2 人類の堕落と原罪
神父 
さて、この前の講義で教えられたことに、何かむずかしいことはありませんでしたか?
青年 
いいえ、神父様、あなたがお話しになりました堕落した天使──永久に天国を失った哀れな悪魔のことで感銘を受けましたけれど。
神父 
実際それは哀れに思われますが、みんな自分自身の罪です。彼等は反逆の末はどうなるかは知っていました。そして、自由な意志を持っているのですから、しようと思えば全能の天主に服従することができたのです。悪魔は、自分達を無より創り出し、美を以て装い、主の天の家で言うに言われぬ幸福を与え給うた自分達の創造主、唯一の愛する御者に対する反逆の為に、その報いを受けようとは、永遠の報いを受けようとは豫期してなかったのでしょう。この永遠の報いは、天主から永遠の隔離ということであったのです。天国を持つことが出来ねば、天国から締め出されなければならなかったのです。これは地獄の最悪の苦しみであります。
全能の天主は主のお作りになりました最初の人間についても同様のことをなさいました。すなわち服従には天国の約束を、不従順には地獄の威嚇を以て人間の忠誠をお試しになりました。このことはそのうちにお話します。聖書(創世記)によりますと、天主は宇宙とその中の一切のものを七日でお創りになりました。これは純粋に物質的なものから始まりまして、その後に低級な生物がつづき、それから動物、そして最後にこの地上にかりの住いを持つ人間をお創りになったのです。人間の最後の行き先は天使と同様天国でありました。ですが、天使と同じように、これは奉仕に対する褒美としてはじめて与えられるのです。天主はほかの方法で人間をお取り扱いにならず、人間をそのまま自由なものにしておかれました。
青年 
宇宙の全構造は実際七日間で創られたのですか?
神父 
そうではないようです。聖書註釈の専門家は大概、モイゼの使っている「日」という言葉は、二十四時間を以て算える短い時間ではない、という地質学者の説を支持する方に傾いています。天主は一切のものを七日とか七秒で創り給うことができないというのではありません。事実は「日」という文字に反対であるというのです。私達は日を日の出から日没までで数えますが、聖書によりますと、太陽は第四日目までには作られていません。「日」といいまして、ほかにいい言葉がなかったためにモイゼが使いました言葉は、非常に長い時期を表しているのでしょう。教会はこの見解に対しまして反対はしていません。注意していただきたいと思いますことは、舞台に現われました人間は、この世に現われました他のすべての生物と違いまして、現世では天主に仕え、死後は天主と共にいる永遠の幸福を自ら獲得するために作られたということであります。人間の創造につきましては一切の物質的なものが創られた後で、全能の天主は御自身のかたちにかたどって人を創り給うた、と聖書にあります(創世記一ノ二七)。このことはおもに霊魂のことを言っているのです。天主には肉体がありませんから。人間の霊魂は不滅で悟性と自由意志を与えられているという点で天主に似ています。
青年 
科学者は、人間の体は猿から進化したのだといいませんか?
神父 
そういうことを主張する人がいますが、信用すべき証明は一つも出ていません。猿の体は構造が似ているというのですが、全然意味はありません。人間は数千年来この地上にいるのですが、まだ猿がいるのはどうしてですか? ずっと昔に全部人間に進化しているはすです。しかし有名な科学者は大概「猿」説を無視しています。かりに進化論者の方が正しいとしましても、人間は体の点で猿と非常に違っていると争うのではありません。霊魂の点で争うのです。私達の会話そのものが我々の体の中の霊魂を証明しています。すべて結果はその原因の性質を表します。私達の思想は、その表現が言葉であろうがなかろうが、霊的です。それはたしかに物質的ではありません。目に見たり、手で触れたりすることができないからです。ですから、その源である霊魂は霊的なものに相違ありせせん。又霊魂は死ぬことができません(智書三ノ一〜四)。とけたり腐ったりする物質から出来ているものでもありません。ですから、アダムの体を天主が土から創り給うたかどうかということは大した問題にはなりません。聖書にのっていますが、理性によりましても天主が肉体に生ける霊を吹きこみ給うたことが証明されます。この霊魂は永久に生きるものでありますから、価値の点では物質的なあらゆる創造にまさっています。この事実だけで、天主が人間に深い御関心をお待ちになっている理由がわかります。
青年 
天主がエワの体をアダムの助骨からお創りになったということは、聖書にのっていませんか?
神父 
のっています。そして、これは容易に信じられますが、又おもしろいことです。アダムの肉体が直接天主から造られたものでありますなら、エワも当然同じことです。アダムとエワは最初の人間で、ほかの人間のように生れるということはできるものではありませんからね。天主はそうおぼしめしになって、アダムとエワを直接夫と妻になさいました。こうして、この二人は全人類の最初の親になったのです。それから、天主は、エワをアダムの助骨からお創りになったように「二人一体となるべし」(創世記三ノ二四)と、結ばれた夫婦の特別でなければならない合一性を強調されました。
青年 
その中にはたしかにぴったりしたものがありますね。
神父 
ここで私は、私達のこの最初の親が天主の御命令に背くことさえありませんでしたら全人類について天主は最初どうお考えになっていられたか、ということをお話しなければなりません。天主は完全な人の本性に属しているもの、たとえば鋭い知性、肉体の健康、鋭敏な感覚というようなものを全部お与えになられましたばかりか、この世で人間として許される限り、主の御生命にあずからせ、又、よく「成聖の恩寵」といわれています超自然の美を以てその霊魂をお飾りになって、人間の本性を高くなさいました。こういう状態の中で人間の霊魂は天主御自身の像を持ち、主の御生命をうつし、そのために、主の深い愛の対象になりました。しかし、天主が最初の親になさいましたことは、これだけではありません。天主はそのすべての子孫にも条件づきで同じことをなさる御考えだったのです。天主はこの世を真の楽園になさるお考えでした。人間は天主からその身分にふさわしい智慧を十分いただいていましたから、この世で完全な幸福の状態に暮していました。彼等は、食物とか性とかいう楽しみに対する肉体上の欲望や悪い傾きに決して煩らわされることもなく、肉体的な苦しみや困難を全部免れ、死ぬことも全くありませんでした。この完全性は人間に当然与えられるものではなく、人間の本性が持っている自然的な不完全さを、天主がその広い御心を以て正し給う聖寵であります。しかし、こういう賜物は多くの天使の場合と同じように、もし人間が自分達の創り主に対しまして、忠誠を示しませんでしたら、自分や子孫達にとりましてその後の全人類にもなくなってしまうものだったのです。
青年 
アダムが罪を犯さなかったら、私達は死するべきではない、ということは、事実聖書にのっていますか?
神父 
のっています。智書の第二章第二三、二四節に「神は人を腐れざるものに創り給えり、されど、悪魔のねたみによりて、死この世に来れり」とあります。又、聖パウロはロマ書第五章第十二節で極めてはっきり「されば一人に由りて罪此世に入り又罪に由りて死の入りし如く、人皆罪を犯したるが故に死総ての上に及べるなり」といっています。死が罪の結果によって初めて入ったということは天主がアダムにお授けになりました「汝之を食(くら)う日には必す死ぬべければなり」(創世記一一ノ一七)という御誡めによりましても明らかなことです。生きるために苦しい仕事をしなければならないということさえ、私達の最初の親達の罪の結果です。「汝樹の果を食いしによりて──汝は面に汗して食物を喰い終に土に帰らん、そは其中より汝は取られたればなり、汝ら塵なれば塵に帰るべきなり」(創世記三ノ一七〜一九)
青年 
しかし、神父様、私にはこの罪はそんなに悪いものだったとは思えませんが。この問題は正しく考えますと、私達の最初の親達は天主の禁じ給うた果を木からもいで食べただけです。でなければ、「果を食う」ということは何かもっといやしいことを表わす言葉のあやですか?
神父 
いいえ、本当の意味の果で、天主はこれを食ってはならないとおっしゃいました。しかし、忘れてはならないことは、彼らの忠誠が試みられていたのです。これは根本的な問題です。天主は服従を験めされたのです。天主の御誠めを守ることは容易なことですが、それは人祖がこれを守るかどうかということにかかっていましたので重大でした。要するに天主は彼等に向って「我は主たる汝の天主にして、我自ら汝等を創れり、天国は服従の些かなる行為に対しても報いとして汝等に与えらる。されど、汝等自由なるものとして、順わぎるも汝の自由なり。不従順の結果、汝等及び汝等のすべての子孫は我が愛を失い死と苦しみと悪しき欲望を免るる賜物を奪われん」と仰せになったのです。
天主は天国を与えられる人間の幸福を羨む堕落した天使の一人にエワを誘惑することをお許しになりました。エワは天主の御命令を無視してこれに目を向けました。創世記の第三章第六節に「婦(おんな)樹を見ば食うに善く目に美麗しき樹なるによりて、遂に其果実を取りて食い、亦之を己と偕なる夫に与えければ彼食えり」とあります。
青年 
それからどうなりましたか?
神父 
アダムとエワにつきましては、天主の愛子として約束せられた天国の生を送る資格を失いました。まだこの外に、彼等は死と苦しみと悪への強い傾きに従うようになりました。又これまで住んでいた地上の楽園からも追い出されました。
アダムの子孫は、聖寵をうばわれたこの世に生れ、もしアダムが天主に従いさえしましたら賜物を受けついだでしょうに、反対にその堕落した状態と罰を引きつぐことになりました。私達の生れて来るこの状態をさして原罪の状態というのですが、これはアダムの時から私達が引ついでいる罪だからです。
青年 
しかし、全人類がアダムの不従順のために罰せられなければならぬということは正しいことですか?
神父 
そうです。正しくこれを御考えになればですね。原罪は私達が人間として当然の権利のあるものは、何一つとして奪うのではありません。それはただ、天主がその広い御仁慈の心から、もしアダムが罪を犯しさえしませんでしたら、私達に与えようとなさいました自由な御賜物だけを、取り去るのです。天主が霊魂に与えていられますものはすべて霊魂本来の質でありまして、それは不死・自由意志・悟性です。聖寵による霊魂の超自然的な美化とか、死、病気、肉的な欲望の悪い傾きから肉体が免れていることなどは、賜物でありまして、与えるも与えないもこれは天主の御自由です。天主はこれを、人類の源であるアダムがもし従わねば、その子孫たちからも引き上げようと決心なさったのです。この一つの行為の中に全人類が試みを受けたのです。私達は堕落した状態のアダムから人性を受けています。
たとえを以てはっきりさせてみましょう。私があなたのお友達として、将来あなたのものになり、又あなたの子孫にも伝えて行かれる大きな別荘を、自発的に或る条件の下にあなたに差し出したとしましたらどうでしょう? あなたはこの条件を果さない、そのために別荘を失います。あなたの子孫もこれを得ることができません。彼等はあなたを責めてもかまいませんが、私を非難することはできません。私はあなたにその別荘をあげる義務はないのです。これをあなたが得て子孫に伝えるということは、あなたが私の要求に従うか否かにかかっていました。あなたが私の条件に従うことを拒絶したために、自分のためにも、又、子孫のためにもこれを失ったのです。
青年 
ですが、この世の幸福だけが人祖の罪の影響を受けているのでして、永遠の幸福はそうではないのですね。
神父 
いいえ、私達の霊魂は聖寵という超自然の美を失っていますので、超自然の光栄の状態に入る資格がありません──「原罪」はあっても他に何一つとして自分の罪(自罪)のない幼児でもそうです。
青年 
カトリックに、幼児についてそういう教えがあろうとは知りませんでした。
神父 
あるのです。私達は、洗礼を受けていないために天主の聖寵を持たずに死ぬ子供の霊魂が、積極的な罰と苦しみに附せられる、ということは信じません。事実、私達は、この霊魂はこの世のどんな自然的な幸福よりもすぐれた幸福を受けるということを信じています。──ですが、この幸福は自然的な幸福すなわち、その霊魂の力に適したものにすぎないのです。もちろん、これは天主を見奉る霊魂が受けている幸福には迚(とて)も及びもつきません。霊魂は聖寵によりまして超自然の状態にまで高められませんと、超自然の幸福を受けつぐことはできないのです。
青年 
それでは、大人の方が子供よりもいいというのは、どうしてですか?
神父 
必ずしも大人が子供よりもいいということはありません。大ていのものは同じです。私のお話しましたのは、きよめの聖寵を注いでいただいて原罪を取り去られる前に死んだ子供は、天主を見奉る幸いに入り得ないということです。大人もこれと同じです。しかし、天主は御仁慈と御慈愛によりまして私達を救わんためにお出でになりました。この御恵みによつて、原罪は除かれ、大人の霊魂も子供の霊魂も二つながら、アダムが罪を犯さなければ与えられていたであろうような聖寵を再びいただくことができます。
次の講義の時に、天主の御友愛を回復し給うために天主のなし給うたことと、どういうふうにして私達は天国の生命に入ることができ、又、それに価いするものになれるか、ということをお話しましよう。
青年 
アダムとエワは原罪に対しまして合同の責任があるのですか?
神父 
両方とも天主の御命令に背いたのですが、アダムだけが人類の祖としまして、代々これを伝えて行くことに責任があります。
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