6「天主の教会」という正しい概念
神父 
さて、私達は、キリストは真の天主にましまし、死に給うほど「世を愛し給うた」ということを見ましたね。これはキリストの御贖罪といわれています。キリストは御自分の御苦しみと御死を、人類の罪を贖う犠牲として天主にお捧げになり、「天主の子、天国の相続者」になる権利を人類に回復されました。しかし、キリストの御死去という事実だけでは全人類は救われません。
青年 
私も、救われるとは考えません。私の友人の中には自分はもう救われていると言っている人がいますが…。キリストがすべての人のために死に給うたということだけで、どんな生き方をしていましても救われるというのでしたら、御贖罪は罪への奨励になるでしょう。これは天主の嫌い給うところだと思います。
神父 
全くです。ところが、キリストを救い主として認めるだけで救われると思っている人がたくさんいます。これは教会と天主の掟をすてることです。
青年 
救世主の死は、天国に入る新しい機会を人に与え、天主と共なる永遠の幸福を得る可能性を与えた、と私は考えます。
神父 
あなたの御考えは正当です。私達の町で町民に電燈とか飲料水を供給する制度を作っただけでは、町民は相変らすその利益にあずかることはありません。たとえ町が各家庭の必要以上の水を供給し得る大貯水池を作りましても、各人は家に管を備えつけこれを配水管に接続させる工事をしなければ水は出ません。これと同じように、キリストの御功徳は全人類を救うためには 十二分にありますが、各人は教会の一員になって、天主の掟を守り、キリストの用意し給うた聖寵のトンネルを通って天主のお助けをいただかなければなりません。
青年 
お話はよくわかります。自分流では立派な人でも、キリストの御功徳にあずかれないかもしれません。それはその人が、主御自らがお定めになりました条件全部に合っていないからです。
神父 
その通りです。そして、これにむじゅんする主義が、今日の最大の謬説の一つになっています。
青年 
今日までの私自身は、電線の設備をしておりながら、発電所から電流を運んで来る電線に接続もしていない家のようなものでした。こんな家は電線を取りつけていないも同然で、電気を使うことができません。
神父 
あなたのお考えは的確です。世の中には、自分流のやりかたで自分の救霊をなし遂げることができる、と主張している人が無数にいます。この人達は、天国は超自然の報酬である、--- 聖寵によって超自然の価値をつけられた働きによって始めて得られるものである ということを認めることができないのです。人間最上の働きでありましても、それを行う人が聖寵により天主と共にあるのでなければ、ただ自然的な価値を持っているにすぎません。
ところで、あなたにおたずねしますが、この二十世紀の世界に住む私達を教えるために、救世主はどんな方法を御備えになったと思っていられますか?
青年 
そうですね、私はこういう考を持っています。キリストは救い主としてばかりではなく、教師としてもお出でになられました。御自分はパレスチナという小さな地方でお教えになられただけですが、世界の果のすべての人にまで教えたいという使命を持っていられました。私の考え が間違いないとしますと、主はその時間の大部分を費して十二人の人をお教えになられましたが、それはこの人達を主のメッセージを携えて他の国々へお遣しになるお考えだったからです。その通りでしよう? 神父様。
神父 
あなたの今述べられたお話では、初代の人々がキリストの教えを持つに至った次第しかわかりません。キリストの教えが、絶対に間違いなしというスタンプをされて、今日まで幾百年伝って来たのは、どういう方法によってでしょう。
青年 
そうですね、キリストから教えを受けた十二人の使徒が、自分達の受けた教えを書いて、をれを聖書にして将来の人々に残したのでしょう?
神父 
違います。大抵のカトリックでない人達の持っているような誤った考えを、あなたも持っていられるのではなかろうか、と私は心配していました。プロテスタントはいつでも自分個人の信仰を守る時だけ聖書を利用しますので、宗教をひろく研究したことのない人達は、キリスト教の開祖が自分でこの本を書いたのだとか、将来の万国万世の人々を教えるために使徒に命じて書かせたのだとかいう印象を抱いています。
青年 
神父様、私もそう思っていました。
神父 
それは間違いです。キリストは聖書を一言も書いておられません。又、使徒にもこれを書けという命令はなさいませんでした。実際は十二人の中の五人だけが書いたのです。マルコとルカは十二使徒ではありません。ですが、この人達は天主の霊感を受けて、天主のお望みになっていられることを書きました。ですから、天主が事実聖書の作者です。しかし、聖書だけで人々が教えを受けて救われるということは考えられていませんでした。
青年 
聖書の記者が「天国の霊感を受けた」というのはどういうことですか?
神父 
それは聖霊が働いて直接記者を助け天主の欲し給うことを書かしめたということです。
多くの人は、カトリック教会はあまり聖書を利用しないという印象を抱いていますが、あなたはそういう印象をお持ちにならないで下さい。教会が聖書をあまり用いないという噂を、あなたは人からお聞きになったことがあるでしょう?
青年 
はい、神父様、カトリック信者は聖書を読むことさえ許されていない、ということを聞いたことがあります。
神父 
私はもっとひどいことを聞いています。司祭が聖書をもやしたという噂を聞きました。確かな歴史の研究家なら誰でも、カトリック教会が世に聖書を送ったのである、ということを知っています。又、教会の権威によってはじめて、この本が霊感の筆を持っているということが判るとか、教会の最も学識のある子供達が幾百年も生涯を費してこれを筆写し、いろいろな国語に翻訳した、ということを知っています。
それはそれとしまして、聖書の問題は後でお話しましょう。唯今のところは、すべての人の救霊に対する天主の御計画について、正しい考えを持っていただきたいと思います。キリストが、その時代の他の国の人々に主の真の教えを宣べることができるようにするため、大勢の弟子達の中から使徒達を選び出し給うて三年間訓練なさったとあなたはおっしゃいましたが、それは本当です。ですが、この十二人の人達は、真の目に見える組織・社会たる御国の、最初の教師でありまして、この御国は、「其治世は終りなかるべし」(ルカ一ノ三三)と、世の終りまで存在を続けるものであります。キリストは「我 我教会を建てん」(マテオ一六ノ一八)と、この御国のことを教会とよばれ、「然(さ)て、我は世の終まで日々汝等と偕に居るなり」(マテオ二八ノ二〇)と、永遠にこれと共にまします約束をなされました。それで、教会は教師としてのキリストを代表するばかりではありません。教会は、主のすべてのお働きを永遠に続けます。かかる事は聖書の能くなし得ないところで、教会のみなし得るところです。教会が聖書を作ったのでありまして、聖書が教会を作ったのではありません。新約聖書は教会の組織が十分にでき上がって、しかも活動が困難な時に始めて書かれました。
キリストは三年間の御伝道中に教会という「体」を形づくられました。そして、御昇天後十日目に、キリストの御約束に従って、聖霊が遣わされたのも、聖霊がこの「体」を活かし、これに聖なる生命を与え、又これを誤りから守らんためでありました。この天主の御国は聖パウロから「活き給える神の教会なり」(チモテオ前三ノ一五)といわれていますが、立派なことばです。教会が「真理の柱にして且つ基」(同前)であるということは明かなことですね?「地獄の門はこれに勝たざるべし」(マテオ一六ノ六)ということも明かですね?「教会にも聴かすば、汝に取りて異邦人税吏(みつぎとり)の如き者と視做すべし」(マテオ一八ノ一七)ということは尤もなことです。「汝らに聞く人は我に聴くなり」(ルカ一〇ノ一六)ということも当然です。
キリストと使命を同じくするこの「活ける神の教会」の教える権威が、キリスト御自身よりも劣るということは、どうしてあり得ますか? 罪を除く権能も同じです。人をきよめる聖なる助けが教会にないということも、どうしてあり得ましよう?「父の我を遣わし給いし如く、我も汝等を遣わすなり」(ヨハネ二○ノ二一)といわれています。
青年 
あなたのお話で、もはや全然議論の余地がありませんね。そこで私に全部呑み込めたかどうか調べてみましょう。キリストは、教え、罪の赦し、人類のきよめという主の御働きを一つの組織体を通して続けようとなさいました。この組織体は、主のお始めになったものであるというためばかりでなく、聖霊がその中に住み給うために聖なるものであります。主御自らは目に見えぬ頭首として、初めの主の使徒達の後継者を通して働きつつ、永遠に教会と共におられます。
神父 
そうです。あなたは要点を立派につかんでいらっしやいますね。教会は世界的なものでありますから、教会の教え、導き、聖なる助けは、すべての人に拡められます。すべての人は教会に入って教会の要求に従う義務があります。そして、その代りに、その人達は聖なる助けをいただいて永遠の救霊に導かれます。
青年 
もちろん、今日の宗教界の情勢はそうなってはいませんね。大抵の人は、教派のことをみな教会のように思っています。それは誤解ですね?
神父 
誤解です。キリストの教会の本質、権能、教えは、今日でも、十二使徒を通して行われていた当時のものと同じものでなければなりません。救われるために万人の属すべき教会はこの教会です。自分自身の重大な過失のために真の教会を知らず、或いは知りつつこれに入ることを拒む人は救われません。
青年 
自身には過失がなくて教会外にある人はどうなりますか?
神父 
そういう人達は、天主より与えられた聖寵を良く用うるならば、聖寵の状態に入って自分の霊魂を救うことができますから、やはり教会の霊に属すことができます。
青年 
教会の本質や使命、権威、権能に対する一切の疑いを取り除くために、教会の特徴を明瞭に述べることができますか?
神父 
キリスト御自らが極めて明瞭にこう言っておられます。
「天に於ても地に於ても一切の権能は我に賜われり。故に汝等往きて万民に教え、父と子と聖霊との御名によりて是に洗礼を施し、我が汝等に命ぜし事を悉く守るべく教えよ。然て我は世の終まで日々汝等と偕に居るなり」(マテオ二八ノ一八〜二〇)
この御言葉は、一まとめにして使徒といわれている十一人の人に、キリスト御自らが申されました。この人達はキリストが親しくお教えになった人達で、その名前は、ペトロ、大ヤコボ、ヨハネ、アンドレア、フィリッポ、バルトロメオ、マテオ、トマ、小ヤコボ、タデオのユダ、ゼロテのシモンといいます。
使徒の中の一人のイルカリオテのユダは、主を裏切って自殺したので、世界に赴き万人に新約の宗教を宣べ伝えることをキリストから委任された人は十一人だけです。
青年 
ユダの跡を埋めるために、誰かが選ばれなかったのですか?
神父 
選ばれました。キリストが十一人の人にああいわれましてから間もなく、この人達は一緒に集り、弟子達の中から、ユダの跡をつぐ人を一人選びました。選ばれた人は、主の公生活の始めから熱心な教えの信者で、主の御復活と御昇天を立証し得る人で、名前はマチアスといいます。
青年 
キリストは使徒達に、しかも使徒達だけに、何か別の任務をお委せになりませんでしたか?
神父 
非常に重要な任務を幾つかお与えになりました。主は御死去になられる前の晩に、血を流さない新約の最初の犠牲を奉献して、御聖体の中なる御自分を使徒達に与え給うてから、直ちに、主の今なし給うたと同じことを行うよう使徒達にお命じになりました。即ち主の献げ給うたこの犠牲(いけにえ)を「続ける」ことを使徒達に託されました。「我記念として之を行え」(ルカ二二ノ一九)と、パンと葡萄酒を主の御体、御血に変えてこれを信者に与える権能を使徒達に授けられたのです。
それから三日目の御復活の日に、主は十一人の者に(ユダはいませんでした)、罪を赦す権能を授けられました。罪は天主だけがお赦しになることができるのですから、この権能は天主から使徒に委任されたものにちがいありません。ですから、聖書に「息吹掛けて曰(のたま)いけるは、聖霊を受けよ、汝等誰の罪を赦さんも其罪赦されん、誰の罪をとどめんも其罪とどめられたるなり」(ヨハネ二十ノ二二〜二三)とあります。
キリストを予言していましたあの名前、即ち「メシヤ」は、「遣わされた者」という意味です。主は「神の御子」として、第一には全人類を天主と和解させるために、第二には霊の御国を建て、主の御教えと罪の救済法と、秘蹟(即ち、超自然の生命を与えてこれを養うための聖なる儀式)とをその御国に委託するために、この世に「遣わされ」給うたのです。
「然(さ)て我は世の終まで日々汝等と偕に居るなり」というキリストの御言葉は、使徒という最初の共同体がその後継者を通じて永久に続くのでなければ、何の意味もなしません。
聖パウロは、使徒は天主より任命された教師であるから、何人も自分勝手に使徒の職には就けないという事を明言しています。この点は、誰しも、よく心得ていなければなりません。最初の使徒達のなくなった後においては、その正当な後嗣者たる人でなければ、最初の教国に委任された職務を執り行う職権を授けられていないのです。
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