2018.05.05

エルデル・カマラ大司教 2

世界宗教者平和会議」の第一回(1970年、京都)で注目されたもう一人はブラジルのエルデル・カマラ(Hélder Câmara)大司教である。(「Hélder」はポルトガル語では「エルデル」と発音するようだが、以下の文章は「ヘルダー」と呼んでいる)

世界宗教者平和会議・会議記録 1970  / 京都』より

pp. 46-47

 南米において社会的不正と戦っている前記ヘルダー・カマラ大司教は多分、会議出席者の中でも、柔和さと敬虔にあふれた最も魅力ある人物であったと多くの人が語っていたが、この柔和さのうちに秘められた勇気と果敢な精神は、宗教者としての彼の人柄においてのみ美わしい調和を保っているといえるであろう。カマラ大司教は、この会議がもたれたということにおいて大いなる上よりの導きをよみとり、「各々が自己の枠から出て、利己心を克服しなければなりません。各々が自己の良心と信念に忠実であると同時に、私達を結合するものを熱心に求め、人類の福祉と神の栄光のために、犠牲をうとむことなく、共に働く決意をする必要があります」と会議の参加者に語りかけた。彼はとくに彼もその一人であるところの基督者のざん悔を呼びかけている。「人類の二〇%の人間が世界資源の八〇%を所有し、はずかしいことにこの特権的な二〇%の人間は、利己心を征服することが出来ず、平和につながる正義と愛の道をたどることが出来ないでいるのです。しかも彼等は、少なくともその出生においてキリスト者と呼ばれる者なのです」そしてこうした不正こそ、全ての暴力の根源であることを宗教者は認識すべきであると彼は言う。そこで、われわれの正義と平和の為の行動にとって不可欠な三点をカマラ大司教は次のように要約する。

──正義なくして平和は存在しません。
──ただちに、我々の周囲及び世界の最も深刻な不正を告発しましょう。
──唯一の、真の永続的平和への道である正義と平和のために一致団結しましょう」

 宗教が内心の平和にとどまらず、世界の平和を求めるとき、宗教は社会的不正とたたかう姿勢を今までよりも、もっとはっきりと打ち出さなければならない。そして愛と正義の神は、多くの使命を人間の良心の奥深くに喚起し給うことを信じ、われわれの限界、弱点、分裂、利己心がいかに大きくあろうとも、正義と平和の為の行動は、全世界の善意の人々を結集させずにはおかないという確信をカマラ大司教は諄々と述べた。困難な状況の中で社会的な不正に対してたゆみない闘いをつづけるこの人の言葉には、人々を勇気づけるものがあった。この高貴なる闘いのゆえに、会議の研究部会の一つから、カマラ大司教をノーベル平和賞に推すべきであるという声が出たほどであった。「開発」部会の報告の一節はそれを次のように表わしている。

 「我々は、権利を剥奪された人々を疎外する不正な機構を変革するための非暴力の努力を強く支持する。これに関連して我々は、ブラジルのヘルダー・カマラ師にノーベル平和賞が授与されることを要請する。彼は、貧困者の正義のために英雄的に率先行動し、近代社会の組織的不正を勇敢に弾劾し、暴力にむくゆるに暴力をもってすることを拒否したのである……」

 平和のための闘いと献身的な努力の中から発せられた言葉は、たとえそれが短いものであり簡単なものであっても、そこには千金の重みがあることを、われわれは、平和のために身をささげる人々の言葉から学んだのであった。そしてこれらの平和のための証人と、平和のための証言が、この会議の参加者ひとりびとりの胸に大いなる力と励ましを与え、平和への決意を新たにさせたのであった。

1983年、京都

そして、カマラ大司教は1983年、「庭野平和賞」を受賞し、東京での授賞式(4月7日)に出席した後、京都司教区を訪れた。それは1983年だから、賢慮があった古屋司教様の時代が過ぎ、次の田中健一司教様の時代のことである。それを伝える京都教区時報の文章には、恐るべきことに筆者名がない。しかし、田中司教様の文章ではないか。

京都教区時報・第85号(1983年6月1日

p. 3

ブラジルのカマラ大司教 来洛

カマラ大司教に一日同行して

 第一の印象と、全印象はこれにつきる様である。

 「こんなやさしいおじいちゃんが、一度平和と社会の不正について論じ、行動しはじめると、どうしてあんな火のかたまりの様な情熱が生じてくるのだろうか」

(…)

 今回の来日は「庭野平和賞」受賞のためであり、京都でも、八坂、西本願寺を訪れ、ごく短かい時間ではあったが、大宮司、大谷法主と会見し、平和のために、同じ宗教者として手を取り合って、努力して行きましょうとの確認がなされた。

 最後にひとこと、大司教のうしろ姿はあのマザーテレサの後姿と似ていてとても印象的であった。

京都教区時報は二年後にもカマラ大司教を取り上げている。

京都教区時報・第101号(1985年7月1日

p. 3

キリスト者に求められている事

カマラ大司教

 ブラジルのレシフェ教区の司教。今年4月定年辞任。飢えや不正義に苦しむ人の代弁者として世界中をまわり、正義と平和を訴えつづける。

 私たちが平和のために積極的に働かないという事は、世界の破滅を招く事につながります。世界の “貧富の差” という事を考えてみると、いくつかの先進国の人口は世界の人口の20%にすぎないにもかかわらず、彼らは世界の富の80%を所有しています。ですから全体の80%の人々は残りのわずかなもので生活しなければなりません。尚、その大国はキリスト教の国なのです。また、それぞれの国の中でも同じような不公平が見られます。強い国の多国籍企業は弱い国の金持ちと契約を結んで、貧しい人々を食いものにしています。そして、不当なその状態を維持しようとしているのです。

 世界の貧しさや飢えに苦しむ人を救うお金がないのではありません。世界の大国は実際には武器の生産に莫大な富を費しているのです。今、アメリカやソビエトは人や国を何度でも殺せる武器を持ちながら、まだ、軍備の拡大をし、神様からいただいた大切な命を滅ぼそうとしています。

 もし、そのお金が世界の貧しさをなくすために使われたら、すべての人がもっと人間らしい生活ができるし、憎しみや戦争の主な原因がなくなり、みんなが平和に暮らす事ができます。キリスト信者は不正の中にあっても、イエズス様と同じ精神で生活する事が大切です。平和と正義が社会のかたすみでも実現するよう、祈ったり働いたりする事が今、キリスト者に求められているのです。

庭野平和財団のパンフレットから。

第一回 庭野平和賞(PDF

ヘルダー・カマラの言葉

 今日、米ソ両国の保有する核兵器が地球上の全生物を何回も抹消できるだけの破壊力をもっていることは、周知のとおりです。にもかかわらず、両国ともあくことなく核兵器を作り続け、その威力はますます高度化しております。
 しかも、このような状況にたまりかねて、軍拡競争やスパイ衛星などに大胆にも批判しようものなら敵に加担していると非難されてしまうのが実情です。
 宗教は心のよりどころであり、経済的利害や党利党略にとらわれることなく、永遠の真理と聖典にもとづき、深い人間的価値を喚起するメッセージを発する力をもっています。正義と平和のために世界の諸宗教が相携えて協力すれば、その影響力は想像にかたくありません。
 われわれが創造主御自身の呼び掛けに感応すれば、神秘的な力によって動かされ、何事にも恐れず立ち向うことができるでありましょう。
 仏教徒の兄弟たちが、真理と恒久の平和にとってなくてはならない正義のために、世界の諸宗教の団結を求めるイニシアチブをとられたことをうれしく思うとともに、敬意を表します。

(庭野平和賞受賞によせて)


 私達は、人類がいまや決定的段階に達していることを認識しています。人類は、まさに地球上の全生物を破滅に導く能力を持ち、また同時に、神の子としてそれに値する生活水準を築く能力を持っています。真の会議をもつためには、おのおのが自己の枠から出て、利己心を克服しなければなりません。おのおのが自己の良心と信念に忠実であると同時に、私達を結合するものを熱心に求め、人類の福祉と神の栄光のために、犠牲をいとうことなく、共に働く決意をする必要があります。

(第一回世界宗教者平和会議における講演から)


 平和は、われわれ一人ひとりの内面の奥深くからはじまるものでなければなりません。しかし、深奥の自己を真に武装解除することのいかに難しいことでしょうか。それにひきかえ、自らを警戒心と憎悪のとりこにすることの何とたやすいことでしょうか。
 世界の若者たちよ、世界各国にいる善意ある人びとの数は想像をはるかにこえます。目を見開いて、そういう人びとの良心を目覚めさせることを君達の役目としなさい。
 世界の諸々の宗教者たちよ、お互いに尊敬しあい、暴力に立ち向い、憎しみと軍拡競争と戦争を廃絶するために力を結集しましょう。

(第2回国連軍縮特別総会における講演から)


 農地改革を行わないならば、農村労働者の非人道的ともいえる悲惨な境遇は永続するでしょう。銀行制度の改革なしには、国の開発は進展しないでしょう。経済制度の改革なしには、富める者はますます豊かになり、貧しい者は苦しみつづけるでしょう。選挙の改革なしには、たとえ自由選挙であっても実態は金力に従属した選挙です。行政改革を行わないならば、官僚機構は公共の活力を損うものでありましょう。

(「平和を作る者の奮闘」から)

これらのカマラ大司教を讃える言葉やカマラ大司教自身の言葉を「うんうん」と頷きながら読み、「感動」までしてしまった人も少なくないかも知れない。

しかし、私は、「それはどうかな」と申し上げる。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」  - 共産主義の目標 -

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