5 キリストが真の天主である証拠
神父 
今夜はあなたにキリストの真の天主にましますはっきりした確かな証拠をお目にかけるつもりです。
青年 
いや、神父様、私はそれを疑っているわけではありません。
神父 
それもそうでしょうが、私はあなたが論証によってあなたの信仰を守ることができるようになっていただきたいのです。他人がたとえ聖書の神感によるものであることを信じませんでも、聖書はたしかに確実な歴史ですから、あなたは信仰を証明することができます。キリストにおいて成就した旧約聖書の予言、キリストの御言葉を裏づける新約聖書の奇蹟、とくにキリストの死よりの御復活を証拠にすればよいのです。反対者が聖書の論証を理由なしに鼻であしらうような場合には、主の御性格につきまして、その人が抱いている考えから、逆にイエズスの御神性を証明することができます。
青年 
私と一緒に働いています或る人に、丁度そうした論証がいります。この人は聖書は無学な軽信な人達が書いたもので、その証明は信頼するに足らないと言っています。
神父 
軽信どころではありません。この人達は、信ずるに鈍きものであるとて、キリストからしばしばお咎めをうけました。目で見、手で触れんことを求め、その後でさえこの人達は疑いました。長く疑うのでしたら、この人達は「馬鹿」であったでしょう。無学だという非難につきましてはこれはかえってこの人達の利益になります。天主は学問のある人を信じさせるために、わ ざと無学な人をお選びになられたのです。それは彼等の述べる義は神よりのものであるということが、このことで一層証明されるからです。頭の鋭い学問のある人は他人を「瞞す」ということはたやすいことです。が、学問のない素朴な民衆から出るもっともな言葉ほどに力強い証言はありません。無学で素朴な証人が法廷の審問で、実際にその人達が見たり聞いたりしたことを述べますと、最良の証明になります。賢しい人には、その人に良心がない場合は、気をつけることですね。
青年 
キリストの御神性につきまして、旧約聖書の予言はどういう証明をしていますか?
神父 
すべての古代民族の伝説と一致して天より地上に降り給う救世主のことを述べています。そして、その人為や御性格、御生涯と御死去の主な状況をはっきり書いています。
青年 
一体、予言というのはどういうことですか。
神父 
それは、発生が人の自由意志か天主の自由な御旨によって定まる事件、それ故、人間や天使の予知し得ずただ天主だけが御存じでいられる事件をはっきり予報することです。
青年 
キリストの成就されました予言はたくさんありますか?
神父 
あります。聖書にある文を少し申しあげましょう。旧約聖書の中にあるキリストについての予言と、新約聖書の中にあるその成就とを比較することができます。たとえば次のようなことです。
イザヤ第九章第七節とルカ伝第一章第三二節の主は王になり給う、詩篇第百九章第四節とへブレオ書第七章第二四節の主は司祭になり給う、イザヤ第二章第二節とマラキア第一章第十節とマルコ伝第一六章第一五節の主はすべての人に、礼拝の普遍的な形式を与えられる、エレミヤ第二三章第五ノ六節に対するルカ伝第三章第三二節とマテオ伝第三章第六節の主はダビドの裔より生る、イザヤ第七章第一四節とルカ伝第三章第三五節の主は童貞の母より生る、ミケヤの第五章第二節とマテオ伝第二章の主はべトレヘムに生る、イザヤ第三五章第四・六節とマテオ伝第九章第四・五節の主は奇蹟によってその教えを固くするなどです。
主の御受難と御死去の有様は非常にきわだった方法で予言されていました。銀三十枚で売られ(ザカリア一一ノ一二)、鞭うたれ唾きせられ(イザヤ五〇ノ六)、その手と足は釘うたれ(詩二一一ノ一七)、罪人の間に死に給う(イザヤ五三ノ一二)、嘲られ(詩二一)、飲物に酢と苦きものを与えられ(詩六八ノ二二)、その衣は分たれ(詩二一ノ一九)その足は折られぬ(民数記九ノ一二)などです。
こういう予言がみんなキリストにおいて成就しましたことは、とても偶然や人間のごまかしによるものではなく、必ず天主の御業でなければなりませんから、キリストが約束の救世主であられますことは、はっきりしたことです。
青年 
新約聖書にのっている奇蹟は、キリストの天主にましますことをどういうように証明しているのですか?
神父 
既に申しあげました通り、奇蹟は天主の全能によってはじめて行うことができます。これは天主だけに源がある結果です。ところが新約聖書には、キリストの御神性に対する御教えを証明するために、主が行われました奇蹟をたくさん記録してあります。この奇蹟は真昼間に、しかも殆ど常に群集の前で行われました。そうです、その大部分は当の敵の面前で行われました。即ち、主の奇蹟の真実であることは疑いませぬが民衆があちらこちらから盲目、つんぼ、中風病者を連れて来るのを見て主の御成功をそねんだファリザイ人や律法博士の面前で行われました。
過去千八百年の間、最も厳しい批判がキリストの奇蹟に向けられて来ましたが、却ってその真実を立証するという結果になりました。キリストが敵に向っておっしゃいました「父が全うせよとて我に授け給いし業、我が為しつつある業其物が、父の我を遣わし給いし事を証するなり」(ヨハネ五ノ三六)「我もし我父の業を為さずば我を信ずること勿れ、然れど我もし之を為さば、敢て我を信ぜずとも業を信ぜよ。然らば父の我に在し、我の父に居る事をさとりて信するに至らん」(ヨハネ一〇ノ三七〜三八)というお言葉はまことに至言であります。
青年 
「復活」は最上の証明になる、というお話でしたね。
神父 
そうです。キリスト御自身の御復活は、ほかのどんな歴史的事実よりも大きな証拠と証明を持っていまして、いかに懐疑的な人にとりましても、少しの疑いも起さずに主の御神性を証明するはずです。もし主が天主でいられませんでしたら、その御予言通りに自分の力でどうして復活することができますか? 主の御復活は、主の御死去を目撃した、或はこれを確信していて、その後主の生きていられるのを見ましたその当時の凡そ十二人の歴史家から証言されています。前にも申しあげましたが、この人達は信ずるに鈍き人達でした。事実、この人達は主を見、主に語り、主と共に食事をし、手にふれてみて始めて信じました。信じましてからは、この御復活をキリストに対する全信仰の基礎としました。ユダの後継ぎを選ぶときは、キリストの御死去と御復活を証言できる人を選びました。この人達はあらゆる危険をおかし、死に対する主の赫々たる御勝利を守るために、喜んで命を投げ捨てました。
青年 
キリストは真の天主なりということを述べているはっきりした文は、聖書の中にありますか?
神父 
(一)あります。主御みずから天主なりとおっしゃっていられます。聖金曜日の朝、主はユダヤ人の大司祭の前にお立ちになりまして「汝は祝すべき神の子キリストなるか」という質問をお受けになりましたが、これに対しまして主は「然り」と言われました(マルコ一四ノ六一〜六二)。主は御受難の前に、「父よ、世界の存在に前だちて我が汝と共に有せし光栄を以て、今汝と共に我に光栄あらしめ給え」(ヨハネ一七ノ五)と、こういう祈を言われました。
(二)聖書はキリストに天主という御名を与えています。「元始に御言あり、御言は神と偕に在り、御言は神にてありたり」(ヨハネ一ノ一)そしてこの御言はキリストという人になられました。「御言は肉と成りて我等の中に宿り給えり」(ヨハネ一ノ一四)とあります。
(三)キリストは「凡て父の有し給うものは悉く我ものなり」(ヨハネ一六ノ一五)と、天主のすべての権能と完全を主張されました。特に聖書は主の御知恵を証明しています。聖パウロはキリストの御事を述べて「キリストには智恵と知識との凡ての宝かくれあり」と申しました。(コリント後二ノ三)
(四)聖書によりますと、天主の光栄が主に与えられています。このことは「父は誰をも審判し給わず、審判を悉く子に賜いたり。是人皆父を尊ぶ如く子を尊ばん為なり」(ヨハネ五ノ二三)という主御自らの御言葉ではっきりしています。
青年 
自ら進んで信ずる人にとりましてはこれはたしかに豊かな証拠ですが、かりに私達の反対者が、聖書は今私達がいろいろ引用しました人達の手で書かれたものである、ということを信用しない場合はどうですか?
神父 
キリスト時代にいました異教徒の歴史家のクキトゥスとプリニーがこれらのことを書いて、又パレスチナから遠く離れたところに住んでいる人民に対する影響を、ローマ皇帝に報告しています。それから、俗史によりましても、キリストと呼ばれる歴史上の人物が現に住んでいて、世界始まって以来の最も完全な人物であるとみられていた、ということが証明されます。異教徒 が十分これを認めています。この承認だけで主の天主にましますという証拠があります。
青年 
どうしてそうなりますか?
神父 
そうですね、彼等は主は天主に近い者、最高の完全なる模型、前古未曾有の最高の聖人であったということを認めています。ところで、もしキリストが自ら主張していられます御者、即ち天主にましまさぬならば、どうして「完全なる模型」になることができますか? 又、もし主の御公言がいつわりでありましたら、どうして主は「前古未曾有の最大の不信仰者、最大の非礼者、最大の涜神者」にならずにいられましようか? もしキリストが真の天主でなければ、いつわりの教師であるばかりか、世界一のペテン師です。
キリスト教の敵がキリスト教の創立者について「天主に近い者」などと言っていることを考えますと、たとえ暗黙なものでありましても、彼等は主の御神性についてはっきりした承認を持っていることが必ず見出だされます。ですから、論理上、主の敵がペトロのように、主において「生ける神の子」を認めないのでしたらそれは自らペトロのように脆いて、主を自分達の御主として認めないからである、と結論せざるを得ません。
要するに、聖書に、或る時キリストが使徒達に向って、人々は主のことを如何に考え始めたかとお聞きになったということが書かれています。民衆はキリストの神性と奇蹟を知つていました。それで主を非凡の人物であると知っていました。しかし、主の外見がほかの人と似ているのを見まして、彼等は主を別の大予言者と考え、或る者は洗者ヨハネと思い、又他の者はエリヤかエレミアがこの世に戻って来たのだと思っていました。それで「民衆は我のことを何と信じているか」と使徒達にイエズスがお尋ねになったのです。それでペトロがすべての者に代って、「汝は生ける神の子キリストなり」(マテオ十六ノ一七)とお答えしました。使徒も民衆も正しい考えでした。キリストは天主でもあり、又、人でもあったからです。もしキリストが天主にましまさぬなら、世を罪から贖うことはできません。又人にましまさねば、この世で人々にまじって住んだり、人々のために死に給うことはでききせん。
キリストの御神性に肩を持つ聖書や、歴史理論によって提供されている証拠と、これを反駁するために異教徒が持ち出す根もない議論を比較して考えますと、異教徒になる方が、キリストの御神性の信仰者になることよりも、遥かに強度の信仰を要する、ということが直ぐにわかります。キリストは御降誕前の数百年間予言せられていられた御方で、全世界はその御来臨を渇望していて、異教の予言者さえ世は天よりの教師を持たなければと言っており、予言者がメシアについて予言していたことは、全部キリストにおいて成就し、キリストの無類の御人格と罪のない御生涯 があったということをキリスト信者は見聞しています。また主の多くの奇蹟や御復活のことを、数年間日々主と共にあった十二人の心素直な聖人から聞いています。王や皇帝がある限りの力を尽して妨害しましたが、主の宗教はたてられ、あらゆる境遇の無数の男女が主の御遺芳をたたえているばかりか、主に全心を捧げることの中に幸福を見出している、ということをキリスト信者は知って見ています。
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