昭和48年(1973年)3月4日発行『京都教区時報』第42号より

下線は管理人による付加

犠牲は愛のしるし

─ 幸福の秘訣 ─

司教 古屋義之

 教区の皆さん、

 四旬節にあたり、司教として、皆さんにお話しようと思います。

 四旬節になると教会は紫色でおおわれます。典礼の紫色とは償いを示す色で、四旬節とはつまり償いの時期です。最近、世間の安楽主義の風潮に流されて、信者も償いや犠牲の価値を忘れる危険にさらされています。

 皆さんは四旬節の間、度々「十字架の道行き」などを通してイエズスさまのご受難やご死去について黙想なさるでしょう。イエズスさまは、なぜそんなに苦しまれ、そんなにむごい死に方をしなければならなかったのでしょうか。それは私達の重い罪と、忘恩のためです。

 イエズスさまの救いのみ業は、完璧で、万能薬のようなものです。しかし万能薬も病人がそれを飲まなければ効かないように、イエズスさまの救いのみ業が効果あるためには私達一人一人がその薬を飲まなければなりません。つまり秘蹟にあずからなければなりません。

 罪を犯しても告解という素晴しい秘蹟を通して、全ての罪の科(とが)と、償いの一部分を赦してもらうことができます。しかし償いの全てが赦されたとは限りません。その償いの一部分はこの世あるいは煉獄で果さねばなりません。そのために私達は犠牲に励むのです。

 犠牲とは単なる自己否定ではありません。それは愛しているが故に自分のエゴ、わがまま、安楽さ等を否定することです。私達の母親は私達のためにどれ程犠牲を払い、しかも当然のことのように喜んで尽してくれたことでしょう。

 犠牲として、まず果さなければならないのは教会の第四の掟です。つまり、灰の水曜日と聖金曜日に大斎、小斎を守ることと、毎金曜日に何らかの犠牲を行なうことです。これは信者として最小限度守るべきもので、これを怠れば罪になります。

 金曜日の犠牲としては、悪い事を避けるような犠牲よりも、むしろ別に罪の対象とならないようなことでも、あえて犠牲として捧げることです。例えば、朝起きのつらい時期ですが決めた時間にパッと飛び起きること、五分早く起きて聖書を読むこと、好きなタバコの量を減らすこと、嫌な人に対しても微笑すること、しなければならない仕事を完全に果すこと、嫌いな物を喜んで食べ、好きな物を少しがまんすること、手紙を書いたり電話したりして友情を深め使徒職をすること、やり始めたことを投げっぱなしにしないこと、テレビを見る時間を短くすること等はごくわずかの例にすぎません。イエズスさまをお喜ばせする、あなたに相応わしい犠牲があるはずです。自分に適したものをさがしてはっきり決めてください。

 金曜日だけでなく、徐々に毎日の生活の中でも実行していくのは良いことですし、特に四旬節には積極的に実行し、償いの精神を増しましょう。自分から求める犠牲の他に送られた犠牲とでも名付けることのできるものがあります。日常生活で起ってくる様々の嫌なことや気のすすまないことを主のみ旨として受け取り、意向を正して、喜んで捧げる犠牲がそれにあたります。

 キリスト者の印は十字架の印であり、十字架を担なうには犠牲が必要で、犠牲は愛の印であり幸福の秘訣です。四旬節の間、イエズスさまへの愛のためにイエズスさまと共に苦しみ、誠実な告解を度々し、小さくても沢山の犠牲を捧げて償いをし、聖金曜日には自分というエゴを主の御墓に葬り、新しい人間、キリスト者としてイエズスさまと共に復活できるように頑張りましょう。

 皆さんの上に、心から、司教としての祝福をおくります。

(京都教区長)

質問にこたえて

読者からの声

口で? 手で?

=聖体拝領の形態について=

〔質問〕前号で、司祭・修道者の服装について解説していただきました。服装は教会の内外ともに意味をもちますので、有益でした。公会議後、改められた点については教会の指導に従う者ですが、時として「混乱」が生じることも事実です。今日は、教会内の基本的なこととして聖体拝領についてお尋ねしたいと思います。
 二年余前、カトリック新聞にも写真入りでその解説がありましたが、私自身、その日のミサの聖体拝領の列の前後の方々の仕方に合わせてしまうこともあります。聞くところによると、手での拝領を強くすすめる小教区もあるそうです。また、両形態での拝領にもあずかり、その仕方もかなり「自由」だとも聞きます。以上、京都教区の方針を解説下さればと思います。(「自由」がその範囲に止まらず、かえって自由の本質と反対の方向に進むこともまた事実と思いますので。)

男性(教員・38才)
〔河原町教会所属〕

〔答〕昭和四四年五月二九日、バチカン典礼聖省が全世界の司教に実施した「聖体を手に授ける」ことについてのアンケートの結果が発表された。その質問と結果は次の通りである。

 一、従来の聖体の授け方の他に、手に授けてもよいと思うか。賛成五六七、反対一、二二三、その他三三五

 二、「手に聖体を授ける」ことを、司教の許可を得て小共同体で実験してみてもよいと思うか。賛成七五一、反対一、二一五、その他七〇

 三、適当な準備の後、この方法を実施すると、信徒は喜んで受けいれると思うか。賛成八三五、反対一、一八五その他一二八。

 この結果に基づいて「聖体を手に授ける」ことが原則として認められないことになった。ただもしどこかで特別な事情があれば、その時、例外的に許可することもあり得るということになった。

 所で、日本司教団は、この例外を認める末文に重きをおいて、司祭や信徒の意見を求めずに、日本の風土に合うという理由で、「聖体を手に授ける」許可を申請した

 これに対し、典礼聖省は許可を与えたが、それは次のような条件のもとにである。

 その第一条件は従来のやり方が守られること、そして信徒に「聖体拝領の新しい方法は従来の慣習を排除してしまうようなしかたで、おしつけられてはならない。」(カトリック新聞四五年十月十一日号)  従って信徒は、初代教会から伝わっている伝統的な拝領の仕方、即ち口で聖体を受ける権利を持っており、もし司祭が言葉又は雰囲気でもってその権利を奪うことがあれば、信徒は、自分と他の信徒の自由を守るために、反対する義務がある。

 「手に聖体を授ける」ことが日本の風土や慣習に合うかどうかについては賛否の意見が分かれたままであるが、カトリック新聞の信徒の「声」に、お茶の湯の時お菓子をいただくのにも懐紙を使うのに、直接御聖体をさわっては失礼で、日本人の感覚にあわない、と書いてあったことがある。

 両形態の聖体拝領については、昭和四四年「ミサ典礼書の総則」二四二番にあるように、幾つかの場合には許されている。その内信徒に関係があるのは次の場合である。

 一、成人の新信者はその洗礼に続くミサにおいて、成人の受堅者はその堅信のミサにおいて、洗礼を受けている人が教会の交わりに受け入れられるとき。

 二、新郎新婦はその結婚のミサにおいて。

 六、病人の家で法規に基づいてミサが執行されて臨終の拝領が行われる場合、居合わせるすべての人。

 十、精神錬成会に参加しているすべての人は、共同で執行されるミサにおいて。

 十二、成人受洗者の代父母、親、配偶者、信徒カテキスタは入信式のミサにおいて。

 十三、新司祭のミサに参加する親、親類、特別な恩人。

 昭和四五年、日本の司教団は典礼聖省から、右記以外の機会にも、各教区の司教の判断により、司祭が両形態を授けることができるという認可を得た。京都教区では、(ミサ総則二四二番以外)司教に認可を申しでて認可された場合にしか許されないことになっており、現時点までに、司教は一度も認可を与えたことがない。

 又、両形態の聖体拝領の儀式は「ミサ典礼書の総則」二四三〜二五二番に定められている規定に従わなければならない。そこには、両形態で授けられる場合でも、パンだけで拝領したい人の自由を守るよう強調されている。また、ホスチアを御血に浸しての拝領の儀式では、浸すのは司祭であって信者には許されていないことも規定されている。

 最後に、あなたの手紙では触れておられないのですが、これに関連して、もう一つ混乱している件について述べておきます。

家庭ミサについてですが、家庭ミサが許されているのは巡回教会になっている家庭においてだけで、それ以外の場合には司教の許可が必要である。

京都教区時報(1962年〜1993年

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