命を続けられました。こういう仕組により、今日の私達は、それらの人を通じて、主から聖なる助けを頂いていますから、私達は、キリスト御自ら伝道を受けた千九百年前の人々に比べ、少しも不利なところはありません。主は嘗てましまし今もましまし、「昨日も今日も又、永遠に同じイエズス」であられます。
今夜は講義を簡単にしたいと思いますので、この前の講義のやめたところに戻りましょう。あなたは今日の教派はすべて或意味で教会でないか、とお尋ねになりましたね。
青年 
私はこれまでに何度もそういう説を耳にしたということを申しあげまして、彼等がどういう口実であんなに大勢の信者を集め、又、その説をどういう基礎の上においているのか、御説明願おうと思っただけです。
神父 
カトリック信者は「教会は受洗者が、同じ真の信仰、同じ犠牲、礼拝において一体となり、又聖ペトロの後継者である教皇と、これに連結している司教の権威の下にて同じ秘蹟にあずかりつつ組織している団体である」ということを誰も信じていますが、大抵のカトリックでない人達は、「教会」という言葉の意味を極めて漠然としか知っていません。礼儀正しい生き方をしていれば ----- 殊に、イエズスが自分達の救い主であると公けに言い表しさえすれば -----、イエズスの御功徳によって自分達は救われるのであるという単純な信頼だけで、自分達はキリスト信者になれるのだと、その人達は思っています。その人達は教派に入るというのですが、多くの人はその必要はないと思っています。メソヂスト、パブチスト、プレスビチリアン、その他幾百という教派のどれを選んでもいいと思っています。これらの教派は一つの点で ----- キリスト教的生活の発展を導くために、聖書を読むことを信者に命令しているという点で ----- すべて一致しています。彼等は個人個人が直接神に対して責任を持っていると教え、これこれのことを信じよと要求したり或る信条を与えることは思想の自由の制限で、或る義務を課することは行動の自由に対する干渉である、と教えます。彼等は教会の義務は唯二つだけ、即ち洗礼を授けることと説教することであると見ています。そして、「説教する」ということは、キリストを救世主として宣べて、人々をしていい生活を送らせることであるとしています。「彼が汝等に命ぜしことを悉く守るべく彼等に教えよ」ということには、殆んど注意を払いません。彼等は、キリストは私達に「聖書を調ベよ」と命じ給うたと主張しています。しかし、事実キリストがユダヤ人達に向って仰せられた言葉は、主のことが予言されている聖書をユダヤ人達は読んでいるという事でありまして、キリストはただ事実をお話しになっただけで、命令をお出しになったわけではありません。かりに主が現に「聖書を調べよ」とおっしゃったとしましても、旧約聖書のことだけをおっしゃったのです。当時の人々は、教会の事を書いてある新約聖書はまだ全然見ていません。使徒達自身でさえも新約聖書は全部を見てはおりません。キリストの後の四百年間は教会の黄金時代で、幾万という人が信仰のために死んだほどですが、当時の人々も新約聖書を全部見てはいません。その後の千年間も一般のキリスト信者は聖書をよむことはできませんでした。それは、教会がこれをかくしたからというのではありません。現在書物をドンドン作っている印刷術が、一四三八年まで発明されなかったからです。教会から離れて行った私達の兄弟が、「聖書を調べる」時に、キリストのおっしゃいました「教会にも聴かずば」(マテオ一八ノ一七)とか、「われ、我が教会を建てん」(マテオ一六ノ一八)とか、「一の檻、一の牧者となるべし」(ヨハネ一〇ノ一六)とかいうような御言葉の真意がどうして判らないのか、と私は不思議に思います。真の教会は、これを一つのの頭を持つた一つの「体」「一つの王国」「山上の一つの町」「一軒の家」「一つの羊の群」にたとえると良くわかります。そうすれば他の教会と区別し鑑別できるのですが、どうしてあの人達はそれに気づかないのでしょうかね。
青年 
それは結局、その人達が、救霊という天主の御計画について全く誤った考えを持っているからにほかならないのではありませんか?
神父 
そうです。私達はむずかしい聖句を解釈するときには、天主の守り給う教会に、その正しい解釈を仰がなければならないのですが、教会と離れて勝手に「聖書を研究する」結果、種々の教派ができ、その為にキリスト教が異教徒に嘲られるような始末になったのです。カトリック教会は、聖書を大切にし、聖書を教えの基礎とし、又毎日これを読む信者に特別の御恵を与えておりますが、同時に教会は聖ペトロが注意したように、その中には「暁り難き所ありて、無学者と心の堅からざる者とは・・曲解して亡に至る」(ペトロ後三ノ一六)と、信者に注意を与えております。
青年 
私の友達に一人、聖書を良く読む人がいます。数日前、この人に難解の聖句が本当に判るのかと尋ねて見たところ、「うん、聖霊の御助けによって、読者に本当の意味が判るのです」といいました。
神父 
そこでもう一つ質問すると良いところでしたね、「もしそれが事実なら、その聖霊のお助けがあるのに、どうしてすべての聖書読者が同じ聖句を同じように解釈するようにならないのですか?」と尋ねてみるのでしたね。このほかにも、こう質問すると良かったですよ。「あなたは、あなたの読んでいられる本が事実神の御言葉であるということがどうして判るのですか?」「これは翻訳された本ですが、この訳が信頼できるということはどうして判りますか?」「これは原書の写しから翻訳したものですが、この写しが正確で、省略や変更がないということはどうして判りますか?」などです。聖書が天主の御言葉を含んでいるということは、カトリック教会の権威によらない限り、彼も確信できないはずです。彼は、聖書の中に何らその保証がないのに拘らず、「人の信ずべきことは聖書だけで決定され、聖書だけでわかる」と勝手に想像しているのです。
青年 
カトリックの聖書は、すべての点で、プロテスタントの使っているものと同じですか?
神父 
新約聖書は普通全然変りはありませんが、旧約聖書は私達の方が七書だけ多くなっています。カトリックでない人達は皆がみな一致してこの七書を排斥しているわけでありません。なぜなら、他の書が神の御言葉である事を、彼等に信ぜしめるところの権威が、同じくこの七書も神感による神の言葉である事を、彼等に信ぜしめているからです。キリストは、彼等のいわゆる「経外書」であるこの七書を是認なさっていました。なぜなら、主は、この七書を含んでいる旧約聖書の定本から頻繁に引用なさったからです。主の当時は旧約聖書に二つの定本がありまして、その一つはこの七書を含むギリシャ語本で、もう一つの方はそれを入れていないヘブライ語本でした。ですが、新約聖書が旧約から引用しているおよそ三五〇の引用文の中、三〇〇はカトリック教会の使っている訳本から出ています。
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