2017.01.09

マーティン・スコセッシによる『沈黙』の映画化 2

スコセッシは脱線したカトリックである

カトリック信者はスコセッシという監督がかつて悪名高い『最後の誘惑』という映画を作ったことを知らないのか ???

『最後の誘惑』(さいごのゆうわく、原題 The Last Temptation of Christ)は1988年のアメリカ映画。

概要
映画監督マーティン・スコセッシがイエス・キリストを悩める人間として、ユダの裏切りを神の使命として描き、物議を醸した作品である。ニコス・カザンザキスの同名の小説にもとづく。
その表題は、十字架に架けられたキリストが、マグダラのマリアとの結婚から多くの子どもをもうけ、最期は普通の人間として死ぬという誘惑があったという解釈に由来する。幾つものキリスト教関連団体から抗議の声があがり、上映反対運動も巻き起こった。

Wikipedia

しかも──私も今回初めて知ったが──スコセッシは、名簿上、カトリック信者である。

だが少年時代は、映画監督ではなくカトリックの司祭を目指していたという。

Wikipedia

Few people know Scorsese planned to become a priest before pursuing film. Raised in a religious home, he attended Catholic school and spent a year in seminary. His life was once solely dedicated to the gospel.

Relevant

スコセッシ自身の弁。

Scorsese has commented, "I'm a lapsed Catholic. But I am Roman Catholic; there's no way out of it."

Wikipedia

情報が確かならば、彼はこれまで五度、結婚したらしい。

Martin Scorsese, married five times, director of the blasphemous The Last Temptation of Christ, and glorifier of mobsters, …

Call Me Jorge...

つまり彼は、脱線した、そして信仰を「自由に考える」ようになったカトリック信者というわけだろう。

遠藤周作はスコセッシではない?──確かに。しかし、このような者に「好かれる」ということ自体が、既に一つの “徴候” である。そう考えなければならない。遠藤周作自身にその “つもり” がなくても、彼が主に関して拵えた「人間化」された物語は “フリーメイソン的” な人たちから確実に「好まれる」ものである。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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