9 真の教会は誤りに陥らぬ
神父 
この前の講義では、カトリック信者の間に信仰の一致が存することについてお話しました。ところで、この一致は教会の教えの背後に誤ることを得ない権威が存して、始めて可能です。もしこの世に「活ける神の教会」があるのでしたら、この教会に「人々に教える」といふ責務が委任されているのでしたら、しかも、もしこの教会が世々を通じて生き続けるキリストにほかならないものでしたら、この教会は誤るおそれなき権威で語ることができなければなりません。教会の声は天主の御声でなければなりません。その教えは天主の御教えでなければなりません。その権威は天主の権威でなければなりません。これが教会は誤ることを得ないという意味です。これにより、「教会の不謬性」に対する信仰は、天主の不謬性に対する信仰に基礎を置くものであるということがわかります。天主は一切のことを御存じですから、天主は誤り給うことができません。又全善でいられますから、私達を故意に欺き給うことはできません。
天主は天主にてまします以上誤るといふことはあり得ません。しからざれば、天主ではないことになります。ですから、天主の不謬性はわざわざ証明する必要がありません。キリストも天主ですから、誤りを教え給うことはできぬはずです。事実主が教会を誤りに陥らしめないと御約束なさいました以上、教会は、キリストが教会を誤りに陥らしめないと御約束なさった事項を教える限り、不謬であるはずです。
青年 
「不謬」という言葉はそんな意味なんですか?
神父 
そうです。しかし、カトリックでない大概の人は、別の意味に想像しています。教会を代表して教皇が公式に声明する場合、私達が教皇は「不謬」であるといいますと、この人達は、私達は教皇を罪を犯さず間違いもしない神のようなものに見ている、と憶測します。しかし、私達が教皇は不謬なりと云う意味は、救霊のために信じ且行わなければならない事項につき、天主の御示しになりました事柄を教皇が教会を代表して述べられる場合は、誤りを教えるような事がないように、聖霊によって護られている、という意味です。教皇が、これ以外の事項について語る場合とか、個人的に、或いは私生活で語る場合にもそういう御保護がある、という意味ではありません。
青年 
私は、それは自明の真理だと思います、教会の代弁者が全信者に誤りを教えますと、天主の真理を拡めるという天主の御目的は駄目になってしまいますね。
神父 
その通りです。人々に教えることを天主から委任されている教会が、信仰と道徳に関する問題で誤るかも知れないなどということは、実際信じられませんね? 天主が人々に教会に聴けと御命じになりながら、その教会が人々に間違いを教えるのを天主がそのまま放置される、ということはとても考えることはできません。カトリックでない人々は、「誤りのない教会」と、「教会の為に述べる生ける声」(教皇)との間に必然的な関係があることを理解していません。この人達は不謬の聖書のことを考えますが、不謬な権威がこれを神感による書物であると断言し、且つ誤解と誤訳から読者を護らねば、聖書は何等の価値も持たない、ということに思い至りません。この人達は、教会におけるキリストの代表者(教皇)の不謬性を排斥しながら、一方、聖書のすべての読者に不謬性を附寄するというような極端なことをしております。
青年 
そうです。この前に申し上げたように、私の友達は、自分が聖書を読むとき誤解しないように聖霊が護って下さる、と言っています。これが本当でしたら、その人は少くともその時だけは不謬だと云うのですね?
神父 
そうです。これを教皇にあてはめてみましよう。教皇の不謬性ということは、天主の任命し天主の護り給うた教師として、教皇がその権威を行う場合、すなわち、天主の御名において、全世界の人々に天主の正しい啓示の何たるかを明らかにする場合に誤りがない、ということです。不謬性は教皇だけのためにあるのではありません。教会が自分のために誇りとするものではありません。それは信者のためにあるのです。教皇の不謬性によって利益をうけるのは全教会です。
青年 
その点は私には十分わかっていますが、できれば聖書に基く証明がほしいと思います。
神父 
同感です。聖書の多くの聖句はキリストの使徒達の不謬性を証明しています。カトリックでない人達も新約聖書に勝手な教えを附加したり、人々を教え治め聖別する使徒の権能を否定したりすることは絶対にできません。
「天に於ても地に於ても一切の権能は我に賜わりたり、故に汝等往きて万民に教え、父と子と聖霊との御名によりて是に洗礼を施し、我が汝等に命ぜし事を悉く守るべく教えよ。然て我は世の終りまで日々汝等と偕に居るなり」(マテオ二八ノ一八〜二〇)とあるからです。
このようにキリストは使徒達並びにその正当なる後継者に、霊のことについて、世の終りまで信者を教え治める権利をお与えになったのです。ですから、教会は、永遠に目に見えぬその頭にてまします聖なる建設者の聖旨を、絶えす実現してゆく、ということを私達は固く信じています。
しかし、使徒並びにその後継者は自由勝手に働くのではありません。教会の代弁者なるひとりの人の指導のもとに、初代教会という宗教団体を形づくることになっていました。キリストは十二人の一団にこのことをお話しになりました。ですが、主は十二人中の一人を、教会の最初の、肉眼で見える頭に御任命になりました。そしてその一人の人に、力強くお告げになりました。
即ち聖書によれば、イエズスは十二人より一人を選び、その名の「シモン」を「巌」(ペトロ)とお変えになりました。巌と呼んだわけは、この人はキリストの地上の教会の土台として主を代表する時(教会はこの人の死後も続くものですから、その後継者に付ても同じですが)この団体内の安定と一致の基になり、又、生ける代弁者となるべきだからです。又論争の生ずるときは、この人が天主の御導きの下に決定する権を有すべきだからです。
マルコ伝の第一章第一六節とルカ伝の第五章三節から第五節に、イエズスがこの使徒を選び給うた時その名は「シモン」だった、と記録されています。ですが、マテオ伝の第一六章第一七節から第一九節に、キリストはこの人に新らしい名を与え給うたと載っています ----- これは彼が全部の使徒に代ってイエズスの神性について心から告白した直後の出来事です。シモンの名がペトロに変ったことは、マテオ伝第四章第一八節、第一〇章第二節、マルコ伝第三章第一六節、ルカ伝第六章第一四節、ヨハネ伝第一章第四二節に載っています。
ヨハネ伝の第一章第四二節に、アンドレアがその兄弟のシモンをイエズスのところに連れて行ったところ、「イエズスこれをみつめて曰いけるは、汝はヨナの子シモンなり、ケファ=訳せばペトロ=と名(なづ)けられん」といわれたとあります。
「ケファ」という言葉は、イエズスの使われました国語の「巌」という言葉で、「ペトロ」はギリシャ語の「巌」です。ヨハネ聖福音書はギリシャ語で書かれたのでヨハネはケファという言葉に註をつけたのです。キリストの真意は、「汝はケファなり、我この磐の上に我が教会を建てん」という御言葉に着目すると、明かになります。これが主の実際の御言葉です。主が御自分の国語でそう宣言なさったのです。
汝は磐ペトロなり、我この磐の上に我が教会を建てん、敢て地獄の門は是に勝たざるべし。我尚天国の鍵を汝に与えん、総て汝が地にて縛がん所は天にても縛るべし、又総て汝が地上にて釈かん所は天にても釈かるベし」(マテオ一六ノ一八〜一九)
というこの御言葉は、他の使徒達に向ってキリストは一度もお使いになりませんでした。
青年 
力のこもつた非常に意味の深い御言葉ですね。
神父 
ペトロだけに対してキリストは更に別なお言葉を申されましたが、これによりますと、ペトロが、キリストの御名において万人の一般的な指導者、教え手に選ばれたという事実は、一点の疑う余地もありません。即ち、ヨハネ伝の第二一章第一五節から第一七節によりますと、ペトロはキリストの御受難の時に主を三たび否んだ償いに、三度び愛の告白をなしおえると、キリストはペトロに向って「我が小羊を牧せよ、我が羊を牧せよ」という御言葉を以って、主の全ての羊の群を牧することをペトロにお任せになりました。
キリストは御自身のことを「善き牧者」主に従う者を「羊の群」と好んで呼ばれました。小羊と羊を含めた主の羊の群は、主の御昇天後牧者を要します。それでこの役目がペトロに委任されたのです。
青年 
小羊と羊で、成るほど羊の群全部になります。
神父 
同じように、ルカ伝第二二章の第三一節と第三二節の御言葉も深い意味を持っています。ペトロに向ってキリストは、サタンが使徒の全部に悪だくみをしていると告げ、「されどわれ汝の為に、が信仰の絶えざらん事を祈れり、何時か立帰りて、の兄弟等を堅めよ」と申されました。
マテオ伝一六章第一九節、ルカ伝第二二章三二節、ヨハネ伝第二一章第一五節から第一七節の「汝は」「汝に」という御言葉は、教会内のペトロの地位につき、万人の目を開かせます。
青年 
ではペトロは初代教会の公認の頭だったのですか?
神父 
確かにそうです。そうでないと主張する人達は、次のような奇妙な主張をします。即ち、その人達は、パウロはもっと偉大な使徒だった、パウロはペトロよりも多く働いた、パウロは面と向ってペトロに反抗した、ペトロはキリストを否んだことがある、と主張します。しかし、ペトロとパウロの論争は教義上の問題ではなく(ガラチアニノ一一〜一五)、又ペトロは公けの資格で言ったのではありませんから、不謬性の問題と関係ありません。又ペトロはキリストを否みはしましたが、司牧者になれという命令を受ける前に、既にキリストを否んだことを悔い改めています。聖パウロもそのほんの数日前までは、教会の迫害者だったのですから、非難されるとすれば、パウロも同じく非難されても仕方ないのです。
青年 
正当に考えますと、教会の頭の個人的な私的生活は、教会の代表者としての資格と同一に取り扱うべきものではないのですね?
神父 
同一には扱えません。大統領の法案に対する署名は、一大統領の私的生活がどうでありましても、公的なものです。
福音史家は使徒の名を書く場合、ほかの者の名には順番をつけませんが、ペトロの名だけはその表の最初に挙げるように気をつけています。
聖霊降臨の日に聖霊をお受けした後で、真先に民衆に語ったのもペトロです。最初の奇蹟はペトロが行いました。「使徒行録」の最初の一二章にペトロの名が五十三回も出ていて、ほかの使徒よりもずっと回数が多くなっています。ペトロはエルザレム公会議の司会をつとめましたが、これにより、頭としての彼の地位は認めていたことは明かであります。ペトロが捕えられた時、皆この人のために祈りました。第一世紀以来ずっと、ローマの司教の首位と至上権は認められて来ました。ですが、ペトロやその後継者がローマに居たかどうか、ということは、重大な問題ではありません。勿論、ペトロはローマに住んで、そこで殉教しました。この世の教会の最高の支配者を否定しますと、争論が起きた場合どうしてこれを治めることができますか? 国家は最高裁判所を必要としますが、教会も同じことです。地上の教会の頭には不謬性がないと仮定しますと、人々は自分の信じていることが正しいのか、それとも間違っているのかが、わからなくなります。或る言葉の意味に付き私とあなたが論争しましたら、私達は字引をひいて、字引を最後のよりどころにします。天主の御名において語る声(教皇)に聖なる御保護がないと仮定しますと、教会は人々に服従を命ずる資格がなくなります。
青年 
私がどの教会にも属さないと仮定し、そしてその私が真理を知りたいと欲するなら、私は不謬の教会以外に魅力を感じません。不謬性が教会にないとすれば、教会が私を誤りなく導いてくれるという確信を私は持つことができません。不謬性を主張しない教会というものは、私に間違いを教えるかもしれないということを白状しているのと同じことです。
《ページ移動のためのリンクはにあります》
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ