昭和49年(1974年)4月14日発行『京都教区時報』第45号より

友達にキリストを紹介しよう

─ 布教のよろこび ─

司教 古屋義之

 京都教区の皆さん、御復活おめでとうございます。

 御復活! イエズス様はよみがえられました。もうお墓にはいらっしゃいません。私たちと一緒にいつまでもおいでになります。生命が死に打ち勝ったのです。イエズス様は、真の神であり、真の人間なのです。復活こそ、キリスト信者の信仰の支えです。

 信仰は私たちに、永遠の生命、後の世の幸福を与えるだけでなく、この世においても、心の支え、よろこびと平和、幸福をもたらしてくれます。しかしその為に、私たちは真剣に信仰に生きなければなりません。ところで私たちが信仰をもっているのは一体誰のおかげによるのでしょうか。それは私たちの功徳によるのではなく、神様の無償の賜物であり、私たちを信仰に導いてくれた親や友達のおかげなのです。神様はみんなに信仰の賜物を与えたいと望んでおられます。けれども、そのとき、人間という道具をお使いになります。御ミサの奉献の時、ブドー酒に加える一滴の水も、無限の価値ある御血に変わるように、私達の努力も神様の偉大な御力に付け加わえることによって大きな力になります。人の心を動かすのは神様であります。私達がいなくても神様は何でもお出来になるのですが、主は私達の協力を待っておられます。

 人々は物質文化と享楽を求め、神を求めていないかのように見えるかもしれません。しかし実際には神を求め、真の幸福を求め、不安から解放されることを望んでいるのです。特に若者たちは純粋な心をもち、真剣に真理を追求しています。

 イエルザレムに不思議な池がありました。時々天使が降りてきて、水を動かしたとき最初に水に飛び込んだ病人はすぐ治されたのです。たくさんの病人が池のまわりに居ました。そのうちの一人は、三十八年間もそこに横になっていたのでした。キリスト様がお通りになり、治して欲しいか、とおたずねになりました。すると、その人は答えたのです。「私を水に入れてくれる人が居ません。」(ヨハネ・5・1〜9)

 私達の周囲には、この病人のように、私達の援助を待ち望んでいる人たちがたくさん居るのです。その人たちが審判に赴いたとき、「私を洗礼に導いてくれる人が居ませんでした」と言うようなことになれば、そばに居ながら、何もしなかった私達の責任が問われることになるでしょう。

 実りは主がお与えになります。私達には主の道具として、忠実に主の御命令を果す努めがあります。同僚や友達と個人的に話し合って、信仰に導く努力をしているでしょうか。何人の友達を公教要理のクラスに連れてゆきましたか。

 はじめはとまどいを感じることもあるでしょう。しかし最初の一歩を踏み出せば、あとは、大きなよろこびを感じるようになるでしょう。友達もキリストの光に至り、感謝の気持を持つようになるでしょう。

 御復活祭にあたって、主の豊かな御恵みが皆さんの上に注がれますように、司教としての祝福を送ります。

(京都教区長)

京都教区時報(1962年〜1993年

派遣

参照

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